十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね③

「どうだろう? あんまり、想像できてなかったかも」

「あんまり、ね」

「そこはいいだろ。十年なんだぞ」

「そこも真面目なんだ、と思っただけだよ。普通、色々想像してるもんじゃない? 色々」

「意味深に念を押すなよ。色々に悪意を感じる」

「悪意はないよ? 色はあるけど」

「そういうとこだよ。想像してるなんて尊厳をなくすようなことぶちまけるわけないだろ」

「あたし、潔癖じゃないもーん」

「……そこ、ぶっちゃけんなよ」

「そういう意味じゃないよ!」


 声量が上がって、腕で身体をカバーされる。ぎゅっと身を抱きしめると、胸元がぐにゃりと形を変えて目の毒だ。そっと視線を外した。


「ちょっと」

「そんな誤解はしてない! ただ、潔癖かどうかは軽率に伝えてくれなくていいって話だ。変な意味はない」


 重ねれば重ねるほど、どうにも胡散臭い。それでも、潔癖だとかそういう意味だとか。色気のある話に固着したくはなかった。

 潔癖ではないがそういう意味ではない、を深掘りすると、要らぬ経験不足を推察できてしまいそうになる。既に手をかけてしまっている推察は、頭蓋の外へとぶん投げておいた。


「ふーん? 章人くんって実はムッツリ?」

「おい。先に言い始めたのはそっちだろ」

「だって、耳赤いよ」


 ぱっと耳に触れてしまったのは、不覚だろう。

 ふふっと笑われて、睨みつけた。文葉は身をカバーしていた手を口元へ当てて、愉快そうに笑い続けている。実に楽しそうだ。


「君も血色良いぞ」

「うるさいっ」


 わっと喚いた文葉が両頬を包むようにして、上目にこちらを睨み上げてきた。動きに釣られて長髪が揺れて、赤くなっている耳が見える。いつかそうなっていたときの胸に飛び込んできていた文葉の姿が蘇って、にわかに鼓動が速まった。


「もう、章人くんはエロ特化のラノベとか読めばいいんだよ」

「どんな罵倒だ。あれはあれで需要があるんだろうが」

「そこでフォローしちゃうからムッツリだって言うんだよ」

「正々堂々読んでるわ」

「それもそれでどうかと思う」


 お互いに会話の手綱を手放している。それぞれに飲み物を口に運んで、クールダウンを試みた。

 ぱたぱたと手団扇で顔に風を送る文葉に、照れくささはなかなか消えない。

 一体、何の暴露大会をしているんだ。よりにもよって、念願のブックカフェで繰り広げる話題か。馬鹿らしくなって、胸が軽くなった。文葉も一服したところで、気が抜けたようだ。

 同じく、馬鹿らしいと思ったのかもしれない。


「それで?」

「何が?」

「……ラブコメを読むのは? って話だよ。失恋から始まるものもあるでしょ?」


 多分、半分くらい無理やり軌道修正をしている。照れくさかったのだろう。心境を同じくするものとして、乗らない手はない。


「それこそ塩だろ」

「でも、恋を忘れるには新しい恋だって言うじゃん」

「……早すぎないか?」

「それって関係ある?」

「ないかもな」

「相談していた相手に気持ちが向いていたとか、本当は恋じゃなくて憧れだけだったとか。他にもあるだろうけど。そういうことってよくある話じゃない? そりゃ、そこに至るまでに別の人と関係性が積まれてるとか色々要素があるだろうけど。そういう話もあたしは好きだよ」

「文葉は自分の好きな作家とセンシティブな関係になっていくメリバだって好きだからなぁ」

「だって、メリバは唯一絶対の相手とか出てくるの絶妙でいいじゃん。章人くんだって、高級住宅地で起きたイヤミスも読むんだから、読後感じゃどっこいどっこいでしょ?」

「あれはイヤミス感は薄め。闇落ちも好きだろ?」

「いいじゃん。穏やかな話も大好きだもん。イチャラブのラブコメとかも」


 知っている。ベランダ菜園の話を好んでいるのを見れば、穏やかなごはんものを好んでいるのも。かと思えば、誘拐した男女の友愛や精神的な繋がりとも呼べる二人だけの価値観だとか。細部まで、知り尽くしていた。

 いや、尽くしているというのは、いくらか豪語だろう。けれど、文葉の好みは知っている。そして、それは俺とあながち離れていない。ラブコメが好きなのも、イヤミスなどの読後感がわだかまるものも。


「ねぇ、章人くん」

「何?」

「本は好き?」

「何だよ、急に」

「……棚田さんと密接に関わっていると思ってるから。嫌になってないかなって」


 他の何を聞いたときよりも、ずっと遠慮がちな言い方だった。文葉にしてみれば、他の何よりも重要なことなのだろう。

 文葉は穂架さんを蔑ろにしているわけではない。だが、本への気持ちが変われば、文葉との関係にも波及する。影響力を考えれば、重量に傾きがあるのも納得だ。

 そして、言われて初めてそのことに気がつく。分離はとっくにできていた。しかし、ここに至るまでてんで意識に上らなかったのは奇怪だった。

 分離するまでには、あれこれと考え込んだものだ。一緒くたになっていて、誤認を疑ったこともある。

 それだというのに、今はそんな思考は露些かもなかった。そうして気がついたとき、目の前が開ける。

 眼前にいるのは、文葉だ。

 穂架さんとの関係が薄れたわけではない。だが、今となっては本は文葉との共通言語になっている。


「文葉がいるだろ」

「……飛ばした思考をそのまま口にしないでよ」

「そりゃ、本は穂架さんとも通じているものだったし、昔は……今までは、それ以外とはそこまで密接じゃなかったけど、今は文葉と通じるものだろ?」

「だったら、よかった。章人くんと話せることが減るのは嫌だったから」

「文葉と話すのを煩わしく思ったりしないし、やめようとも思わないよ」

「そっか」


 へへっと緩んだ笑いを向けられると悪い気はしない。そもそも、この談義を快く思っているのを隠しもしないどころか、平然と迎えてくれていることが嬉しかった。

 陽の入るテラス席で嬉しそうにショートケーキを食べている文葉は眩しい。今はもう、大好きな本を分かち合っているのは文葉で、胸の内側にすっかり住み着いている。


「あ、ねぇ、本、読む?」

「……時間、大丈夫なのか?」

「う。さすがに読み切れないかぁ」

「また続きから読むってのもありだと思うけど」

「あたし、並行読みできないタイプだって知ってるよね?」

「じゃあ、それこそまた来ればいいだろ?」


 言った途端に気がついた。

 時を同じくして、片眉を引き上げた文葉が、靴先を突いてくる。同じようにした日のことを明瞭に覚えていた。


「また来ようよ」

「章人くんって素直だよね」

「……文葉がそうして欲しいって言ったんだろう」

「真面目だなぁと思って? もう場所は分かるし、一人でくればいいって言うかと思った」

「そこまでドライなつもりないけど」


 本は友人だ。それに変わりはない。だからって、人間関係を捨てているつもりはなかった。

 それに、文葉は――


「そうかなぁ? 章人くんはしれっとしてると思うけど」

「文葉は読書仲間だから」


 だから、突き放す理由はなかった。

 その素養がなければ知り合いになっていないから、そうじゃなくても、と定義づけすることはできない。けれど、仲間じゃなくても、文葉を知る機会があれば、俺は文葉との交流を持っていただろう。


「それは章人くんの中では好印象だよねぇ」

「知らなかったか?」

「んー。知ってたけど、改めて変化がないと聞いて安心してるかな」

「穂架さんのことで文葉の立場が変わることはないだろ」


 穂架さんは穂架さんで、文葉は文葉だ。

 いくら本という共通項があって、読書仲間と呼んで相違ない相手であったとしても、同等に扱うつもりはなかった。それは、文葉が穂架さんに劣るということではない。文葉は文葉として存在を確立しているということだ。

 ……いや、確立どころではない。文葉という存在は確かに、明々と、俺を支える柱のひとつとしてそこにある。


「ふーん、そっか」


 感慨があるのか。ないのか。先ほどの緩い笑みを浮かべた相槌を思えば、いくらか素っ気ない返事に聞こえた。

 けれど、穏やかな表情を見れば、邪推するようなことはない。気心の知れた相手だ。文葉といると呼吸が楽になる。俺は文葉のこの温度感に、甘えているだけなのかもしれない。器量と度量の良さは居心地が良すぎた。ほっとする。

 ……ほっと、している。

 自覚した傷すらも通り越して、簡単に荷を下ろしていた。

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