第10話鼻腔を抜けるこの香りは

国の統治や外交は面倒だ。社交界に群がる女性たちの世間話も、俺には合わない。そんな煩わしいことはエリックに任せ、俺には感覚が研ぎ澄まされる戦場がふさわしい。――適材適所というものだ。


執務室を出たアレクサンダーは、王城の奥深く、訓練場へと続く長い廊下を歩いていた。磨かれた大理石の床、整然と並ぶシャンデリア。コツコツと静かに響く足音。その整然とした空気に包まれながらも、ふと漂う一陣の香りに気づき、彼は足を止めた。


「……なんだこれは? 花の香りか?」


初夏を目前に控えた王城には、清掃された噴水や池から、土のぬくもりと水の清涼な香りが運ばれてくる。だが、今日彼の鼻をくすぐるのは、それとは違う、どこか異質で複雑な香りだった。まるで、切りたての花束や、上品な砂糖菓子を思わせるような、ほのかで奥深い香りが、鼻腔から脳天の奥まで突き抜けるように感じられる。


心の奥で小さな疑問が芽生える。ただの香りではない。これは、普段張り詰めている自分の感覚を一瞬で緩めさせるほどの、不思議な落ち着きを伴う香りだ。


アレクサンダーが「猟犬」と呼ばれる所以――それは、常人よりも研ぎ澄まされた五感にある。幼少期はその鋭敏さに苦しめられることが多かったが、騎士団に入ってからは次第に慣れた。汗や血の匂いには辟易するが、社交界の女性が纏う人工的な香水や、計算高い声色、澱んだ空気感に比べれば、戦場の野生味ある匂いの方がよほど分かりやすく、安心できる。


――この香りは、人工的なものか、それとも自然なものか?


考えながら、彼は匂いの源を辿っていった。王城の準執務エリアへ足を踏み入れると、埃一つない清潔な部屋が並んでいる。その空間に近づくにつれ、香りは次第に濃くなり、微細な変化を見せ始めた。


(……ここは、かつて王太子妃だった叔母上の執務室か。今の持ち主は、叔父上が言っていたバーベナ侯爵令嬢か? それとも男爵令嬢の?)


そう考え込んでいたが、ふと我に返る。


(……俺は今、令嬢の部屋の前でウロウロしているのか?)


場違いな行動に気づき、アレクサンダーは仕方なく引き返し、訓練場へ向かった。


――訓練場に着くと、新人たちが基礎訓練の疲労に倒れ、あちこちに散らばっていた。ベテランたちは飄々としているが、その中で、バロンが木剣を抱えながらしゃがみ、汗を拭っていた。


アレクサンダーは、バロンのもとへ歩み寄る。


「バロン、今日はいつもと違う香りがしないか? 何か、甘い……」


息を整えながら、バロンは苦笑する。


「香り? 俺は猟犬じゃねえし、まだ息が整ってねえんだ。で……どんな香りだ?」


バロンは、謁見の後に戻ってきたアレクサンダーが、予想に反してそんな質問をしてきたことに驚いた。だが、同僚のいつもと違う様子に気づき、真剣に聞く姿勢をとる。


アレクサンダーは、少し間を置いてから語り始めた。


「最初にふわりと漂ってくるのは、柔らかな甘さを湛えた香りだ。まるで朝露をまとった花々がそっと開く瞬間を閉じ込めたような、優しく包み込むような匂い。しかし、それは静かに形を変え、やがて夏の草原へと誘う。裸足で駆け抜ける緑の風、陽光に揺れる草葉のざわめきが香りとなって鼻腔をくすぐる。そして、次第にそれは深みを増し、まるで胸の奥にそっと染み込む幸福感へと変わる。最後に残るのは、ほろ苦くも甘い、どこか癖になる余韻……それが、不思議と心を掴んで離さないんだ。」


バロンは目を丸くした。


「……お前、本当にアレクサンダーか? いつの間にそんな、香りを流暢に表現できるようになったんだ? そんなに香りに興味があったのか?」


普段は口数の少ないアレクサンダーが、まるで詩を紡ぐかのように語る姿に、バロンは呆然とするしかなかった。


「どんな香りかと聞かれたから、正直に感じたままを伝えたまでだ。それに……落ち着くんだ」


アレクサンダーは淡々と述べる。が、その言いように、今度はバロンが口をあんぐりと開ける。


「アレクサンダーが、癒しを感じている……? お前、本当にそんな感性を持ち合わせてたのか? あの戦場で、皆が血と雨の匂いにまみれながら耐えていた中、誰よりも嗅覚が鋭いくせに、黙って寝袋にくるまっていたお前が……」


バロンは、訓練の疲れすら忘れ、過去の記憶に心を揺さぶられる。しばらく沈黙した後、バロンは肩を軽く叩き、冗談混じりに言った。


「……もしかして、調理場で新作のお菓子でも作ってたんじゃねえか? 後で見に行ってみろよ」


「……ああ」


どんな細かい情報でも持っているバロンなら何か知っているかもしれない、と思って聞いてみたが、結局、有益な情報は得られなかった。


香りの根源を掴めないもどかしさ。だが、それ以上に――この経験は、彼の中に新たな感性を呼び覚ましていた。


その時、訓練再開の号令が響く。


「ほら、行くぞ。今日は団長の機嫌が悪いんだ」


現実の厳しさが、再び二人を引き戻す。アレクサンダーは、まだ胸に残るあの香りを気にかけながらも、訓練に参加した。

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婚約破棄された鉄面皮の調香師は、猟犬騎士に溺愛される 佐藤純 @kuro_cco

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