十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね②

「どうなったの?」

「振られたよ」

「……本当に?」

「どんな確認だよ」


 いくら伝える気があったとしても、振られたことを上塗りして宣言したくはない。渋くなった俺に、文葉は当惑を浮かべる。

 正直言って、俺の勝率などないも同然だった。文葉は口にすることはなかったが、振られるだろうと了察できたはずだ。当惑される理由が分からない。


「だって、なんかいつも通りだから」

「……ああ、そうだな」


 いつも通り。

 不思議な感覚ではあるが、確かに平常心を保っていられている。

 悲しかった。寂しくなったし、泣きたくなった。そうした感情が沸き立っていないわけじゃない。ぐちゃりとした塊が、心の隅に置きっぱなしにされている。

 けれど、置きっぱなしと言えるほどにどこか感情と距離があった。ショック過ぎて、感情を切り離しているのだろうか。

 心臓に触れるように、胸に手を当ててみる。それで胸中を探れるのであれば、俺は懊悩などしてこなかった。

 それにしても、現状への不思議さが消えることはない。


「大丈夫なの? 胸、貸す?」

「さすがにその励ましはいらないかな」


 いくらスキンシップに躊躇が薄れていると言っても、胸と言われれば動揺する。抱擁を示すにしても、心理的な状況を示唆しているとしても。

 ごく自然な拒否だったと思うが、文葉は困惑顔を隠さずにいる。


「……章人くん、自分がおかしい自覚がある?」


 直截さに歯噛みした俺に、文葉は少しだけ困惑を消す。何をどう捉えているのか。文葉の思考運びは看破できなかったが、気が緩むのであればそれに越したことはない。


「淡泊過ぎない? つらいでしょ? あたしの前で強がらなくてもいいよ」

「そういうわけでもないと思う」


 無自覚に感情の蓋をしていると言われれば、俺には覆しようがない。けれど、気丈に振る舞っているつもりはなかった。文葉の前で取り繕うなんて、面倒な段取りを踏むつもりはない。


「ふんわりしてるなぁ」


 再び怪訝を貼り付けながら、文葉はフォークでケーキを切る。真っ白なクリームが銀色のカトラリーによくマッチしていた。文葉の丁寧な手つきもまた、ものを綺麗に見せている。

 食欲を刺激されて、パウンドケーキにフォークを差し入れた。しっとりとした生地感が指先に伝わる。


「いいだろ。美味しそうだし」

「そのふんわりじゃないし。分かってるくせに、すっとぼけるのやめてよ」

「自分の気持ちが分からないからすっとぼけてる気はない」


 穂架さんが好きだった。

 振られたからといって気持ちが消散するわけじゃない。だから、分からないなんて、そんなことはないはずなのだ。複雑な筋道を辿る隙もないほど、分かりやすく傷付いて消沈している。そうなっているだけのはずだ。

 けれど。


「何が分からないの?」


 合いの手のように声をかけてくれる。文葉と喋りやすいのはこういうところだ。隠し事ができないのも。


「ほっとしたんだ」


 振られたとき。ショックだった。

 けれど、それは想像しえたものだったのだ。俺は、穂架さんに惚れられるようなことをした覚えがない。結果は分かっていた。

 だから、衝撃が少なかった。そういうのとは違う。

 ほっとしたのだ。これで終われるのだと、解放された気持ちになった。愕然としている。十年間は何だったのか。

 穂架さんから逃げたかっただなんて。

 そんなこと、あるはずがないのに。

 追いつきたかった。穂架さんを追っていた。無理はしていたかもしれない。それを心から苦痛に思っていたわけではないけれど、背伸びはしていた。その分の安堵だろうか。

 それだけだ、と断言できる気がしなかった。自分の信じていた感情がぐらついて、心細くなる。


「……振られて、ほっとするなんて、あるか?」


 落ち着いて見えるほどに。不気味なほど淡泊に過ごせるほどに。いっそ心が軽くなったかのように。ざらついている。

 これははたして、失恋に心を摩耗させているのか。自分の心の動きに振り回されているだけで、恋と直結していないのではないか。そうして突き詰めていくと、恐ろしいパンドラに手をかけてしまう。


「俺は、本当に」

「そういうこともあると思う」


 箱にかけた手のひらを幻視できているかのように、先手を取られた。はっとして顔を上げたことで、手元に視線が落ちていたことに気がつく。文葉のフォークが止まっていたことにも。


「……そうか?」

「恋愛って楽しいだけじゃないでしょ? 片想いなんて、悩むことがたくさんあるし、迷うこともいっぱいある。章人くんは年齢のことを気にしていたし、考え続けていたことに一応の終止符が打たれたわけだから、気が抜けるってことはあると思う。それって安堵感とか、そういうのでしょ? ほっとするって言ってもおかしくないじゃん」


 説き伏せるかのように、つらつらと語る。文葉が本談義以外で、こんなにムキになって演説するのは珍しかった。


「章人くんは、おかしくない」

「……文葉」

「変な疑問はやめなよ」


 ああ、と憂色が晴れる。目頭が熱くなった。

 文葉の理解力に頭が上がらない。いや、優しさか。

 涙腺が緩みそうで、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。それでも落ち着かなくて、眼鏡を外して目元を押さえた。固まっていたものが、ほろりと溶けていく。この場で大粒の涙を流すほど、俺はあけすけではない。けれど、胸がすく。

 文葉がいてくれて、本当に良かった。

 深呼吸で気持ちを整える。その間、文葉は追撃することもなく、黙して俺を待ってくれていた。

 しばらくして眼鏡をかけ直す。コーヒーで喉を潤すと、一息ついた。文葉は一連に対しても静閑している。


「失恋から立ち直る話ってあるっけ?」


 他の切り出しだって、いくらだってあった。それでも、俺と文葉の間でそれ以外を考えるのは堅苦しい。

 文葉も当たり前のようにいてくれた。


「ごはん系の心温まる話のほうがいいんじゃない?」

「オススメは?」

「うーん。お弁当屋さんとか? カフェもいいと思うし、図書館の……いや、それはダメか。屋台とかもいいんじゃない?」

「屋台?」

「味覚から作った人の感情を察しちゃう異能系ミステリーを含んだ人間物語って感じ」

「へぇ……」

「夜食を作るゲストハウスっていうコンセプトのごはん系もあるし」

「めっちゃ読んでるじゃん」

「なんか好きなんだよね。美味しそうだし。章人くんだって、色々読んでるでしょ?」

「まぁ……バリスタの名探偵は叙述に打ちのめされたし、異世界と扉と繋がって食堂開くっていうのも面白いよな」

「ごはん描写って題材にしてなくっても色んなところで出てくるしね。お隣さんとごはんするっていうのも多くない?」

「あんな都合良く美人のクラスメイトと隣人になって料理作ってもらえることなんてねぇのになぁ」

「なんで急にリアリティのある突っ込み始めたの? ベランダ菜園の話を面白く読んでくれてたんじゃなかったの?」

「楽しかったよ。いい関係だと思ったし」

「社会人と大学生の葛藤っていいよね」

「年の差なぁ……」

「自分から傷口を開きに行かないでよ」


 そんなつもりはなかった。だが、口にすると生々しさが胸を抉る。文葉の突っ込みもごもっともで、苦笑いをしてしまった。


「もういっそ、イチャイチャしてるラブコメに手を出せば?」

「それこそ、塩だろ」

「先々のことまで考えてたわけ?」


 距離を測り損なっているわけではないだろう。自分を疑う俺を、ある種悲しみに焚きつけていた。

 迎合せずとも許されるはずだ。感傷すらも払い退けたいのだと。けれど。何気ない風を装っている文葉を見ていると、躍起になろうとも思えなかった。

 俺は文葉に甘えている。

 大丈夫だと言った笑顔が、脳髄に刻まれていた。

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