第6話 第一発見者
二十年という時の経過は、実にあっという間だったような気がする。
しかし、それは、
「いつもそばにいる人に変化がない時」
ということになるのかも知れないと、清水警部はそう感じていた。
清水刑事は、二十年前の事件から数年後から、所轄を転々とするようになり、その間に、昇進試験を受けて、今は警部に昇進していた。
ただ、もう少しすれば、
「定年退職」
ということで、本人としても、
「その時を静かに迎えられることを願っている」
ということであった。
警察の仕事というのは、
「我々が暇だということは、それだけ世の中が平和だということだ」
というので、
「暇であることを半分は願っている」
と言ってもいいだろう。
確かに何も好き好んで、危険な現場に足を踏み入れる必要もない。
かと言って、
「刑事になった以上、それなりの仕事というものをしていきたい」
という思いもあったのだ。
実際に、いくつもの署を回っていると、比較的暇な署もあれば、立て続けに事件が発生するところもあった。
その都度、
「臨機応変に対応する」
ということで、二十年間を過ごしてきたが、今になって思うと、
「気になる事件というのも、結構あったりしたものだ」
ということだった。
ただ、心残りだった事件の中で、
「鈴木刑事が辞めるきっかけになった事件」
というものが引っかかっているというのも事実だった。
ただ、事件としては、疑問こそ残りはしたが、
「平和に決着した」
ということでは、不満があるわけではないのだが、自分の中にある、
「納得」
という意味で、どうしても、納得できないことがあり、それが、
「理不尽だ」
ということになるのだ。
さすがに、鈴木刑事のように、
「理不尽だから、刑事を辞める」
というところまでは思わなかった。
確かに、鈴木刑事のように、若さに任せて、一直線に物事を考えるということはなかった。清水刑事も若い頃はあったわけだし、ある意味、
「鈴木刑事に比べて、熱血刑事というものに、子供の頃憧れたりもしていた」
と言ってもいい。
鈴木刑事と、清水刑事は、年齢としては、15歳近くは離れていた。
それは、時代の流れから考えて、その時の、15歳差というものが、どれほどのものだったのかということを考えると、
「激動の15年」
ではないかと思うのだった。
それは、
「バリバリに刑事として現場の仕事をしている時期」
というのが、ちょうど、20世紀と21世紀になってからでは、科学の発展という意味では21世紀の方が大きいのかも知れないが、20世紀末期に、
「パソコンの普及」
「DNA鑑定などの爆発的な進歩」
というものがあったからこそ、今の科学捜査が確立したわけであり、
「確立期」
なのか、
「発展期」
なのかということで、その進歩の基準が違うということで、
「鈴木刑事が、まだまだこれからだった」
ということで、それも含めて、
「残念だった」
と思わずにはいられないのであった。
鈴木元刑事の遺体が発見されたのは、倉庫が並ぶ一帯であった。
同じ県内ではあったが、元々二人が勤務していた警察署からは、かなり離れている。
どちらかというと、都心部のベッドタウンと言ってもよかったのが、二人で勤務していた二十年前の所轄だった。
しかし、二十年という差があるとはいえ、今の所轄は、
「犯罪件数は決して少なくはない」
と言われるところで、実際には人口も面積もベッドタウンだったところに比べても多く。それは二十年前から、この二つの市の力関係は変わっていないことだろう。
ここは、県庁所在地からは遠いところであるが、人口は三十万人以上いて、
「県内有数の都市」
と言ってもいいだろう。
昔は、炭鉱で賑やかだったところであるが、今ではすっかりその顔を変えていて、
「観光やレジャー」
というものが、発展しているというところであった。
それでも、
「順風満帆だったわけではない」
何といっても、炭鉱がなくなった時というのは、人口が極端に減り、下手をすれば、三割くらいも減った時期があったくらいだ。
さすがに、市も県もその対策には頭を抱え、
「商業都市というよりも、レジャー、観光でいこう」
というスローガンから、誘致合戦を繰り広げた。
それが、最初は、
「バブル期の、テーマパークブーム」
というものに乗っかり、産業が豊かになったのであった。
「町おこしの成功例」
ということで、全国から取材に来たり、自治体が、
「モデルにしたい」
ということで、話を聴いたり見学に来たりということで、ある意味、有頂天だったという時期であった。
だが、それも、
「バブル崩壊」
というもので、悲惨な状況に追い込まれた。
実際にバブルというものは、
「目に見えない」
あるいは、
「実態のない泡のようなもの」
ということで、
「バブル経済」
と呼ばれたのだ。
実態がないので、歯車が狂えば、取り返しがつかないことになるということくら分かりそうなものであるが、それはあくまでも、
「結果論」
というもので、実際に、そのバブルの崩壊によって、
「誰もが初めて気づいた」
ということだったのだろう。
今であれば、その全体像が、歴史としての、
「過去の事実」
として、検証もされたことで、
「何が悪かったのか?」
などということも、言われているだろうが、その理由に関しては、ほぼ大体のバブル経済と、その崩壊というものを経験した人には、分かるというものである。
その後、少しずつ復活していく中で、また世界の問題として、
「時々発生する。金融機関などの破綻によっての、恐慌というものがあることで、またしても、底辺に追いやられることになるのだ」
しかも、
「日本の社会は、世界に類を見ないと言われるような、独特な体制を持っている」
と言われている。
それが、
「終身雇用」
というものと、
「年功序列」
というものであった。
これは、昔からの、
「人間と企業の関係」
ということで、戦後復興の中心にある考え方だったと言ってもいいだろう。
鈴木元刑事の死体が発見されたのは、三日前のことだった。ここ10年くらいの間に、歴史という学問が、革命的に発展したような気がするのは、一部の学者だけのことではなかった。
何といっても、今まで言われてきた、
「歴史上の事実」
とまで言われてきた、神話のようなことが、最近の発見などで、ことごとく、
「迷信である」
とまで言われるようになってきたからだった。
実際に、最近では、毎年のようにいろいろな斬新な発見が行われるようになった。
大きなものとして、
「聖徳太子はいなかった」
という説である。
肖像画も、今分かっている時代考証とは違うもので、実在したと言われる時代に、
「あるはずのないもの」
があるということから、肖像画は、ウソであるというウワサが流れたことであった。
聖徳太子というと、
「冠位十二階」
「十七条憲法」
などで有名で、何といっても、かつての、
「一万円札や五千年札の肖像」
ということで有名だ。
さらには。前述の
「十人のまったく違った人が同時に話をしたことを聴き分けたと言われる聖徳太子のようではないか?」
という逸話が一番馴染みのある話ではないだろうか?
それが嘘だということで、今では、
「厩戸王」
と言われている。
さらに、有名な肖像として、かつての、幕府の署代将軍の、鎌倉では、
「源頼朝」
足利幕府では、
「足利尊氏」
と。それぞれに肖像画が残っているが、それもウソだったというではないか。
「源頼朝」
が、足利尊氏の弟である、
「足利直義ではないか?」
と言われ、
「足利尊氏」
が、自分の配下で、執事の職にあった。
「高師直ではないか?」
と言われている。
さらに、鎌倉幕府の成立年ということで、今までの、
「いいくにつくろう」
というのが実は違うという話もある。
こちらは、あくまでも歴史認識ということで、解釈がいろいろある中で、それでも、今までの言われていることでは、歴史認識が許さないということになったということで、センセーショナルな歴史解釈の変更であった。
そういう状態が続いているせいか、
「今まで歴史が嫌いだ」
と目されてきた女性たちが、歴史を好きになるという現象が起こってきたのだ。
そんな彼女たちを、
「歴女」
と呼ぶようになり、
「歴史人口と言ってもいい人たちの人数が爆発的に増えてきた」
と言ってもいいだろう。
同じ歴史を勉強する人の中には、
「歴史を学問として勉強する人」
「考古学として、実際に発掘など目覚める人」
「名所旧跡を渡り歩いて、歴史に実際に触れようとする人」
とそれぞれがいる。
今回の死体の発見をした人は、その中でも一番最後の、
「名所旧跡を見て歩く人」
ということで、その人が入り込んだのは、
「戦国時代の山城址」
であった。
お城というのは、日本独特の文化というものであり、時代としては、古くは、
「古代の山城」
ということで、飛鳥時代、つまりは、
「今から、1300年くらい前から続いている」
と言われている。
大化の改新のあたりで、朝鮮半島で、日本と友好な関係にあった百済という国が、近隣の、新羅、高句麗の連合軍に攻め込まれ、滅亡の危機に追い込まれていた。
その百済の使者が、日本に救援を求めてきたのである。
当時の日本は、
「大化の改新」
の真っ最中であり、クーデターによって滅ぼした蘇我氏に代わり、当時の天皇である、
「中大兄皇子の母親である斉明天皇(皇極天皇の重祚)や、クーデターを起こした中臣鎌足、中大兄皇子らによって、百済救援が決定した」
ということであった。
しかし、実際に朝鮮半島に兵を送ったが、日本軍は、
「白村江の戦い」
にて大敗を喫したことで、今度は、
「朝鮮からの侵略の危機」
に襲われたのだ。
そこで、筑紫の国に、せめてくることを見越して、石塁を作ったり、山城を作ることで、その侵略の防衛に賭けたのだった。
実際にはせめてくることはなかったが、その頃の山城というのは、戦国時代の山城とは違い、そのほとんどは、砦のようなものでしかなかったということである。
それが、室町時代初期の南北朝の時代に、守護の砦ということで、大名が砦を気づいたのが、
「戦国時代において自分たちを守る」
ということのための城。
ということになってきた。
だから、いわゆる、近代城郭と呼ばれるものはまったくなく、それこそ、戦国時代でも後期になってくると、やっと、平城や、平山城というものが築かれてくるのだ。
そもそも、平地に、武家屋敷があり、敵が攻めてくると、山に出城を作ることで、、そこに籠城するというのが、戦国時代の城だった。
だから、守るための土個や虎口と呼ばれるものの中に、櫓を組んで。そこから弓矢などで、応戦するというのが戦闘スタイルだった。
それが、時代が進んでいき、
「鉄砲伝来」
などの影響で。
「戦のやり方が革命的に変わった」
ということで、実際の戦が、どのようなものになったのかというと、
「城が平城になり、城郭の中に屋敷や櫓を立て、さらに、中心には、天守がある」
という形になってきた。
天守がある城というのは、最初は珍しかったが、戦国大名の権威を示す必要があるということで出てきたのが、天守建設であった。
守りには、内堀、外濠という、
「水濠」
というものがめぐらされ、そこから大手門を渡り、城内に入るというものだ。
そして、濠から城に向かっては、石垣が組まれるようになり、敵の侵入を食い止めるということであった。
そして、石垣の上の主要な場所に、櫓という見張りがあり、絶えず城から、侵入者を警戒していたというものである。
それを、今では一般的に、
「城」
というので、人によっては。
「天守がなければ城ではない」
という大きな勘違いをしている人がいるが、そんなことはない。
「城というものの役割を考えれば、おのずと分かってくる」
というものであろう。
今回の
「死体発見」
の舞台となった山城は、元々は、南北朝時代に築城されたものが、
「戦国初期において、重要な合戦の舞台になったところ」
ということで、ひそかにファンの間で注目されているところであった。
一応、
「県の重要文化財」
ということで保護されてはいるが、平城のような、
「観光地」
というわけではなく、まさに、
「オリエンテーリング」
にでもいくかのような場所だったのだ。
そこでは、
「道なき道をいく」
と言ってもいいところで、それなりに道はできてはいるが、その道の奥に進むには、
「登山の装備をしないといけない」
というくらいで、靴も安全靴が必要であったり、ヘビなどの対策もしておかないといけないようなところであった。
だから、
「ここに入り込むのは、よほど歴史が好きな人で、山に慣れている人でないとなかなか来ない」
ということもあり、死体の隠し場所としては、好都合だと思ったのだろう。
しかし、
「死体を隠すとしては、中途半端だ」
と、歴史好きの人は思うことだろう。
一応は、山城の探索ということでは、この辺りでは有名なところであり、ちょっと考えたり、調査をすれば、
「結構、歴史好きが集まってくる」
ということが分かりそうなものだった。
それを考えると、
「どうしてここに?」
と考えた歴史好きの人は、
「死体を発見してほしいけど、少しでも遅らせたい」
という思いがあったのではないか?
と感じたのだ。
そこで、
「そのことを、警察に知られたくないという思いが一番の目的だったのではないだろうか?」
ということで、死体の隠し場所をここにしたのだろうと思ったのだ。
死体は、白骨にもなっていなかった。もう少し経てば、白骨化していたかも知れないということであるが、歴史好きの人から思えば、
「今回の死体の発見は遅かったくらいだろう」
と思った。
新聞に載っていた内容で、
「死体の腐乱状態から、殺害されたのは、数か月前だ」
ということだったが、彼らからすれば、
「あの場所にあって、どうして他の人が見つけなかったのだろう?」
と思うと、
「途中で死体を動かしたのか?」
と考えた。
つまり、
「殺害からしばらくは別の場所にあり、ほとぼりが冷めた頃に、この場所に移してきたのではないか?」
という考え方であった。
しかも、
「ここであれば、歴史ファンや、お城ファンが、ひっきりなしに訪れる」
ということが分かっている。
それも、皆が分かっているわけではなく、歴史ファンの一部が分かっていて。しかも、「あくまでもご当地だ」
ということになるからであろう。
それを考えると、
「犯人が何を考えているのか、刑事の中に歴史ファンがいれば、ある程度分かる気がする」
ともいえるのだった。
ただ、警察も鑑識の見分によって、
「死体が動かされたかも知れない」
ということは分かっていた。
しかし、
「その理由に関しては、よく分からなかったといってもいい。
「死体発見において、少し奥の方に入る気持ちがないと見つからない」
ということもあり、これは、歴史ファンだったら、簡単に見つけられるというもので、あくまでも、警察の認識としては、
「ここに捨てて、死体が発見されないようにした」
という認識しかないであろう。
ただ、さすがの警察も、
「どうして穴に埋めなかったのだろう?」
という思いはあった。
だから、
「いずれは発見されなければいけない」
ということを犯人も考えている。
という結論にはなるのだろうが、なかなか、
「通り一遍の捜査しかしない」
という警察であるから、歴史ファンと、捜査員との間に、
「微妙な考え方の壁がある」
と言ってもいいだろう。
しかし、実際に、その壁は、想像以上に大きなものだったのではないだろうか?
それを、犯人は分かっていて。そこが最大の理由だったのではないかと、第一発見者は考えていた。
そもそも、歴史ファンというのは、
「古代へのロマン」
ということで、考古学などのように、
「発掘したり、発掘されたものに、思いを馳せ、想像力を豊かにすることが、学問だ」
と思っている。
その学問というものが、歴史だけではなく、その他にも波及してくると言ってもいいだろう。
それが、
「ミステリー」
であったり、
「SF」
などへの思い入れだったりすると考えられる。
この時死体の第一発見者であったのは女性だった。
彼女は、元々は、
「お城ヲタク」
というものから、歴史に興味を持ったのだが、最近では、
「考古学」
というものにも興味があった。
今回発見した、
「古代の城の探索」
というのは、ただ単に、
「山歩き」
というのが目的というよりも、
「城が建設される前の歴史の探索」
ということで、特に、
「砦のあったあたり」
のさらに過去というものを研究しようと考えていたのだ。
もちろん、
「大学の研究員というような、公式に発掘ができる立場ではないので、個人としての発見ができる程度の、遊びに毛が生えた程度しかできない」
というのは分かっていた。
それでも、
「何とか少しでも何かを発見できれば」
という好奇心から始まったことで、今のところ、独自に勉強して、検定に合格し、
「いずれは、どこかで研究員にでもなりたい」
という夢を持っていた。
今の制度では実現は難しいが、できるだけ近づきたいということで、山歩きは欠かすこともなかったのだ。
そこにもってきて、降ってわいたような
「死体発見」
せっかくだから、
「考古学への挑戦」
という意味で、自分なりに、想像力を発揮して、この事件を自分なりに解釈していこうと考えたのだった。
ただ、情報は、あくまでも、
「警察のマスコミへの発表」
というだけのものでしかなかったが、それでも、発想としては、事件解決が、自分自身で、ありえないことではないと思っていたのだ。
だから、警察の人に、自分の意見を聞いてもらおうとして、第一発見者という立場から話に行ったが、案の定、誰もまともには聴いてくれなかった。
しかし、それを、聞いてくれたのが、一人の、
「おじいさん刑事」
と言ってもいい人だった。
その人は、いかにも、
「好々爺」
という感じの人で、それこそ、時代劇に出てくる、
「黄門様」
の様相を呈していた。
いつもニコニコしていて、一見。刑事には見えないということで、
「定年前で、今までも、そんなに気合を入れて捜査もしてこなかったんだろう」
と思い、気軽に話をしたのであった。
その刑事は、実は清水警部であり、実際に、定年が秒読み状態ということで、実際の捜査からは、ほとんど外れていると言ってもよかった。
数年前までは、
「捜査本部ができると、本部長を歴任してきた経験がある」
という警部である。
実際には、後進に道を譲って、あとは平和に定年を迎えるだけということで、まわりもそして、本人も考えていたようだ。
だから、
「出しゃばったことはしないようにしよう」
とも思っていて。そもそも、
「警察の縦割り、そして、横の確執」
というものにうんざり来ていたこともあり、
「もうそんなことを考えなくてもいいんだ」
と思うと、それまでの重い荷物を下ろすことができると思い、気が楽になっていた。
ただ、一つ心残りだったのは、
「自分が教育係として携わった中で、唯一退職していった、鈴木刑事のことが気になっていた」
ということだ。
その気になっているということは、誰にも悟られないようにして、この気持ちは一人墓場まで持っていくようにしよう」
と思っていたのであった。
実際に、鈴木刑事が警察を辞めてから、連絡も取っておらず、
「どこに行ったんだ?」
と気にはしていたが、
「自分にも警察官としての使命がある」
ということで、大っぴらにこだわるわけにはいかなかtったということだったのだ。
それを思えば、
「警察なんて、早く辞めたい」
と思うようになり、それまであった充実感というものが、すっかり鳴りを潜めるという感覚になってきたのだった。
そんな心情を知っていた清水刑事は、鈴木刑事の無念さが自分のことのように分かった。
だから、逆に、
「鈴木がうらやましい」
と思ったくらいで、それは、
「先を越された」
と思ったからだった。
ただ、鈴木刑事が、自分の気持ちに正直になってくれたおかげで、清水刑事は、
「自分が何があっても、刑事としての道をまっとうしなければいけない」
ということを考えなければいけないと心に決めたのだった。
それは、汚れ役であって、他の人たちのように、
「逃げようとすれば逃げられる」
という立場ではなく、
「自分が逃げようとすると、まわりに迷惑がかかり、自分の気持ちに正直にはなれない」
ということであった。
「汚れ役というものは、誰かが引き受けなければいけない」
ということであるならば、その役目は自分が引き受けると思うようになった。
そして、それは、自分が、鈴木刑事に教えようと思っていたことでもあった。
だが、結局は、筋気刑事の純真な心をもったいないと思うようになったことで、結局は、
「清水刑事の負け」
ということであった。
ただ、
「この負けというのは、すがすがしい負け」
といってもいい。だから、清水刑事は、辞めていった鈴木刑事を、
「名誉の殉職」
と考えるようになり、
「自分は、彼の気持ちを肩身として、自分の信念とする」
と考えるのであった。
だから、実際に鈴木刑事が殺されたと聞いた時は、
「何としても、弔い合戦とを」
と感じた反面、
「やっと、仏になったか」
とばかりに、不謹慎ではあるが、
「自分の中での一つの整理がついた」
と考えるのであった。
ただ、それからしばらくして、今度は、
「牧田元刑事が殺された」
ということになり、その理由は分からなかったが、
「二人の元警察官が殺された」
ということに、大いなる関心が、世間では話題になっていた。
何しろ、もう二十年以上も前の事件、昔であれば、殺人でも、時効が成立しているという期間である。
とてつもなく長い期間なので、その間に、数えきれないほどの事件があり、日々それに追われているので、誰が、鈴木刑事と牧田刑事の関係を分かるというものか、
しかも、二人とも元警察官と言っても、二人ともが二十年前に辞職しているのだ。
「辞めた時期が近い」
ということと、
「同じ所轄の人間」
ということで、話題になったのだが、
「辞めた時期が近い」
と言っても、一年も離れていないというだけで、しかも、二人は課だって違っていたではないか。
しかも、かつての二人ともを知っている数少ない人に聞く限り、二人の間に接点はないという。
あくまでも、距離的には微妙であるが、
「まったく関係ない」
と言い切れない思いが清水刑事にはあった。
鈴木刑事の殺されていた現場においては、
「何か策が催されている」
ということであったが、牧田刑事が殺されたところにおいては、
「別に何か細工が施されているわけではなかった」
ということである。
しかも、
「最初に死体が発見されたのは、牧田刑事の方が先で、鈴木刑事は後だった」
牧田刑事の死体発見というのは、鈴木刑事の死体が発見される数か月前だったのだ。
それは、
「死体が発見された時期としては、数か月も離れているので、普通であれば、連続殺人などという発想は浮かんでこないはずである」
しかし、司法解剖によって、二人の死亡が、
「実は牧田刑事の方が後で、鈴木刑事の方が先だった」
ということになると、余計に、
「連続殺人ではないか?」
という発想が大きく頭をもたげてきたのであった。
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