十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね⑤
中断していた図書館通いは再開された。
気まずさはある。いくら穏当に幕を閉じたといっても、起こった物事をなかったことにはできないのだから、ぎこちなさはあった。
そのうえ、これは穂架さんの知らぬことではあるが、ほとんど俺の独り相撲に付き合わせたようなものなのだ。
それでも、穂架さんは仕事だし、俺だって本に触れるのをやめる気はない。そして、文葉と並んで通うことも。
そうして続けていれば、日常を取り戻してくるものだ。
「ねぇねぇ、章人くん」
今日もまた、本棚をバラバラに回遊していたところに、文葉が隣へとやってくる。裾を引いてくる仕草が微笑ましい。文葉の小さなスキンシップはますます遠慮がなくなってきているような気がする。役得でしかないので、俺からやめるよう進言することもなかった。
「どうした?」
「取ってもらってもいい?」
「ああ。どれ?」
文葉は弾んだ足取りで本棚の間を進んでいく。その後を追って、目的の本棚へ到達した。壁面が本棚になっているそこは、文葉が出会ったときに奮闘していた本棚だ。
「あれ!」
ぐっと背伸びをして、背表紙に触れている。そこまでは届いても引き抜けないのもあの日と同じだった。後ろから肩を押さえつけて、背伸びをやめさせる。
「気をつけるように言っただろ」
言いながら、覆い被さるように触れている本を引き抜いた。本棚と俺に挟まれた文葉は緩く笑っている。危機感はないらしい。
異性と思われているのか。いないのか。まったく、ってことはないはずだ。赤くしていた耳はよく覚えている。電車内で近づいたときも、これくらいだっただろうに。今はちっとも照れていない。何の差か。
……本か。
絶対的な存在に、苦笑いが零れた。
「ありがとう、章人くん」
「どう致しまして。他はないか?」
「うん。大丈夫。もし何かあったら、また呼ぶから」
「あのなぁ」
「章人くんは本のことなら面倒くさがらないでしょ?」
「……いいように使おうとするなよ」
「えー、いいじゃん。優しい章人くん」
媚びを売るような甘い声を出す文葉に眉を顰める。媚びられなくちゃ動かないと思われていることが遺憾だ。優しく思われたいくらいの見栄は俺にもある。
「媚びられて動くほどチョロくないんだよ」
手刀を緩く落としてから、本を手渡して距離を取った。文葉はちぇっと拗ねたポーズを取る。
「媚びなくったって、章人くんが優しいことなんて明白じゃん」
けろっと言われたほうが攻撃力がある。分かってるなら、甘えた声を出さなくてもいいだろうに。
文葉は俺の心理状態など気がつかずに、受け取った本の中身を確認していた。苦味を噛み殺して、本棚へ視線を流す。背表紙を目で撫でるのは癖だ。精神の安寧のためではなく、本当にただの生態としての癖だった。
「優しいのは文葉のほうだろ」
「……あたし?」
こっちのことはさも当然としているくせに、自分のこととなると、たちどころに面食らった顔になる。本から顔を上げて、こちらを見上げてくる顔は愛嬌があった。
「どこがって顔をするなよ。説明はしない」
「何それ、気になるんだけど」
興味津々で身体の側面を寄せて覗き込んでくる。自分の胸囲の自覚をもっと持って欲しいところだ。そればっかりに気を取られるほど愚劣になるつもりはないけれど、感触をなかったことにはできない。
そして、そんな距離を取られて無言を貫くこともできなかった。
「失恋した男を励ましてくれる女子は優しいと思う」
それだけではない。
だが、最も近い場所にあって分かりやすい出来事を取り上げる。文葉は難しい顔になって、小さく苦笑した。
「塩って散々言ってなかった?」
「こうして図書館に来られるようになったのは文葉のおかげだよ」
「……ふーん」
相槌はつれないくせに、口元がにやにやと緩んでいる。表情豊かで器用なことをすることも多いが、こうして一人で感情を噛み締めているのもよく見た。どこかクールぶっているというか。そういう姿も好ましい。
「じゃ、俺は見て回ってるから。何かあったら言えよ」
本棚の前でかち合えば、そのまま言葉を交わしたり、同行したりすることもある。それでも、不干渉な時間がないわけでもない。お互いにその距離感は据え置きで、ほどよく自由を得ていた。
踵を返そうとしたところで、文葉はくつくつ笑う。
「やっぱり優しいじゃん」
我が意を得たとばかりに、背を叩いてきた。褒められるようなことか。下心があるので、苦々しさはある。
「はいはい」
「もっと喜べばいいのに」
「喜んでるよ。文葉に褒められると嬉しい」
「ふーん? へぇ。そういうこと言えるようになったんだ」
「文葉が教えてくれたんだろ」
ふふふと笑う文葉が、再び身体の側面をぶつけてきた。近頃、文葉はこのスキンシップをすることが多い。
無自覚で困る。俺はやっぱり、思い悩まずにはいられないらしい。今度は、悶々という非常に即物的な原因だが。
……思えば、穂架さん相手に邪念を抱いたことなどない。憧憬が強過ぎて、情念が入り込む余地もなかったのだろう。後になれば、微妙な心理のズレにいくらだって気がつけた。どれもこれも、今更に過ぎない。
おかげで、文葉への認識が鮮明になっていく。馬鹿みたいに籠絡されていた。
「ほら、文葉もまだ探すんだろ? 俺も行くから」
寄ってきてくれるのは嬉しい。だからって、ずっとこうしているわけにもいかないし、俺たちの優先順位ははっきりしている。
抱くように腕を回して肩を叩くと、文葉は
「はーい」
と離れていった。
名残惜しさなどない。こっちにはあったが、一安心もしていた。
性差に振り回されるのはごめんだ。これまで気にしていなかったことに振り回されるのは、不誠実な気もした。だからって、自覚した感情は日々刻々と濃くなっている。
性欲と恋情の関係がどうこう分析するつもりはない。けれど、想っている相手の体温や香り。そうしたものに無感情でいられるはずもない。
ましてや、文葉は魅力的……と思考が走り出して、速やかに手綱を引いた。慎みなく文葉を俎上に上げるのは、良心が疼く。身近であるからこそ、妄想の中でも理性が枷をかけるものだ。
その枷に縛られながら、意識を本棚へと向かわせた。そうすれば、要らぬ意識は霧散して、そちら側へ吸収されていく。自分の単純さに思うところもあるが、それで保たれている平静もあった。
本に向かい合ったからといって、文葉が脳内から追いやられることもないけれど。三ヶ月やそこらで、すっかり文葉に染まっていた。
自覚もしているし、観念もしている。濃厚になっていく感情だって、受け止めている。穂架さんのときとは違って、誤認ではないことも確信を持っている。だから、文葉に惹かれていることも、内に入れていることも分かっていた。
だが、ふとした瞬間に思い知らされる。その回数は明らかに増えた。受容が強まった結果だろう。
本と文葉の区分は最初からついているものだから、余計にそうした感想を抱くことが多いのかもしれない。
それを片隅に置きながら、いくつか本をピックアップしていく。ミステリ中心ではあるが、日ミスが多いのは文葉の影響かもしれない。
だが、これはバランスの問題だし、好みに合致したというだけの話だった。芯がブレているわけでもない。俺は元より、乱読派だ。それを盾にしながら、好きに選んでいく。
表紙の装丁が気に入っただけの本も見繕った。図書館だからできる冒険は、新たな本と出会う一手だ。
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