十年分の決着④

 文葉が渋い顔になる。言わんとすることは、瞭然だった。肩身が狭い。毛先を弄るのと逆の指先が、テーブルに打ち付けられる。言葉なくして責められるのは、心に来た。


「章人くん」

「穂架さんのほうがずっと困ってるし、悩んでるって言うんだろ」


 人の発言を遮る。こちらから問いかけておいてこれだ。終始情けなくて、惨めだった。大人になりたいともがいていた日々は何だったのか。こんな分かりきっているところで、駄々を捏ねるように喚いている。

 額を押さえて、ぐしゃりと前髪を掻き乱した。


「そんなもの知らないよ」

「……は?」


 すぱんと切られて、思考が止まる。吊し上げられるものだと思っていた。

 テーブルを指先で叩く身振りには威圧感があって、苛立ちの表れだろうに。それを切り捨てられて、呆然とする。

 文葉は苦虫を噛み潰したような顔になった。


「だって、あたし、棚田さんのこと分からないもん。懊悩してんのは章人くんでしょ。それを人と比べてどうこう言うつもりないし。ただ、どうしたもんかなぁって思ってただけ」

「……文葉は、俺に甘いと思う」

「厳しくする理由ないもん。同志だし」

「女の敵にされてもおかしくはない」

「それはまぁ、人によるんじゃない? あたしは敵対する気ないし。とにかく、このままじゃダメなのは本当じゃん?」


 甘いのだが、甘いがゆえに辛辣でもある。この辺りのバランス感覚も絶妙だ。心地良いというのは虚勢だろうけれど、ありがたいことだった。


「おっしゃる通りで」

「ちゃんと、告白し直すのがベストだと思う」


 一刀両断されて、俺に為す術はない。ぺたんとテーブルの上に倒れ込んでしまった。


「だって、そうでしょ? ずっと黙ってなんてられないんだから」

「黙って秘め続けるってことも」

「できないでしょ、章人くんは。真面目だもん」

「……拗らせてるからな」


 真面目を拗らせたら、それははたして真面目なのか。堂々巡りをしている。


「だからね、やっぱり伝えることを伝えちゃったほうがいいと思う。拗らせてるの全部解くしかないでしょ?」

「容赦ないなぁ」

「章人くんだって、分かってるから図書館行くのずーっと躊躇ってるんでしょ。勉強だって、後半集中してなかったし」

「図書室でも済むし」

「済まないよ」


 今まで二つの場所を一緒に移動してきた。本への愛情を思えば、俺の行動など明快だ。文葉だって、きっとそうだ。だからこそ、説得力は強かった。

 ふいっと伏せて逃がそうとした視線を遮るように、文葉の手のひらがうつ伏せた頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜてくる。いつもよりも乱暴な手つきは、髪だけは済まずに頭ごと揺さぶられた。


「ちょっと、あやは」


 揺さぶられているものだから、声音がブレる。年中本を読んでいる人間に、筋力が備わっているわけもない。


「大丈夫だよ。章人くんは真面目なんだから」


 威力こそ緩んだが、まだ人の髪の毛を弄り続けながら、文葉は滔々と語る。うつ伏せた状態から文葉を見上げようとすると、頭に伸びている腕が邪魔になってよく見えない。どんな顔で言っているのか。文葉の顔を見たかった。


「だから、あたしのことがなくたって、章人くんは誠実に棚田さんに気持ちをぶつけて向き合ったはず。ちょっと調子が狂っちゃったかもしれないけど、覚悟していたいつかが少し早く来ちゃっただけだよ。章人くんなら、大丈夫」


 繰り返される。保証というには、理由が弱い。けれど、俺の胸を温めるには十分だった。

 頭に伸びている腕を捕まえて、顔を持ち上げる。

 陽光に照らされたリスのような髪の毛が艶を放っていた。ふわりと目を細める。慈愛に満ちた表情が、俺を見下ろしていた。

 輪郭が輝いて、抱擁されているような。心の底を繊細な手つきで撫でているような。泣きそうになるほど優しくて、信じられないほどにすべてを信じられそうだった。

 ほんの少し、弱々しくも見える柔和な笑みが眩しい。見上げる文葉は、まるで女神みたいだ。


「大丈夫。何があってもあたしがいるから」


 女神がいてくれて、それ以上に心強いことがあるだろうか。




 俺の女神さまは優しいだけではないので、すぐに起き上がらせられて、鞄を押し付けられて、学校から追い立てられた。

 今すぐ行け! と一瞬の迷いも許さないとばかりに見送られる。追いかけられているわけではないから、いくらだって逃げられた。けれど、相手は女神だ。逃げられるわけもない。

 観念か。文葉への信頼か。俺は黙々と図書館への道を一人で歩いた。そもそも、図書館へ行くのが久しぶりという稀な感覚。そのうえで、文葉がいないことに違和感ばかりが走る。

 いつも隣にいた。

 文葉の存在の大きさが、今になって胸に迫ってくる。女神だと崇め奉るようなことを思っておきながら、遠い存在だとは思わない。隣にいてくれる。俺の大切な読書仲間。

 穂架さんに会うのは、まだ怖い。けれど、文葉がいる。大丈夫だと、何度だって言い聞かせてくれた声が心を支えていた。依存している。苦々しさを噛み締めて、図書館へ到着した。

 閉館後。穂架さんがどのくらいの時間に帰っているのか。何度かそのときに会話をしたことがある。今日もまた、その時間を狙うことにした。ただの利用者であればできない。完全にストーカーだ。

 しおりを渡してくれたときに穂架さんがこの方法を採ってくれていなければ、実行に移す勇気はなかっただろう。けれど、腹は据えた。

 文葉の姿が心に居座っている。それをお守りのように引き連れて、館内で時間を潰した。夕陽が半分以上沈んだころ。閉館間際に外へ出て、職員入り口のそばにあるベンチに腰を下ろす。

 日陰になっていることに安堵しながら、俺はじっと穂架さんを待っていた。本を読んで時間を潰す余裕はなかった。集中しきれるとも思わないし、穂架さんを見過ごしてしまっては元も子もない。

 そばのベンチといっても、四・五メートルほどの距離がある。タイミングを逸すると、声を張り上げたりしなければならない。

 やりたくないなんて言うつもりはないけれど、工程を増やすと空回りしかねなかった。穂架さん前での自分の動きは、一ミリも信用ならない。

 夕暮れに濃く薄い藍色が覗くころ、穂架さんが姿を現す。久しぶりというには、館内整理よりも短期間だ。それでも、心理的にはもう何ヶ月も会っていないようだった。

 穂架さんもこちらに気がつく。その表情が困ったような気まずいような顔になった。当然だろう。崩れそうになる表情を引き締めて、穂架さんの元へと向かった。

 いつからか、見下ろすようになっていた穂架さんの前に立つ。


「少し、良いですか」

「……うん」


 現在進行形で、迷惑をかけ続けている。今更、呼び出しひとつ増えたところで、何かを穴埋めできるとは思えない。

 俺はさっきまで待ち侘びていたベンチへ穂架さんと移動した。隣同士に腰を下ろす。どうにも落ち着かなくて、二度三度、座り心地を確かめるように座り直した。

 隣の体温。風に舞って香ってくるシャンプーの香り。それに身の置き所がないのは、穂架さんとこうした経験が少ないからか。

 それとも、そこにはいつも違う人物がいるからか。その些末事にかかずらっている時間はなかった。


「この間は、急に立ち去ってすみませんでした」


 ああ、意地だなと思う。消せないでしょ、と公正に言い切った文葉の言葉は間違っていない。


「ううん。私も悪かったから」

「いえ。穂架さんは何も」

「そんなことないよ。私が知ったような口を利いたからね。彼女……あの子も、気を悪くしたんじゃないかなとも思ったし、章人くんには本当に悪いことをしたなと思って反省してたの。ごめんなさい」

「……文葉は気にしてないので、大丈夫です」


 迷惑をかけたかな、という気遣いはあったが、自分が勘違いされていることには泰然自若としていた。


「俺は……そうですね。穂架さんが俺の気持ちにまったく気がついていなかったのは、仕方がないことだと思います。なので、勘違いされたのも仕方ありません」


 責める気はない。悄然とはするけれど。


「だから、あれはあれでよかったと思っておきます」


 そんなふうに勘定できているかは怪しい。よかった、と放言するには、反省する部分が多過ぎる。それでも、やっぱり消せないのだ。

 文葉は俺よりも俺のことを理解してくれているのかもしれない。


「……それは」

「好きですよ。ずっと、好きでした」


 いつから、なんて思い出せないほどには、自然に。決めた覚悟は、思ったよりもすんなりと音になった。喉はカラカラではあったが。


「これはさ、私が言うことじゃないと思う。けど、あやふやにしても仕方がないから、聞くね。憧れのお姉さんってわけじゃないんだよね?」


 失笑してしまいそうになる。人の思考ロジックとは、大体同じルートを辿るものらしい。俺と穂架さんが存外似ていることを、今になって知った。


「違いますよ。そりゃ、最初はそうだったかもしれません。俺は穂架さんに出会って、本に出会えて、世界が変わりました」

「責任を取って、って本気だったんだね」

「そうですね。それくらい、世界が変わりました。だから、俺は貴方のことを好きになったんだと思います」

「そっか」


 隣同士。顔をまじまじと見ることはできなかった。視界の端で捉える穂架さんの表情変化はいまいち読めない。それは俺の技術が足りないのか。穂架さんが平素であるのか。その差さえも読めなかった。

 相槌で打ち止められた沈黙に、じりじりと精神が削られていく。太腿の上で握った拳の力加減が分からない。握力が馬鹿になりかけていた。息が詰まる。

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。気が遠くなるような時間。じっくりと時間をかけて、穂架さんが呼気を揺らす。背筋を叩かれたようだった。


「……ごめんなさい」


 しんと静まり返った夜の近いベンチのそばにぽつねんと落ちた言葉は、ゆっくりと身体に染み込んできた。

 不自然なほどに、平安に。次第に。


「ただの未成年の利用者ですか?」


 コンプレックス全開過ぎた。チャンスがありますか? とか。モーションにしたって、別の言い回しがあるだろうに。普段、読んでいる表現の反映は、ろくすっぽできないものらしい。


「そんなわけないでしょ」


 その一言にどれだけ救われたのか。

 顔を上げて、穂架さんを正視した。穂架さんは困り顔で。けれど、俺を真っ直ぐに見てくれていた。ずきりと胸が痛む。

 未成年の利用者。そんな遠い距離だと言うには、その姿勢は真摯だった。


「彼氏がいるから、章人くんの気持ちには応えられないの。他に好きな人がいます。章人くんが未成年だからとか、利用者だからとか、そういうことじゃないから」

「……そうですか」

「ごめんなさい」

「いえ、ありがとうございます。はっきり言ってくれて安心しました。これからも、図書館は利用するんで。それじゃ、今日は時間を取ってもらってありがとうございました。迷惑かけてすみません」

「迷惑だなんて思わないよ。好きになってくれて、ありがとう」

「いいえ……じゃ、俺はこれで」


 ぺこりと頭を下げたら、もう足元から視線を動かせなくなった。そのまま立ち上がって、もう一度お辞儀して踵を返す。


「気をつけてね」


 背中にかけられた声は、読書仲間に。利用者に。仲のよい友人に。知り合いに。そのどれにも適合するフラットな穂架さんのもので、どうしようもないほど堅実なものだ。

 振り返らずに帰路へ着く。

 長く伸びた影が、夜闇に飲み込まれるようだった。

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