疲れていた男
猫煮
Chordata
ある日、男がホヤになった。
遺伝子検査をしてみれば確かにヒトの肉体なのだが、みてくれはどうみても陸にあがったホヤとしか言いようのない卵型で、薄気味の悪い吹き出物のような突起物がときたま思い出したように口を開く以外にこれといった動きを見せない。男の老いた両親は数ヶ月ほどワイドショーのなかで悲嘆に暮れていたが、やがて世間が興味を失うと嘆く姿が見られることはなくなった。
さて、N氏は鳶職人だった。この道十年の中堅で、先日も新しく経つ戸建ての足場を組んでやったところである。ホヤになった男のニュースを知ったのは、ちょうどその現場での仕事が終わり、腰の熱に不快になりながらも帰宅したその時に流れていた報道番組の中であった。
「N、おかえり。夕食はどうするんだい」
「もう食べてきたよ。電話で言っただろ」
N氏が養っている母親はテレビから目を離さずに彼を迎えたが、N氏は煩わしげに返すとそのまま風呂に入る。湯に浸かりながら天井を睨みつつ、N氏は考えた。
「ホヤになった男だって? バカバカしい。人間がそう簡単に他のものに変わってたまるか。そんなに容易い生き物なら俺がこうやって苦労することもないだろうに」
認知症の母を思うと、N氏は子どもがやるように口を湯面の下まで沈めて、肺に溜まった淀みを泡にして吐き出すことに決めた。そうして泡が波にぶつかって、あるいはその前に弾けて消えるのを無感動に眺めながらこうも考えた。
「しかし、もしもホヤになれたとしたらどれだけ幸せだろうか。俺の仕事というのは同僚たちからの尊敬に応えるだけの作業が求められる割には、端から見れば何をやっているのかわからんらしい。物が落ちるという自然の摂理に抗うということがどれだけ気を病むことなのか、無関心な連中には実感がないのだ」
N氏にはホヤというものがどうにも生臭くて食えたものではなかったので、その分水族館などで岩に張り付いている姿を見ると嬉しくなったものである。そのホヤのように浴槽に手足をピンと張って体のこりをほぐしながら、N氏は口に出した。
「ああ、何もしたくない」
ある日、男がホヤになった。老いた母親はテレビを見ながら、彼の帰りを待っているという。
疲れていた男 猫煮 @neko_soup1732
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