Rの余韻
紫陽_凛
前編:15歳
僕の生家には、父がフランスから嫁いできた母のためにこしらえた大きな、大きすぎるオーブンがある。若い母はそれを使って沢山のフランスパン、バゲットを焼いていた。僕は小さい頃、それが好きだった。好きだったんだ。ああ、過去形だよ。
『小麦が違うから、
家の中で母はフランス語を使った。父も僕もそれにフランス語で応じるから、母はいつまで経っても日本語を覚えられなかった。もし父が数年後に癌で早世すると分かっていたら、僕は、家の中でまだお姫様気分の母親に、無理矢理にでも日本語を覚えさせたに違いないのに。
母を支え甘やかしていた父が突然居なくなってから、僕は大変な苦労をした、と思う。自分でこういうことを言うと、なんだか被害者ぶっていていやだ。でも、日本語をまともに解さない母親を抱えて(普通逆じゃない?)、十才の男の子が必死に通訳をするのを想像するといい。ありとあらゆる手続きを、僕は父方のおばあちゃんと協力しておこなった。母はおろおろと僕を見下ろすばかりだった。父方のおばあちゃんはそんな母親に対してひどく白い目を向けていた。そんな女の血を引いている僕に対しても同様だった。間に挟まれて――被害者面のひとつも、したくなる。
だから僕はもう、僕の母親が好きじゃない。
日本で生きていくと決めたなら、日本のことばを話すべきだし、日本の風習にしたがうべきだし、自らそれを獲得しに行かなきゃならないと思う。若い母は僕に寄りかかりすぎたし、僕は僕で母を支えすぎてしまったかもしれない。でも、僕には母親しか居なかった。他にすがる相手なんか居なかった。だから、そう、仕方なかった。
おかげで今も母親はまともに日本語を話せないし、フランス語とぐちゃぐちゃの日本語を交えて喋る。僕はそれがいやでいやでたまらない。
「今日は晩飯いらない。カップラーメン買ってきたし」
「カプ、らーメン」
特に、母親の放つ「R」の音が嫌いだった。舌を歯の裏につけて、喉から発音するフランスの「R」は、なまりがきつくて、いつもそこだけ不自然に浮く。
「カップラーメン! 何回いったらわかるんだよ!」
僕は言いながらケトルのスイッチを入れる。数分経てば湯が沸く。カップラーメンの容器に熱湯を注いで、僕の今日の晩ご飯はこれでおしまい。簡単だ。日本の文明に万歳。
母がおずおずと、焼いてあったフランスパンを手に取った。
『バゲット、……一緒に食べない?』
「日本語で喋って!」
十四の僕は母親をにらみつけた。母親はひるんだように僕を見上げた。
「バゲット、めちゃくちゃ嫌いだから、もういらない。俺、日本の食事だけ食べる。日本人だから。日本の食事以外、食べない。わかった?」
簡単な日本語で伝えると、母はようやく理解したらしい。青い瞳が曇り、うつむいた。
「……わか、た」
母はそれ以来、僕の前でバゲットを焼かなくなった。代わりに白米を炊いて、ネットのレシピを見て、それを翻訳にかけて、おかずを作るようになった。母はつやつやの白米をひどくまずそうに食べた。「白米を食べるためにおかずを食べる」という日本式の食べ方を、彼女は知らないのだった。だから母親にとって、おかずはただ味の濃いもの、白米は味が薄くてまずいもの、らしかった。僕は母親に日本の食べ方を教えたけれど、それは彼女にとって押しつけられたものであって、ちょっとやそっとでなじむものではなかった。
若かりし父が、母のためにオーダーした大きなオーブンに、分厚い埃が積もり始めるのがこの頃だ。
「にほんご、うまく、はなせなくて、ごめんなさい」
「別に」
「ごめんなさい」
「いいって、もう」
「ごめんなさい」
「……うっとおしい」
母親は一転、僕をきょとんと見つめた。罵声すら通じないこのお姫様に、どうしたら僕のいらだちが伝わるか分からず、僕はただ食べ終えた食器の上に箸を置いて「ごちそうさま」と席を立った。母親の前には、まだ、割れたぶかっこうな目玉焼きのプレートと、半分以上残った白米の茶碗が残されていた。ぶきっちょな持ち方の箸を、文字通り握りしめて、母は静かに泣き始めた。僕は冷めた気持ちで、号泣する母親の傍らで次の、割のいいバイトを探し始めた。
大きなキッチンの大きなオーブンは、静かに冷え切っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます