十年目の暴露⑤

「それって、特別じゃないの?」

「……穂架さんだって、俺にぶつかって茶化してきたり、そういうこと、あるじゃないですか」


 文葉との間に、深い意味はない。穂架さんが俺にスキンシップを取ってくるのと、落差はないだろう。虚しいけれど。

 こういった感情の齟齬がない分、文葉とは親密に見えるのかもしれない。


「でも、章人くんが私に触れることはないでしょ?」


 そりゃ、貴方に触れることなんてできないからだ。

 文葉とは違う。これは、文葉には悪い言い方になるのかもしれない。けれども、読書仲間であって、文葉であるから触れられている。軽々しく、というのは、やっぱり文葉に悪い。

 けれど、穂架さんへ飄々と触れられるわけがなかった。

 伝えられないある種の拒否にも等しい心情に、言葉が詰まる。その戸惑いの間を、穂架さんは核心を突いたと判断したようだった。


「それは、やっぱり、あの子が特別ってことじゃないの?」


 間違ってはいない。文葉と他を区別しているのも、読書仲間という特別枠に入れ込んでいるのも。

 けれども、それは穂架さんとは違う。


「読書仲間ですからね」


 口にしている称号は本心だ。誤魔化しなどない。たとえ穂架さん相手でも、憚るようなことはなかった。確固としているのに、眼前の穂架さんへ通じている手応えがない。暖簾に腕押し。糠に釘。

 なんだろうか。

 どうすればいいのか。


「そうかなぁ」

「そうですよ」


 否定が強く、音が低くなる。過剰反応だ。

 こういう物事の否定に、感情論はダメだと叫ぶ冷静さがあった。けれど、突発的に出たものを塗り替えようと躍起になれば、誤解は加速する。

 妙な冷静さがある分、感情の幅があった。文葉なら、俺のこの不安定な胸中を推測することもできるのだろう。

 穂架さんには無理だ。

 一番大事な心の指標を知らないのだから。

 もどかしくて、胸の中に靄が広がる。穂架さんの察しの悪さは、やむを得ないものだ。そう理解している。文葉には甘えているだけだとも。

 けれど、どうしたって感情が不安定に揺れていた。


「章人くんって鈍感なんだっけ」

「なんでそうなるんすか」


 深く息を吐き出したい。ぐつぐつと煮立つ熱をどこかに放出しなければ、やっていられそうになかった。

 代わりというわけでもない。そのときに、そんな代替行為だなんだと考えてなどいない。髪の毛を掻き乱す。些細な身動ぎだ。いつもなら。

 けれど、異例な話題の最中の身動ぎを何事もなくスルーしてくれるはずもない。穂架さんは俺からの好意には鈍感だが、だからといってすべてにおいて鈍いわけではなかった。

 恋愛感情まで知っている文葉と比べると、ブレ幅は大きいけれど。


「だって、あの子へ対する気持ちについて、あんまり自覚なさそうだから」


 ……自覚。気持ち。

 文葉への。

 読書仲間だ。

 その判定を違っているとは思わない。俺の中には、それよりも鮮烈な存在と感情があるのだから。その差を見間違うことはないはずだ。


「考えるようなことがあるんじゃないの?」


 突かれて痛いのは、図星だからじゃない。そんな余地なんてあるはずがないからだ。明瞭としているから、口が開けない。下手に開けば、余計なことを口走りかねないから。だが、沈黙は誤解を塗り重ねる。

 正直、何をしたって誤解を強固にしている穂架さんには悪手にしかならない気がした。何を言っても無駄だと。無常感が胸を占める。


「大切にしてるんじゃないの?」


 重ねられれば重ねられるほど、占められた無常感が零れて吐息になった。辟易を隠しきれなかった音は、さすがに穂架さんへ疑義を抱かせたようだ。こうまでしなければ届かない。俺の気持ちを知らないとはいえ、七面倒臭さは拭えなかった。

 この差はなんだろうか。

 我ともなしに、文葉と比べている。それだけ、文葉の存在が大きくなっていた。大切じゃないとは言うわけもない。渡会に答えたように、それもまた断固として言い切れる。

 それがまた、諦観と苛立ちを生むのだろうか。


「大切ですよ。読書仲間なんですから」

「それを鈍感じゃないのかなって、私は言ってるんだけどな」


 ループしている。

 文葉が俺と穂架さんのことでここまで突っ込んでくれば、同じように煩わしく思うだろうか。

 無意識に、比較を重ねている。穂架さんが文葉を引き合いに出してくるのだから、どうしようもならない。それにしたって、無駄な足掻きだ。どれだけ比較を重ねて文葉の大切さを反芻したところで、穂架さんへの気持ちがなくなるわけじゃない。


「そんなことはありません」


 断言した俺に、穂架さんは困った顔をする。

 感情が読めないのは、憧憬と恋心を拗らせて距離を縮められずにいたツケか。それとも、掻き乱された感情がノイズになっているのか。どちらにしても、分からないという事象に変わりはない。


「頑なだなぁ」


 困り顔との合わせ技で、どうしようもない子どものように扱われている気持ちになる。それが乱雑に絡まって許容量を超えそうになっていた感情の、最後の一押しになった。


「文葉は文葉ですよ」


 つるっと零れた言葉は、刺々しい。いじけてへそを曲げるガキだ。何が大人になって、隣に並びたい、か。自分の態度が自分の首を絞めている。勢いの言葉は、歯止めが利かなかった。


「俺には心に決めた人がいるんで」


 ここで毅然と名前をぶつけられない辺りが、ヘタレでクソ真面目に拗らせているというのだろう。

 我ながら、忌ま忌ましい。皮肉な笑みが口の端に乗る。


「そうだったの?」


 呆けたように目を瞬く穂架さんには、甚だ心当たりなどなさそうだった。正しい。何も間違っていない。

 相手にされていなかった。利用者として親しくしていた。気まずくなりたくなくて欲など見せられたものではなかった。追いつきたいと願いながらも、迷惑をかけたくなかった。

 だから、穂架さんに該当者がなかろうと、俺が憤るのはお門違いだ。分かっていた。分かっている。

 ……分かっていても、抑えが効かないときというのは、ある。


「そうですよ。俺は、穂架さん一筋ですから」


 館内は常々静かだ。そこに痛いくらいの静寂が広がる。穂架さんの瞳が真ん丸に見張られた。至純たる仰天。それ以外の感情は、どこにも見当たらない。


「そういうことですから、文葉は文葉です」


 臍を噛む意識はあった。けれど、驚き以外の揺さぶりを引き起こせなかったことが、痛切に虚しい。

 俺はそれだけを告げると、もう穂架さんを見ていられなくて、そのまま踵を返した。少しずつゆとりが戻ってきて、頭の裏から熱が身体を伝播していく。自分がひどい顔をしているのが、嫌でも分かった。

 横暴に投げつけるような滑稽な告白なんて、考えたこともない。言い募りたいことなんて、もっとあった。自分が学生であることへの言い訳なども含めて、いくらだって伝えるべきことはある。

 十年。

 山積されている。

 なんて不躾で不格好な真似を。かといって、今すぐとって返す勇敢さは持ち得ない。俺はそのまま真っ直ぐに館内を突き進んで、学習室へと戻った。

 文葉はぐでんとうつ伏せたままだ。その身体が扉の開閉音に気がついたように顔を持ち上げた。寝てはいなかったらしい。


「どうしたの?」


 言われても仕方がない顔をしているのだろう。

 文葉が不用な問いを不意に寄越したりするとは思わない。雑談中の冗談や寄り道はよくあるが、空気は読める。

 俺は黙って首を左右に振った。文葉は眉尻を下げて、愛想笑いを浮かべる。俺でも愛想笑いと分かるのだから、隠すつもりもないのか。俺も同じくらい隠すつもりのない顔をしているのだろう。

 文葉はこっちのペースを乱すことも多いが、小細工が得意なわけでもなければ、純真で率直だ。俺は不器用なだけでしかないが。


「本、借りるの?」

「……ああ。うん。移動中に読もうかと」

「あたしのしでかしには白い目したくせに」

「過度じゃなきゃいいだろ? 文葉は徹夜してたんでしょ」

「ちぇー」


 文葉は小器用だ。なんてことのないように舵を切る。

 翻弄するのは変わらない。気遣いも変わらない。いつも通りの振りで笑ってみせる顔に、混迷の影がある。それでも、文葉はブレない。当たり前のように退室する前の話題を引き継ぐように口を回す。

 何だか無性に泣きたくなって、鼻の奥がつんとした。それを瞬きで押さえながら、文葉の隣に腰を下ろす。


「そんなに言うなら、文葉だって好きな本借りてくればいいだろ?」

「急に飴を与えられると怖いんだけど」

「元々、俺が勉強の手綱を握っているわけじゃないし、鞭も何もやってないんだから飴も何もないよ」

「そこは普段の行いがいいからとか言ってよ」


 拗ねたように言って、二の腕に拳をぐりぐりと押し付けてきた。ちっとも痛くはない。わざとらしいくらいの所作が、今は群を抜いてありがたかった。


「悪かったよ。じゃ、館内回ってこいよ」

「やった!」


 だらけた姿勢を保っていたのは何だったのか。空気を読んでくれていたのではなかったのか。すべてを吹き飛ばすように両手を掲げて立ち上がった。それから、椅子に深くもたれていた俺の頭へ腕を伸ばしてぐっしゃぐしゃに撫で回してくる。


「おい、やめろ」


 ヘドバンレベルの威勢の良い腕に触れて、制止を求めた。

 それでも、しなやかな指先が、俺の髪を弄ぶ。梳くように撫でるように引っ掻き回された。文葉は口を開かない。


「文葉?」


 無言過ぎて名を呼ぶと、文葉はぱっと手を離した。


「出て行ったときの仕返しだよ」


 報復のような発言のわりに力なく笑う顔を見れば、それだけじゃないことに気がつける。

 叱咤にならないように。同情にならないように。

 心遣いに、苦笑いが零れた。こんなにも文葉に慮ってもらうには、俺はあまりにも不甲斐ないというのに。甘やかされているのが肺腑に染みる。


「気が済んだか?」

「うん」


 頷いたくせに、手が伸びてきた。文葉の指先は優しく髪の毛を整えてくれる。


「……サンキュ」

「どーいたしましてー」


 俺の感謝がどこにかかっているのか。きっと気付いていながら、なんでもないことのような棒読みが返ってきた。

 本格的に泣きそうだ。


「じゃ、あたし、本見繕ってくるね。章人くんも適度に息抜きしなよ?」


 さくっと言い残して、髪の毛を弄るのをやめると同時に出て行った。こちらの顔色を窺い過ぎない態度が、胸を軽くする。本へ気持ちが流れているだけかもしれないが。何にしたって、俺には良い対処方法だった。

 息抜きしなよ、ね。

 俺は心の澱を吐き出すかのように、深いため息を吐く。後悔の止め方が分からない。こんなはずじゃなかった。ぐるぐると無意味に空回りする思考を閉め出して、文葉がそうしていたようにうつ伏せになる。

 それで何が解決するわけじゃない。逃亡だ。色んなものにあっさり追いつかれて、息苦しくなる。

 息抜きという文葉が、俺の心を静めてくれた。そうした彼女と同じ姿勢でだらけている。そう思うと、少しだけ呼吸が楽になる。文葉がいてくれて、本当に良かった。

 大切だ。

 特別なんでしょう? と言ってきた穂架さんの言葉が、自分の失点とともに頭蓋骨に響いていた。

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