十年分の決着②
『章人くんはあたしを引きずり落としておいて、しれっと点数を取っちゃうタイプでしょ。ひどい』
『やってもないことで責められる理不尽』
『だって、章人くんって一緒に走ろうねって裏切りそうだもん』
『俺を何だと思ってんだよ』
『一緒に読書をしても、先に読み終えちゃうじゃん』
『それはしょうがないだろ』
無茶苦茶な絡まれ方をしている。俺への気遣いのターンを終了して、話に重心を傾けて自由に興じているかもしれない。気を遣われ続けるよりは、ありがたい距離感だ。
だが、だからって、理不尽に絡まれたいわけじゃない。読書速度に違いがあるのは自然なことだろう。
『まぁそうなんだけど。でも、章人くんはそうやって他のことも易々こなしそうなんだもん。あたしとは要領の良さが違うっていうか』
『急にどうした?』
何気ないことだが、風向きが怪しい。ちらりと横目に文葉を窺うと、頬を机に預けてこちらを見ていた。目を眇めると、文葉はへにょりと笑う。
「文葉?」
思わず漏れた声を飲み込んだ。んん、と咳払いで声量を誤魔化す。文葉は苦笑いになって、姿勢を正さないままにスマホを打ち込み始めた。
『自己評価がおかしいから』
『またそれか』
『そうだよ』
それが核心のそばに寄り添うことだと分かったのは、偶然だっただろう。本当にそうだなんて確信はなかった。ただ、下がり眉で話す文葉の表情と合わせれば、読めるものがいくらかあっただけだ。
『章人くんは自信持っていいと思う』
無邪気に言っているわけじゃない。反射で否定してしまいそうになるのを自戒するほどには、俺は文葉を信用している。
俺がどんなに流動的な本の渡り歩きのような会話をしても、突き放すことはない。ついてこられなくても、相槌を打って追いかけてきてくれる。俺があちらの道が分からなくても、マウントを取ることもなく、歩調を合わせて並んでくれる。そうした貴重な相手だ。
いくら心情を撹拌されて気分が鈍っても、隙間に受け入れられるほどには門扉は開いている。
『真面目だもん。勉強できるもん』
核心から離れるようにメッセを重ねた文葉は、泣いている猫のスタンプを連打してきた。悲しいか悔しいか。分からないけれど、そのスタンプに流されてメッセが画面の外側へスクロールされていく。冗談であると言うかのように。話を流してしまうように。
気遣いなのか。ただのマイペースなのか。その微温的な処置が文葉の仕様になっていて、俺の心を癒やす。
『分かった分かった。だったら、やるしかないだろ? もう日数ないんだから』
『はーい』
良い返事なのは、文字だけだ。続いたスタンプはどんよりへこんでいる。不満の訴え方があからさまで、いっそ快かった。文葉はうつ伏せになったまま動こうとすらしない。苦笑いが零れた。
一人席には、人が少ない。勉強会として集まっている生徒は、広い机に集まっているものだ。周囲へ視線を投げても、誰もこちらに注目なんてしていない。それを確認して、一瞬だけ手を伸ばして、文葉の頭をぽんと叩いてすぐに引いた。
文葉はばっと顔を持ち上げて、目を瞬く。視線を切った視界の端に、射抜くような視線を感じた。
「なに?」
「頑張ってるから」
「……子ども扱い」
「同志だと思ってるよ」
「ふーん?」
芯からの子ども扱いがどういうものなのか。説明してやろうかと思うくらい、俺はそれを知っている。それがどれだけ気持ちをめげさせるかも。
俺の告白に絶句していた穂架さんを思い出して、胸がキリキリした。
一方的な押し付けに驚愕していたのだから、仕方のないことだ。あの反応のすべてが、俺からの意外性だけに縁取られていたとは思っていない。唐突過ぎた。それはようよう分かっている。
それでも、あの瞬間まで、俺は未成年の子どもとしてしか扱われていなかった。
寸秒で思考がここ数日の懊悩に引き戻される。常にそこにいるようなものだが、それでも文葉と接している間は、文葉が主役になった。そうして希釈されていたものが一気に濃くなる。苦味が口内に広がった。
そのタイミングを見計らったわけでもないだろう。文葉の腕が伸びてきて、背を叩くように撫でた。
お返しでしかなかったのだろう。けれども、奇しくも、というものだった。俺にはこの上なくナイスタイミングだ。
そして、そのタイミングを心の切り替えに使ったらしい。文葉はゆるりと身体を持ち上げて、ノートを見下ろしていた。勉強を再開させるようだ。
俺も同じように、スマホを置いてシャーペンを握り直した。そこからは無言で励む。やり取りは、再びルーズリーフに戻り、内容も勉強一色になった。
俺たちはその後も勉強を続けて、試験期間に突入した。そうなると、大義名分はますます力を増す。事実、試験以外に時間を割いていられるほど、俺は抜群の優等生ってわけではない。余裕のなさはリアルだ。
穂架さんのこともリアルだが、懊悩したって逃避していたものが片手間にこなせるわけもない。試験中は謙虚に試験に集中していた。
文葉も同じだ。面倒くさそうにしていたし、息抜きの回数が多くなることもあった。しかし、試験が始まってしまえば、よそ見をすることもない。二人揃って集中できている。
そうして、試験期間は矢のように過ぎていった。
テスト用紙が返却されるまでは、ギリギリ試験期間だと言い訳を立てていた。正式に誰かに言い訳したわけではないけれど、引き続き学校図書室に引きこもるのは変わりない。引き延ばしを試みていた。
しかし、三日目ともなると苦しくなってくる。それは、自分の読書欲。図書館通いへ対する趣味視点もあったが、半永久的に逃げ続けていられるものではないという現実的な面もある。
そして、何よりも切実に突き刺さるのは、同じように図書室通いをしてくれている文葉の視線だった。目は口ほどにものを言う。
そして、文葉は無言で通じると思うほどに、都合の良い思考回路をしていない。言葉を尽くすことが裏目に出ることも往々にしてあるようだ。この場合は、当人には何も裏目になってはいないのだけれど。
「章人くんさ、いい加減聞いてもいい?」
ずっと我慢していたのだろう。今でも尚、厚顔なわけでもない。口調とは裏腹に、探るような眼差しと声音の細さがあった。
それでも容赦がないと思うのは、俺が腑抜けで逃亡癖があるだけだ。
「……何がだ」
「そんな重々しい反応しておいてすっとぼけられると本気で思ってるの?」
やはり、容赦がない。渋面になる。文葉は肩を竦めて、図書室内を視線でさらった。
「場所が場所だからってのはもう聞かないよ?」
試験が終わった矢先に、人足はぱたりと途絶えている。何という恩知らずか。……会話を避けずに済むのはいいが。だが、いてくれれば場所がという建前も立てられたという悪足掻きを抱く。みっともないだけだ。
心中……これは、思考だろうか。怜悧な理性では、理解していた。ただし、行動が伴っていない。
「……それでも、人がいないほうがいい」
「じゃ、中庭? 屋上は開いてないし。図書館そばの公園とか行く?」
「話を聞かないって選択肢はないわけ?」
「章人くんだって話したほうが楽になるんじゃない?」
どうだろうか。
文葉に話すことで安堵を得た。今まで誰にも言えなかった枷から解放されたような気持ちになったものだ。それと同じ体感を得られるのか。その確証は、胸を漁っても引き当てられなかった。
楽になる。文葉は尽力してくれるだろう。その信用はしていた。だが、自分の気持ちが見えない。
「ほーら。ぐだぐだ言ってないで行くよ」
ぐいっと腕を引き上げられる。会話を強引に運ぶことはあったが、こうしたアクションを取られることは稀有だった。
文葉は俺の分の鞄まで手に取ると、そのまま腕を引っ張ってくる。胸が当たっているのもお構いなしだ。気にはなったが、腕を引く力を前にすると意見することもできない。
大股で進む文葉の後ろをついて、中庭に出る。
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