後編:25歳

「王子、箸の持ち方綺麗やな」

 髙良さんがおもむろにそう言う。僕はコンビニの、値引きシールを貼られていた幕内弁当を食べていた自分の利き手をじっと見下ろす。

「そっすかね?」

「育ちよさそーに見えるわ」

「そんなことはないですねー」

 髙良さんは欠けた歯を剥いてニヤニヤ笑った。彼の残された少ない歯は、煙草のヤニで黄色く汚れていた。そのうえ、今まで食べていたコンビニおにぎりのノリがついていた。

「王子はツラもエエし弁も立つからてっきりいいとこの坊ちゃんかと思ったんよな、最初」

「全然中卒ですけどね」

「褒めとるんやで。おかげでこの数年、仕事がしやすかったわ」


 義務教育をかろうじて終えた僕は、「おとな」になり、「特別な荷物を定刻通りに運ぶ仕事」を始めることになった。僕は家を出て、髙良さんのお世話になった。シェアハウスを紹介してもらい、「王子」というあだなを貰い、沢山の仕事をした。仕事をしただけお金をもらえるシステムは極めてシンプルで、わかりやすくて良い。

「女の客を相手にするときは王子って、定石ですもんねぇ」と言った男はインスタントの味噌汁を啜っていた。

遅れても許してもらえるなんて、イケメン様々っていうか。王子のこれまでの人生、イージーモードだったっしょ」

「まさか。針のむしろでしたよ」

「そのツラからハリのムシロなんて言葉が出てくるとびっくりするんよね」

 髙良さんが言った。「何年経っても慣れへん」

「学校じゃ外人って指さされて喧嘩ばっかり、終わったら学校に隠れてバイト行って生活費稼いで、家に帰ったら帰ったで日本語もろくに分からない母親と二人っきり」

「そりゃグレるわ」

「今が一番落ち着いてますよ」

 僕は幕内弁当のゴミをゴミ箱に押し込んだ。



 

 そんな話をした数日後、たまたま、商品を運ぶときに生家の前を通った。僕は母親が庭先に居るのを見て、思わず足を止めた。


 彼女は庭先に木製の椅子とテーブルを出して、そこで食事をとっていた。金色だった髪には白髪が交じり、ハリのあった頬には年齢が刻まれていた。彼女は切ったフランスパンを、スープに浸してふやかし、それをフォークで小さく切って食べていた。

 その場所だけ、その空間だけは、僕の知らない彼女の祖国を思わせた。物憂げな表情を浮かべた初老の夫人が、静かにバゲットを食している。売れない画家が題材に選びそうな風景だった。僕はその光景をぼんやりと眺めた。母親が生きたかった時間がそこにあって、ついに僕には理解できなかった――したくなかったものがそこにあった。


『パンはね――』

『パンはみんなで分け合うもの。仲間や友達のことを“コパンcopain”と言うでしょ』

『だから私はこの硬いパンが好きなのよ』

 母親がフランスパンを切りわけるとき、決まってそう言っていたことを思い出した。ひとりで食事をとる母親に、その面影はなかった。

 どうやって生計を立てているんだろう。今どうしているんだろう? 彼女の様子から読み取れることは何もない。ただ彼女が孤独の中にいるということだけが、僕の目にひしひしと伝わってきていた。


 ふと、彼女が顔を上げた。その青い瞳が僕の顔を捉えると、彼女は匙を取り落として立ち上がった。


安利henri?』

 ヤバい。

『安利! 探したのよ! 今までどこに行ってたの! 私がどんな思いで毎日過ごしていたと!?』

 ヤバい。

『戻ってきて――』

 僕は全速力で家の前から走り去った。与えられていた「王子」の仮面が剥げて、安利あんりとしての人生に引き戻される。運ぶべき商品の事も忘れ、ただ「母親から逃げ切る」事だけを考えた。



――あの大きなオーブンから漂ってくる、パンの焼ける匂い。


 

「王子。案件すっぽかしたってホンマか」

「マジです。済みません。俺の落ち度です」

 僕は髙良さんに頭を下げる。頭上から髙良さんの怒号が響いてきて、やがて僕は地面に頭をこすりつけていた。頭の上から圧をかけてくる髙良さんの硬い靴が、僕の頬を押しつぶしている。

 頭の中では母親の言葉がリフレインしていた。帰ってきて。探したのよ。そんな言葉で揺さぶられるほど柔な男じゃない。そのはずなのに、安利と呼ばれたあの瞬間から、もう僕は「王子」ではいられなくなっていた。

 あんな母親でも、母親なのだ。僕にとっては。そう気づいたときには、すでに遅かった。

「……いま、す」

「はぁ? 足洗うゥ? 何ぬかしとんのやおんどれ! 誰が今まで面倒見てやったと思とんのや!」

 髙良さんの靴底が腹に食い込んだ。

 シェアハウスの面々が出てきて、髙良さんの暴力を止めた。おかげで僕は顔を上げる余裕を持てた。

「学も金もないクソガキを拾ってやったのは誰や、いうてみぃ!」

「髙良さん、です」

「わかっとんなら今の言葉取り消しぃ。今更抜けられると思ってんか」

「……これまで、拾って貰った、恩は、お返ししたつもりです」

「あ?」

「……これからは、俺も一人で生きていきます。いままで、お世話に――」


 返事の代わりに、髙良さんは僕の腹を蹴りつけた。「あかんて死んでまう!」という声が聞こえてきて、それからふつりと僕の意識は途切れた。




 長く世話になった病院を出て最初に向かったのは、母親の住む生家だった。住む場所がないということもあったけれど、本心は母親がどうしているかを確認するためだった。

 僕の生家には父が母のためにこしらえた大きなオーブンがあって、父なきいまは母が一人で住んでいるはずだ。

 呼び鈴を鳴らす前にドアに手を掛ける。いちど躊躇ったのは、髙良さんにやられた傷が疼くからだ。決して、おそれているからではない。

 母親と対面することがこわいからではない。

 意外なことに、鍵は開いていた。


 玄関を上がり、ひろいダイニングスペースと、リビングルームを通っていく。どこにも母の姿はない。庭先を覗いたら、背の高い雑草が生え伸びて、木製の椅子とテーブルを隠していた。

 変だ。と気づく前に――本来僕はここで異変に気づくべきだったのだが――それより先に、声を掛けられた。

「マリーさんの息子さんですか」

 見ると、眼鏡を掛けた黒髪の女だった。僕は瞬時に身構えたけれど、女は警戒を解くように笑ってみせ、そして流暢なフランス語で口にした。

『マリーさんの言ったとおりだった。あの子は帰ってくるって。……長いこと待ってて良かったわ』

『おまえ、一体誰だよ』

『マリーさんの遺言と、この家を預かっている者よ』

 そして彼女は自分が行政の委託を受けていることを明かした。曰く、数年前から母親は行政機関の保護のもとに暮らしていたらしい。

「――遺言、って」

 僕ははっとした。そしてようやく、部屋の中を見回した。ソファ、ダイニングテーブル、オーブン。順番に見回して、どこにも母親の気配がないことを察した僕は、女に尋ねた。

「……聞かせてもらえるんですか?」

「もちろん。貴方には聞く権利があります。もちろんこの家に住む権利もある。今は貴方の持ち物と言うことになっていますからね。実のところ一年前から――」

「一年前?」


 僕は何ヶ月か前の、あの日のことを思い出した。

 じゃあ庭先でバゲットを食べていたあの母親は?

 僕に「安利」と呼びかけたあの母親はなんだったんだ?


 僕が全てにおいて行かれている間に、女は淡々と話を進めていく。

「遺言はたった一言。『安利。私は貴方とバゲットを分け合いたかっただけなの』」

「……そうですか」

「お墓は貴方のお父様と同じところにあります」

「はい」

「詳しい手続きはのちほど」



 埃の積もったオーブンの取っ手に指を滑らせると、分厚い埃が浮いて指に張り付いた。ふわりと床に落ちるそれを見て、僕は、僕自身が、遠くまでやってきたことを悟る。母が死んだ。

 遅れてやってきた衝撃は静かに僕の頭を揺さぶった。死んでいたんだなという納得と、じゃああの母親は一体何だったんだという疑問が同時にあって、それが僕の頭を両側から殴りつけていた。


 コンビニで買ってきたバゲットにかじりつく。セレクトがバゲットなのは気の迷いだ。

「……違う……」

 もちもちと弾力があるそれは、母が焼いてくれたフランスパンのそれとは全く違っていた。

「違う、……違う」

 こんなのは今僕が食べたいバゲットではない。

 もっと硬くて、顎に力を入れないと噛めないバゲットであって、こんなもちもちした軟弱なものじゃない。


 母のバゲットはこんなもんじゃなかった。


 そう思った瞬間、両目からだらだらと分泌液が出てきた。それを涙と認めてはいけなかった。他でもない僕が母を孤独にしたのに、今更、薄れた母への愛着をよみがえらせたところで、何になる? 偽善者。


『私は貴方とバゲットを分け合いたかっただけなの』


 父と母と僕。三人で、一本のパンを分け合って食べていた頃の事を思い出して、僕は静かに膝を抱えた。いつまで経ってもなくならないコンビニのやわらかなフランスパンが、手の中から転がり落ちた。


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Rの余韻 紫陽_凛 @syw_rin

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