第六章 十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね
十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね①
章人くんが物静かなのはいつものことだ。
試験期間の後半から、昨日までがイレギュラーだった。いつもよりもノートを捲る回数が多く、消しゴムを片手で弄り回したり、シャーペンをくるくると回したりしていた。
たったそれっぽっちの異質性だ。それっぽっちだけど、章人くんにしては、珍しい気忙しさだった。見ているこちらが不安になる。そんな動作をしていることは無自覚だっただろう。
章人くんには、隠す余力もなかったはずだ。試験が終わって追及すれば、たわいなく心情を吐露するほどには、限界だったように思う。あたしの拙い大丈夫という復唱ばかりの励ましで、あっさり飛び出してしまうほどにはいっぱいいっぱいだった。
だから、どんな結果をもぎ取ってきたとしても、分かりやすいと思っていたのだ。それなのに、翌日図書室で見た章人くんは、驚くほど落ち着いていた。
OKされたのであれば、それはそれで狂喜が見えそうなものだ。それもない。淡々と、平常通り。その手が規則的に本のページを捲っている。
読んでいるのはミステリーで、章人くんは額に手を当てながら、じっくり目を通していた。きっと推理している。それは読めるのだけど、それ以外の感情は読めない。
それが異様なわけではなかった。どちらかといえば、章人くんの標準だ。けれど、今日に限っていえば、それは異様としかいいようがない。
突っ込んでいいものか。読書中に声をかけてもどうしようもないのではないか。ちらちらと様子を見ながら、機会を窺う。
結果を知りたがるのは、おかしくないはずだ。昨日の今日。励ましたものとして、その程度を許さない人じゃない。真面目な章人くんを思えば、自ら切り出してきたっておかしくはないくらいだろう。
……だとすると、振られたのだろうか。空元気? それにしては、集中力を欠いている様子はない。
分からないなぁ。
章人くんは、どうもあたしのことをやけに勘が良いと思っているところがある。それは単に、おおよその物事の基準が本にあるからだ。表出する感情幅も大きくはなく理性的であるから、読みやすい。たったそれだけのことだった。
だから、そこからズレた感覚を的中させることも、推察することも難しい。そして、時機を掴むことも難しかった。
思えば、同志としていっぱい雑談を交わしている気持ちになっていた。けれど、実際には並んで本を読んでいる時間のほうが多い。
昨日、強引に話を進められたのは、様子が違うままだったからだ。平常に戻ってしまった今日。その威勢をぶつけることはできそうになかった。
章人くんが読書している姿は、神聖だ。邪魔なんてできない。
千賀浦くんは軽々と章人くんの机をノックしているし、あたしもたまにはそうすることはある。ただ、それは下校や閉館時間のお知らせの要素が強い。
そうでもなければ、章人くんの読書には触れられなかった。触れたくないというのが本音かもしれない。あたしは章人くんの邪魔になりたくないし、章人くんに幻滅されたくなかった。
静かな横顔が、真剣に。時に感情を乗せていく。その章人くんの時間を尊重したい。楽しそうだし。読書仲間として、邪魔などできそうにもなかった。
初めて見つけた同志だ。
別に、読書している人が友だちに一人もいなかったわけじゃない。けれど、こんなふうに率先してどの話題を振っても乗ってくれる人はいなかった。
電車移動中にお互いに本を読んでいたって気にしない。会話がなくてもいい。そりゃ、会話するのだって楽しい。妄想混じりの恋バナでも、流行りの動画でも、メイクやファッションの話でも。とりとめのない会話も楽しい。
けれど、自分の調子で読書をし始めるのは、空気を読めない子になってしまう。章人くんはそういうのを気にしない。
軸がブレないし、相手が持っている軸を極度に侵すことをよしとしなかった。だから、棚田さんにも、一定の距離を保ち続けていたのだろう。
クソ真面目。
相手を尊重し過ぎるのだ。その距離感は、多くの人との関わりにおいては有効だろう。けれど、アプローチしたい相手には足りない。遠慮がちに見えた。
だから、後押しをしたけれど、はたしてそれは役に立ったのか。告白できたから、それでいい。というわけではない。発破をかけた責任はある。だからって、失儀に首を突っ込むのも下品で困った。
仕方がないか。
あたしもまた、本を開いて頃合いを計る。それ以外に、章人くんと一緒にいる方法を知らなかった。
*********************
「ねぇ」
図書室から図書館へ。移動するタイミングでほろっと声をかけられる。それはいつも通りのことで、けれど、文葉の声は腰が引けていた。
それもそうか。
文葉は俺をじっと見上げて、裾を引いてくる。よっぽど気になっているのか。気遣いの仕方に困っているのか。小さな仕草がか細さを感じさせて、どこか微笑ましい。
「どうした?」
白々しいと分かりながらも、先を促す。文葉は、はくりと一呼吸を置いた。
「言ってたブックカフェ、寄って帰らない?」
とことんまで気遣われている。俺は苦笑いで、裾を引いていた文葉の腕を取った。
「約束してたもんな」
「うん。そう」
「こういうときは、ついていくべきなんだもんな」
「そうだよ」
文葉は心底ほっとした様子になる。俺は腕を手放して、背中を叩いた。
「行こう。案内する」
「やった。楽しみだったんだよね。章人くんの家のそばでしょ?」
「……うちは教えないぞ」
「ちっ、バレたか」
「知ってどうすんだよ」
「書棚を覗こうかと」
「なかなか理解できる理由で困る」
誰の書棚でも見たいわけじゃない。けれど、好みが割れている。その書棚が気になる気持ちは分かった。
苦笑いしながら進む後ろを、文葉が追いついてくる。いつも通りだ。気を遣っているのが顕著なのに。
良い子だな、と素直に思う。
彼女がいなければ、俺はこうしていられなかっただろう。道中も、文葉はよくある本談義を重ねてくれた。
初めて入るブックカフェは、木目調の調度品が整っている。クリーム色とウッド調の壁紙も、統一感があってよい。
同じく木目の本棚に、ぎっしりと本が詰まっていた。コーヒーと軽食。書籍の香りが混在した空間は、俺たちにとっては楽園だ。
入った瞬間に、文葉がぱああと煌めきを散らした。アニメなどのキラキラしたエフェクトが見えるようだ。その歓喜の瞳が向けられて眩しい。
こうして、お出かけを申し出てくれたのは気遣いだろう。けれど、それだけじゃない楽しさを感じられているのであれば俺も嬉しい。
テラス側の二人席に向かい合って座る。文葉はカモミールティーとショートケーキのセット。俺はコーヒーにパウンドケーキを注文した。本来なら、ここで本を選ぶのだろう。今は一旦、話すべきことがある。
まだ、心の折り合いはついていない。けれど、文葉に伝えるつもりはあった。大丈夫だと慈しんでくれる文葉には、何を伝えても大丈夫だと確信がある。他の誰よりも信頼していた。
メニューが届くまでのしばしの間、沈黙を共有する。沈黙の中身まで共有できているなんて傲慢になるつもりはない。きっと違うことを考えている。それでも、沈黙に焦ることはなかった。
運ばれてきた飲み物で喉を湿らせて、ふっと息を落とす。それを皮切りにしようとするのも、共有ができていた。
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