未来へのチャット

むっしゅたそ

ライブ

 僕が学校に行けなくなったのは中学二年生の二学期が終わった頃だった。気位が高い僕には、それはとても屈辱的だったし、今まで負けたどの喧嘩よりも、敗北感に支配されていた。負けた喧嘩も、背中を向けて逃げたことは一度としてなく、許してくれと詫びを入れたこともなかった。滅多打ちにされながらも、拳は握ったまま、常に相手に立ち向かっていった。そして常に大人たちやクラスメイトが止めに入って終わった。

 しかし不登校は、喧嘩のように分かりやすい敵がいなかった。だからこそ、精神的にかなり堪えた。「アイツは不登校になったんだ」と人影に学校で噂される想像をしては、叫び声を上げて部屋の壁を殴った。テレビを点けると、芸人たちがコントをしていた。いつの間にか、僕は笑うことができなくなっていた。

 定時制高校に入ったが、引き籠もり傾向は強まるばかりだった。故に友達と恐る恐る酒を飲んでみたり、恋人とデートをしたり、共通のゲームなんかで競い合ったりするような青春は僕には与えられなかった。

 おまけに僕は億手で、気になっている女子から、関わりを絶つ悪癖があった。――それが原因となり、「気になっている女子」が「好きな人」に昇格することはなかった。

 テレビが嫌いになった代わりに、ノートパソコンでインターネットをするようになった。両親は実に寛容で、そんな自堕落な生活を咎めなかった。

「なあ母さん、僕ってこのままだとダメだよな、普通に考えて……。いや、うん駄目だとはわかってるんだけど」

 僕は母に愚痴をこぼした。

「竜太郎は小さい頃からロクに授業受けてないけどやけに良い点ばっかり取ってたし、友達も沢山おった。父さんに似てハンサムだし、いくらでもやりようはあるよ」

 母はそう言ったが、なぜかとても悲しくて、部屋で泣いた。――既にプライドはズタズタに切り裂かれていて、負けん気の強さも折れかかっていることを自覚した。

「……ちくしょう」

 本当は敵なんてどこにもいないと、うすうす自覚していた。ただ間が悪かっただけだ。籠れば籠るほど、闘争心は薄れていった。

 学力は、長いブランクのせいでもう取り返しがつかない。そして人生は積み重ねが大事で、それ故に周囲との差は広がりこそすれ、決して埋まらないものだということも理解できた。だから一生差別されながら生きていかなければならないかもしれない。けれど現実を直視し続けられるほど僕は強くない。

 僕はせめてタイピングくらいできるようになりたいと思って、チャットルームに入り浸った。

 カランコロンと鈴の音が鳴る。

 HN:リュウさんの入室です、と過疎状態の音楽サイトとのチャットルームが表示された。リュウとは本名の竜太郎から取ったハンドルネームである。今日は、僕の他に一人しか居ない。

 HN:NANAさんと、いつものようにインディーズ音楽の話題で盛り上がる。フラッシュ技術の進歩により、シンプルなチャットルームは人気がなくなった。しかし仲のいい人とだけ話したい僕には好都合だった。

 NANAさんは、年齢的には一個下、十五歳で、このチャットルームに随分前から来ているそうだ。ラストアライアンスとレミオロメンをインディーズの頃から聴いている。僕もラストアライアンスとレミオロメンはインディーズ時代の曲だけ聴いていた。というのは、メジャー化すると、強烈な個性はマイルドに調整されて、丸くなってしまうからだ。

 とりわけインディーズ時代の「ライブ音源」は最高だ。チャットルームではそのファイルをやりとりしながら、会話を楽しむ日々が続いた。タッチタイピングができるようになったころには、愛用のチャットルームは更に寂れ、話し相手が遂にNANAさんだけになった。

 NANAさんはインディーズに実に詳しく、話も面白かった。やがて、実生活の話もするようになっていった。例えば寿司のネタはなにが好きか、自販機のジュースでよく飲むのはどれか、どの教科が好きだったか、などなど、話題はどんどんプライベートになっていった。気がついたら一年が経過していた。

 僕は自信がついたら、NANAさんをライブコンサートに誘いたいと思っている。そのために、筋トレを毎日して身体を絞り込んでいた。居酒屋で週二回アルバイトのシフトを入れて、コミュニケーション能力をびくびくしながら鍛えている。

 自らを落伍者と卑下した過去は、現実に集中することだけで眼前から消えていくことに気がついた。そして現実世界には、僕を指さして笑う連中がいないことに気がついた。とんだ被害妄想だった。

 腫れ物に触るように、僕との交流を避けていた父も、定時制はどんなところか、好きな女子はできたか、そういったことを聞いてくるようになった。その話題は適当に流したが、父に認められたような気がして少しだけ嬉しかった。

 ――その夜、僕は決意した。

「NANAさんをラストアライアンスのライブコンサートに誘おう」

 毎日チャットに張り付いているような人だから、絶対普通の女子ではない気がするし、垢ぬけている雰囲気もないが、それは気にならなかった。

 僕は深呼吸して、汗ばんだ指でタイピングした。

「NANAさん。ラストアライアンスのライブチケットが手に入ったよ。二枚あるけれど、僕の友達にはこれを聴く人は居ないし、せっかくだったらより分かってる人と行きたいなと思ってNANAさんを誘うことにしたよ。どっちみち、来る人が居なければ捨てるものだから、タダ飯みたいなものだと思って処理してくれると、個人的にはとても嬉しい」

 大嘘もいいところである。この日の為に居酒屋で皿を数え切れないほど洗ってきた。

 僕は固唾を飲んで返信を待った。

「いいよ! 行きましょう。とても嬉しいです」

 僕はそれを見て両手の拳を握った。チャットでお互いの素性を話し合っているが、実際にはどんな人間なのだろうかと興味に絶えなかった。

「分かった! じゃあ同じ県だし、前聞いた住所に、チケットを送るよ。送り主、竜太郎だったら僕なので、現地集合で! 白いシャツと青いジーンズで、百六十五センチくらいのチビ。わからなかったらケータイ鳴らしてね」

 その日から、選曲はどれか、ギターソロはどのくらい行われるかなんかをチャットでNANAさんと語り合いながら夢を膨らませた。

 そしてあっという間に一月が経過し、ライブに当日を迎えた。僕はNANAさんの隣に居ても恥をかかせないように、できる限りのオシャレをした。自意識過剰過ぎるのではないかと心配になるほど慎重に服を選んだ。バイト代も、出し惜しみしなかった。

「今駅の改札口。もうすぐ出発するから、会場に着いたらチケット切らずに待ってるね」

 そう個人チャットに記載しても、しばらく返事は返ってこなかった。いつもはすぐに返事が返ってくるので、少し心配になった。

 カラン、カラン、カラン、カラン、カラン、カラン。

 個人チャットのベル音が聞こえた。一回クリックすると一回鳴る仕掛けのものだ。荒し以外が連続で押すことはなかったので、僕は驚いた。一体彼女の身になにがあったのだろうか。

「リュウ君、ごめんなさい。私はやっぱりコンサートに行くことはできないわ」

 僕は胸に重い柱が突き立ったような感覚に陥った。世界が歪む。何かの間違いじゃあないかと思って、

「なんで? あれ程楽しみだって言ってたじゃないか。もうチケットもあるんだし、行こうよ」

 と返した。暫くすると再び個人チャットのベルが鳴った。

「あのね、私、リュウ君の思ってるような人間じゃないの。美人じゃないし空気読めないし、スタイルも良くない。インターネットでも、リュウ君くらいしか私の事を褒めてくれたことなんてなかった。だから怖いの。リュウ君が本当の私を見たら、きっと幻滅する。二度と会いたくないって思う……」

 確かに美人であるに越したことはないが、僕にとってそこは重要ではなかった。

「そんなことはないよ、別に美人じゃなくても、これだけ長い間チャットで話したし、音楽の趣味も似てる、話題に尽きないし、きっと面白いよ」

 無我夢中でチャットを打ち込んだ。指が震えている。

「嘘、嘘、ウソ、私は本当の大ウソつき! 私、リュウ君に気に入られたいからラストアライアンスの曲が好きだって言っただけなの! 本当は音楽についてもあんまり興味なんてない。私は単にリュウ君に気に入られたくて、ずっとラストアライアンスについて調べて、データも揃えてたの。あの曲のベースがいいなって言われても、私音感もリズム感もないから全然わからないの! リュウ君はきっとそういった音楽のこと詳しいし、話も論理的だし、学校には行ってないだけで、きっと口達者でハンサムで頭もよくてって系列の人間じゃないの! それに対して私なんて……ずっと日陰族なのよ。小学生の頃、ブスだって虐められて、人間が怖くなってからそれっきり、全然外に出てないの。だから、いきなりコンサートなんて……怖くて行けないよ。明日のために、外に出る訓練をしたんだけど、全然ダメ、コンビニくらいには行けるんだけど、リュウ君に本当の私が見られるって思っただけで、自分ってなんでこんなのだろうって自己嫌悪ばっかりで、チャットだと声も聞こえないから、わからないと思うけど、私、ドモリだし、声もガラガラで、全然女の子らしくない。そんな私がリュウ君に気に入れるハズがないの……、だからゴメン。ライブには行けない。本当にゴメン、せっかく送ってくれたチケット無駄にしちゃって。でもお願いだから、チャットの中だけでは私を見捨てないで、いや、やっぱりいい、見捨ててくれてもいい。きっと私なんかじゃリュウ君には不釣り合い……、いずれこうやって暴かれるのよ。それが早いか遅いかの違いしかない。ゴメンね、私も美人だったら、リュウ君に遭ってみたかった。でも、嫌がらせとか、リュウ君が嫌いだからとかじゃ全然ないの、私が私を許せないの。だから本当にゴメンナサイ……」

 チャットはそこで止まっていた。

 僕は震えの止まらない手で返信を打った。

「でも僕も全然NANAさんの思ったような人間じゃあない。中学校も不登校だったし、今高校生って言ったけど、実は定時制なんだ。だから学力は中学生レベル。どんなに頑張っても有名な大学には入れないだろうし、言った通りチビだし、人気者じゃあないんだ。そんな僕でも、ギリギリ卒業出来そうな高校があるから、そこにお情けで親に学費を出してもらって通ってるだけなんだ。NANAさんがどんな人でも気にしないし、そもそもそういう期待とかを持って誘ったわけじゃあないんだ。だから気軽に来てよ。僕待ってるから。気が向かなかったら一緒の会場に来てくれるだけでいい。貰い物のチケットだって言ったけど、それは嘘。僕が居酒屋でバイトして買ったものなんだ。いや、恩着せがましいから忘れて。いや、やっぱり忘れないで。NANAさんみたいな本当のファンが来るべきなんだよ、このバンドは。もし僕と一緒に聴くのがイヤだったら、一人でもいいんで来てください。そして良かったら僕に声をかけてください。一方的なお願いで申し訳ないけど、先に行ってライブ会場に居るから!」

 最後の賭けだった。無視されることは概ね想像できたけど、彼女と会うにはこうするほかないとも思っていた。

 嫌な疑念が渦巻く中、会場に向かう電車に揺られながら、ラストアライアンスの曲をipodで聴いた。気が気ではなかった。絶望的な不安感を、僕はライブを想像することでのみ凌いでいた。チケットを切ってしまえばあとは楽になるはず。仮にNANAさんが来ても来なくても、ライブは行われる。人生初のライブだから、きっと興奮するに決まっている。

 僕は強く自分に言い聞かせながら、会場に着いたからライブのチケットを切った。けれど胸に風穴が空いたように、途方もない虚しさに押しつぶされそうで、頭がガンガンして、意識が朦朧としていた。

 そのとき、

 スマホの着信音が、確かに自分スマホから響いた。

 NANAと記されたケータイを慌てて取ろうとした。しかし、電話はタップする瞬間に切れた。そのあとCメールで、「ゴメン、やっぱり行けません」という文面が届いた。僕は呆然と立ち尽くした。

 チケットを切って会場に入ると、コンサートはすぐに始まった。胸にぽっかりと空いた穴を癒すように、疾走的な演奏を、聴いていた。実に魅力的でスリリングでパワフルな演奏も、いつになく寂しげに響いた。辛くて景色が涙で歪んだ。僕は、人を想うのがこんなにも辛いとは知らなかった。同時に、僕は会ったこともないNANAさんが本当に恋しかったんだと、強く思い知らされた。今までの人生は、人を好きになる前に逃げ続けてきた。だから今日こそは、今の感情から逃げず、目を背けず、――すぐにやって来るはずの、遠い遠い明日を、それでも肯定的に生きていくために、下を向くのは未来に先送りにして、拳を突き上げて、熱狂するファンの一人に交じって、叫び声をあげた。その声は、他の歓声と一致し、混ざり、打ち消され、人ごみの中に消えて行った。胸の痛みは、叫べば叫ぶほど、大きくなっていった。もはや涙を隠す必要はなく、他の客と一緒にジャンプしながら右手を天に掲げて、音楽に熱狂していくように、僕は失恋の痛みをもみ消した。

 ――長く、そして、とても痛い一日だった。

 帰りの電車の中で、今日はチャットルームに行けないな、と思った。

 そして、今後も行かないかもしれないな、と思った。

 くたびれた振動に揺られながら、絶望的な気持に包まれて、綺麗な夕焼けを見ながら、到着を待った。

 部屋に戻ると、パソコンを点けっぱなしにしていたことに気がついた。

 すぐにでも倒れ込みたかったから、シャットダウンするためにマウスを触ると、NANAさんから大量の個人チャットが届いていることに気がついて、慌てて読んだ。

「今日コンサートに行けなかったなんてウソです。実は私はコンサートに来ていました。でもリュウくんにだけは見られたくなかった。それはメールで言った通りです。でもリュウくんのことが恋しくて恋しくて、どうしても一目だけ見てみたくて、コンサート会場までリュウくんがくれたチケットを持って行ったの。リュウくんらしき人がいて、すぐリュウくんだって分かった。それを確認したくて電話したの。リュウくんが慌てたように私からの電話を取ったとき、私は、自分の中に思い描いてたリュウくんと、本物のリュウくんが本当に一緒なんだなって、凄く嬉しくて、涙が止まりませんでした。ハンサムじゃないなんてウソ吐きですね。やっぱり私なんかとは釣りあわない。私はそれが、嬉しいのか悲しいのか分からなくて、コンサートは途中で抜けて、ずっと家で泣いていました。だけどこれを書かないのは、リュウくんに対して余りにアンフェアだと思って、勇気を出してチャットしました。……やっぱり、私なんかじゃリュウくんとは不釣り合いだった。でも凄くいい刺激になりました。リュウくんは私の初恋の人です。きっとこれからの人生で、誰にでも自慢できる存在だと思います。私って身の程知らずでしょ! って、少し自虐っぽく自慢していくんです。それを、笑って言るくらいまで強い人間になったら、今度はリュウくんが私のことを見に来てください。私だけ一方的に見てしまって、それが罪悪感を生んで死んでしまいそう。だから次は、私からリュウくんにチケットを買って送ります。そのときは、リュウくんももっと大人になっているから、きっと私を見ても笑って許してくれるでしょう。恋人と来てもいいですよ。笑いのネタにしてくれても構いません。私も、その程度のことは笑い飛ばせる強い人間になって、いつか絶対社会を、リュウ君すらを見返してやるのです……! ……だから笑って生きて行きましょう」


 ――画面が滲んで見えにくくなった。目尻が熱くなり、口に入ってくる液体がしょっぱい。

 震える手で、ケジメの文章を書き込む。

「ごめんねNANAさん。僕はNANAさんが思ってるほど、強い人間じゃないよ。だから、今日で懲りた。僕がどれだけ子供だったか、思い知らされたよ。僕がNANAさんの立場でも同じように会えなかったかもしれない。それを薄々分かっていて、NANAさんにライブのチケットを送ってしまったのは、功利的だった。知らず知らずのうちに、プレッシャーをかけてしまってごめんなさい」

 僕は呼吸を整えながら画面を見据えた。

「うん」

 その一言だけ返信があった。

「お互いに全然子供だった。俺たち、まだまだじゃん。いくらでも成長出来る。NANAさんには勉強させられてばっかり。僕はお互いに成長してからの、NANAさんの返事を気長に待つことにします。それまでバイトが忙しくなっても、正社員になって多少残業があっても、このチャットには定期的に来るので、いつか約束を守ってもらうよ」

 僕はその文章を送信した後で、以前の彼女の文章を反芻するように、自分に言い聞かせるように口を開いた。

「だから笑って生きていこう」

 ドレだけ辛くても、心が痛くても、過去を振り返らず、それでも笑って生きて行こう。

 ――今を笑って見返せるその日まで。

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未来へのチャット むっしゅたそ @mussyutaso

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