第五章 十年分の決着
十年分の決着①
試験まではあと二日。一昨日、穂架さんに恋心をぶちまけてから、一度も図書館には行っていない。文葉とのことを懸念して避けた図書室に引きこもっている。
文葉は何も言わずに俺の隣に腰掛けているし、話しかけてくることはない。時々、人目を縫ったように教えを請うルーズリーフが差し入れられてくるくらいだ。
この密やかなやり取りが当初から思いついていれば、策を弄しなくてもよかったのかもしれない。ひいては、自分が暴走するのを止められた可能性もある。そうした責任転嫁をしてしまいそうになるくらいには、自責の念に駆られていた。
穂架さんも、法外に困惑しているはずだ。せめて、もう少しまともな告白をしていれば、告白への困惑しかなかっただろう。
けれど、有無を言わさず押し付けてきた。それだけでも取り扱いに困るというのに、挙げ句逃げ出している。
事態をひっくり返せやしないのだから、ひと思いに追い打ちをかければよかったのか。そう一転する気持ちもあるが、自棄になってどうするんだというブレーキが利く。あのときに利いていれば、失言もなかっただろうに。
……告白を失言に振り分けている自分の醜さにも、胸が重くなる。そんな自省したくなかった。打ち明けるとして、体裁があったはずだ。
気を抜くとため息が零れそうになって、堪えようとすると空気を飲み込んでしまってばかりになる。胸が詰まって仕方がなかった。
それを振り切る理由に、勉強を利用している。実際、やらなければならないことだ。けれど、穂架さんから逃げる理由として、殊更に掲げていた。
文葉だってそれに気がついてはいるのだろう。けれど、今のところ、一昨日そうしたように素知らぬ顔をしてくれている。……把捉できるものを素知らぬというべきかは疑問だが、触れずにいてくれていた。
いつもなら、穂架さんのことを引き合いに出すこともある。それも控えられていることを考えると、推量できているのかもしれない。
どの程度かは分からないけれど。文葉なら、ともすると、ともするかもしれないと思わせられる。これは過大評価であり、甘えているだろう。文葉なら、とどこかで期待していた。
『手が止まってるけど?』
震えたスマホに驚く。
ルーズリーフのやり取りからの外れた便りは狙いでもあるのか。猜疑心とは言わぬまでも、不安が顔を出す。自分が後ろめたいがだけの心運びが渋かった。
『一息』
『目の前に閉じられてる教科書は?』
『何もしないのが休憩だろう』
返しておきながら、胡散臭い。文葉だってお見通しだろう。そのくせ、核を突いて爆発させようなんて無謀な真似はしない。
文葉のこの的確な距離の測り方はどう身につけたものなのだろうか。俺にも、その一片でもあれば、穂架さんへの応対を間違わなかったかもしれない。許容量を超えたとしても、元の能力が高ければ多少の延命は図れる。俺では到底、無理だった。
だから、勉強に逃げるという最悪の選択をしてしまっている。なまじ、試験前として理屈がくっついてしまうものだから、開き直ってしまっていた。
『胡散臭い』
『集中できてないんでしょ?』
核は攻撃しないまでも、連投してくる手厳しさはある。
『そういうときもあるだろ』
『あたしはいつもだから』
『自信満々に言うな』
ひゅ~と嘘くさい口笛を吹く猫スタンプが連打される。送り返した呆れ顔の猫スタンプは、文葉にプレゼントされたものだ。味気なさ過ぎると文句とともに送りつけられた。文葉以外に使う人はいないけれど、使い勝手はよくて気に入っている。
文葉は猫が好きらしい。口にして聞いたわけではないけれど、筆記用具やノートに猫があしらわれていることが多かった。
文葉からはぷんぷんしている猫のスタンプが返ってくる。怒りマークがついていても、猫で良い具合に中和されている。その味付けも文葉に符合しているだろう。少なからず、俺はそこに文葉らしさを見出していた。
そのうちに、猫を見ただけでも文葉を思い出しそうだ。今だって、文葉が俺を占める割合は多いというのに。
穂架さんを考えるとき、文葉の影がちらつく。文葉に穂架さんのことを口外したときから、その二つは繋がりを持ってしまっていた。
そうして、一度結びついたものを断ち切るのは難しい。穂架さんは俺の心の奥深くに根づいている。そこに繋がってしまった存在を軽視できるわけもない。その人間が、これ以上ないほど好みの合う読書仲間であれば、尚のことだ。
穂架さんに繋がっていないとしても、単独で胸の内に入り込めるスペックがある。そんな相手であるから、俺は常にどちらかのことを考えているようなものだ。
文葉と接しながら穂架さんを想い、穂架さんへの失態を反省しながら文葉へ甘えている。
実質的に声援を送ってくれて、味方だと言うだけが、甘やかす行為ではなかった。核心には触れない。そのくせ、気遣いを欠かさないでいる。
こうした対応ってのは、個人の好き嫌いに依存するものだ。文葉のやり方が必ずしも正答というわけではない。
けれど、俺にとっては望ましかった。隣にいてくれることに、深謝するほどには。
穂架さんへぶちまけてしまったのは、元を辿れば文葉という変化によるものだ。それでも、今は文葉がいてくれて助かっている。責める気なんて微塵もない。しでかしたことは、ひとえに自滅だ。押さえつけていたものが、零れてしまっただけだった。
相手にされていない。それと同じくらい、ずっと思っていた。
いつまで黙っていられるのか。感情を押し殺していなければならないのか。そんな勇気もないくせに、一人前にそんな感情も抱えていた。それを吐き出した。
悔悟のほうが強くて、悪夢のような気分だ。懊悩が消える目処だって、まるで立たない。それでも、どこかで何かのつかえがひとつ取れたような気持ちもしている。無作法な告白で解放を手に入れているなんて、最低もいいところだ。
解放されているくせに、自己嫌悪に縛られている。矛盾していた。沼に足を取られて抜け出せない。
苦い。渋い。あるはずの味はいっそしない。泥を啜っているのか。砂を噛んでいるのか。明々としているのは、馬鹿をやっているという至極単純な真理だ。
『こうなったら、息抜きしない?』
『甘言で誑かそうとするなよ』
『あたしごときじゃ章人くんを誑かせないよ』
『釣るべき物の精度が高過ぎて赤子になりそう』
『無理無理。返り討ちに遭いそうだもん』
『道連れにはできそうだな』
『それ、あたしのほうが大変な目に遭うと思うんだけど?』
『痛み分けだろ?』
再び、ぷんすかのスタンプがくる。頬を膨らませているのだろうと想像がついた。
俺たちは隣にいながらも、隣を見ることもなく、やり取りをしている。もう誤解はごめんだ。穂架さんにされるよりも深刻なことなんてないけれど。自分がそういったものに耐性がないことは身に沁みた。
既に渡会には中途半端な対応をしてしまっているのだ。文葉を巻き込んで粗相をしでかしたら、と思うと胸が軋む。避けられる手段があるのなら、万全を期したい。
文葉を奉るほど畏敬するつもりはない。けれど、自分のせいで人に詰め寄られる文葉は見たくなかった。文葉なら、飄然とかわすのかもしれない。想像もできる。
でも、だからって、文葉の力量に甘えていいわけではないし、心が疲弊しないわけもない。そんな打撃を与えたくはなかった。何事もなく、俺を癒やしてくれる存在を傷付けたくはない。
文葉を大切にしたかった。
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