十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね④

「ねぇ、あたし、本棚見てきてもいい?」

「もちろん。楽しみにしてたんだろ?」

「ありがとう」


 広がる笑みが瞼に焼き付く。

 文葉は軽快に立ち上がると、本棚の前へと移動した。心なしかスキップし出しそうな足取りは、文葉が楽しみで仕方がないときに出る癖だ。身体の後ろで手を組んで歩くのもそれだった。

 文葉がそうして本棚を眺めている後ろ姿には、もう慣れている。上向いた首元から流れる栗色の髪の毛がふわふわと陽光に輝いていた。

 読むつもりはないのだろうが、上のほうの本を手に取って表紙を確認している。手を伸ばすのにスカート丈が危ういのも、いつものことだ。

 そこに着目しているわけではないけれど、いつだってハラハラする。それは、初めて声をかけたときの危うさが、記憶に残っているかもしれない。

 あれ以来も、何度か館内で本を取ってあげたことがある。カフェの本棚はそこまで高くはなく、手助けするほどではない。文葉は抜いた本を元に戻しながら、くるくると見回っている。踊っているかのように優美な動きは、見ていて飽きない。いくらだって見ていられる。

 ……いや、待て。

 何だそれは。

 そりゃ、人が本を選んでいるのを見かけると、気になることはある。電車内で本を読んでいる人がいれば、その表紙が気になるように。

 けれど、それはあくまでも本が気になっているのだ。人を中心に据えているわけじゃない。結果的に、人を見ることにはなる。それでも、そこには線引きがあった。気を配ってもいる。人をまじまじと見ていれば痴漢にされかねないのだから、当然だ。

 それを、いくらだって見ていられる?

 額を押さえて、机に肘を突く。

 文葉。読書仲間。相談相手。本に関連する相手。気の抜ける相手。息がしやすくて、心地が良い。同列の同志。失恋を励ましてくれる友人。

 替えは効かない。文葉じゃなければ、こうしていない。

 背伸びしなくていい。尊重はするが、過度な心酔で七転八倒しない。憧れの相手じゃない。本と同一視し過ぎていない。同時に、本と同じほど大事に思っている。区別は明確で、存在が確立している。他の誰とも違う。

 それは――。

 俺は穂架さんが好きだった。

 それは嘘じゃない。けれど、俺は穂架さんを究極的に持ち上げていた。いつも肩肘を張っていたとは言わない。その姿に和んでいたこともある。心を温めていたことだって。

 好きだった。

 間違いない。

 でも、諦めてもいた。無理だと咀嚼していたのだ。それでも想っていたのは、未練と呼ぶのではないだろうか。ただの拘泥。

 とうに、自分の中で結論は出ていた。

 苦悩しながら、追いかけながら、追いつくことはないと気付いていたのだ。それでも、優柔不断に追い縋っていて、だから息苦しくなって、解放されたような気持ちになる。

 ああ、そうか。

 額から後頭部へと髪を掻き上げるように頭を抱えた。俺はもう、とっくの昔に失恋していたのだ。

 いつからだろう。

 でも、きっと、悪足掻きをしていただけだった。自分でもどこかで分かっていて、だから行動力が伴わない。空回っていた。執着して未練がましく固守していた。

 俺は穂架さんが好きなのだと。本を好きになったきっかけであるから、地続きだと。思い込んだ感情は、閉じたままで是正されるはずもない。

 だから、突かれて噴出する。好きなのだと捨て鉢に叫んで、穂架さんを振り回した。終止符はついていたというのに。これは消化試合だった。

 はぁーと長く息を吐いて、顔を上げる。

 楽しそうな後ろ姿は眩しい。

 ……ずっと、眩しい。

 失恋してから始まる物語。相談相手に気持ちを明け渡す物語。鈍感主人公ってのもありがちだ。馬鹿らしさに苦笑いを噛み潰す。

 可愛くて眩しくて、気が楽で心地が良い。一緒にいることが当たり前で、嬉しそうにしていると微笑ましくてずっと見ていたくなる。

 その姿がくるんと振り返って目が合った。俺が見ていたことにぱちくりと目を瞬く顔はあどけない。

 俺はもっとお姉さんに憧れを持って、好きでいたはずなのに。

 そう思ってしまったら、引き返すことはできない。今度は苦笑いを噛み潰せずに、漏れ出たそれを誤魔化すように立ち上がって、文葉のそばへと向かった。


「面白そうな本あった?」

「うん。あのね……」


 尋ねれば、不思議そうだった顔が一気に晴れる。俺を見上げて、本棚を見上げて、ほろほろと知らせてくれる。肩を並べて、その談義に耳を傾けた。平穏で胸がぽかぽかする。

 特別だ。

 念押しして連呼した穂架さんのほうが、よっぽど俺のことが分かっていた。それはこの十年の交流が真正であった証左だっただろう。

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