十年目の暴露④
それから、息を吐き出した。
文葉のことを異性だと認識している。少なくとも、電車で胸に縋られたときはまだ、挙動不審さを残していたし、今だってなくなっているわけではない。
けれど、同志としての気が弛み続けている。冷静になると、何をやっていたんだろうかと顧みることも多い。
だが、その時々には、文葉の飾り気のなさに流されてしまっていた。いや、自発的に動いているのだから、文葉に責任を押し付けるのは間違っているだろう。
とにかく、気を許していた。触れることにも、さして躊躇がない。こんなふうになれるものか、と感慨が及ぶ。
文葉といることは気楽だ。
そりゃ、噂にされても仕方がない。千賀浦が知らせてくれていなければ、俺たちは図書室でも同じような接触をやらかしていただろう。そうなると、取り返しはつかない。渡会に見つかったらどうなるのか。想像するだに恐ろしい。早急に手を打って良かった。
文葉がこの辺についてどう思っているのかは想像できない。本に関係することであれば、ある程度の推論を立てることはできる。会話についても同じだ。
だが、内心を見抜くには、俺の手腕だけでは到底不可能だった。けれど、思惑があれば、ああも自然ではいられないだろう。
穂架さんのことで、下手を打たない心遣いはあるはずだから、あれは自然体のはずだ。それに抵抗するなんて、自意識過剰で馬鹿らしい。
だから、俺もまた、文葉に力むのをやめている。平常であるとは言い難いかもしれない。それでも、文葉とは文葉との距離にいる。それだけのことだ。それくらい、通常になりつつあった。
振り返ることはあるが、それはそれだ。まぁいいか、と切り替えるくらいのものになっている。渡会のことを流すよりもずっと、ラフな作業だ。今日もまたため息ひとつで、俺は本棚の間を移動していった。
回遊していれば、徐々にそちらへ意識が集中する。
いくつかの本に目星をつけるが、今は手に取れない。借りれば、文葉の二の舞なのは瞭然だ。人に注意できるような自制心は持っていない。俺が徹夜せずに済んでいるのは、たまたまに過ぎなかった。いつ文葉と同じ轍を踏んでもおかしくはない。
似ているのだろう。
動機は横に置いて、習性として。だからこそ、気を許している。波長が合う相手だった。
しかし、こういうときに限って、読みたいと思える本にやたらと目が留まる。いつもなら借りられている本が返却されていて、歯噛みした。
伸びそうになる手を堪えるが、我慢して意味があるか? と疑念が浮かぶと意味がない。どうせ、通学時間などでは読書を続けている。その一冊に足すくらいならば、と妥協は容易い。
もう一冊くらい、という怠りは耐えた。俺の失敗を先行した存在が、学習室でうだうだしている。あれを思えば、後悔が先に立つという奇天烈な体験ができるというものだ。
「あれ? 章人くん、一人?」
穂架さんに声をかけられて、どきりと心臓が跳ねる。何千回目だろうと慣れない。新鮮な気持ちであることに喜ぶべきなのか。進歩がないことに不安がるべきなのか。声をかけてもらえる喜悦に滲む黒点は無視できなかった。
「学習室ですよ」
「頑張ってるよね。毎日」
「利用者がいなくて助かってます」
「君たちが利用してくれて、必要があると証明できるのはこちらとしてはありがたいよ。調子はどう?」
「順調です」
今はだらけているけれど、勉強していないわけではない。やっているからこそ、気力を奪われている。追試をほのめかしたが、当日に大規模なイレギュラーが起こらない限りは、文葉がそんな点を取る心配などないくらいには順調だった。
「彼女は?」
「彼女もですよ」
穂架さんは文葉の名前をもう知っている。手続きは文葉がやっているし、これだけ通っている俺の読書仲間。悪気なく、覚えてしまうものだろう。
文葉、という名前は、文字や言葉に興味を持っている読書好きには留まりやすい漢字だ。
「しっかりしてるなぁ、最近の高校生は」
「穂架さんだってしっかりしてたでしょう」
俺が穂架さんと出会ったのは、十年前。穂架さんはそのとき既に大学生だったので、高校時代を知っているわけではない。だが、大学に通って司書資格を取って、就職している。将来を見据えてしかと動いていた。
「そう? 章人くんのほうが真面目だし、しっかりしてるよ。彼女とも仲良くしてるし」
「それ、しっかりに含まれるんですか?」
同志と仲良くする。それは、しっかりとは別物だ。
怪訝に首を傾げると、穂架さんはからかうような笑みを浮かべた。
「彼女との付き合いも順調でしょ?」
「……俺、友人関係もちゃんと結べないほどしっかりしてないとか心配されてたんですか?」
読書仲間ができた、と声をかけてくれたときも、俺の成長として受け取っていたようだった。
成長をしっかりしてきたと言うことはあるかもしれない。けれど、よもやそこまで不足があると思われているとは。そんなに、小さな子どもだろうか。
「え、だって、彼女でしょ?」
その問い返しの人称に気がついて、心臓が止まる。
最初。それから、しばらくの間はただの人称として使われ続けていたはずだ。恋人というニュアンスで使われたことは、今までなかった。ぽっと出で、どこから湧いてきたものなのか。
止まった心臓が、止まった分を取り戻すかのように、滝のような血流を立てた。脈拍が乱れて、心臓が痛い。
「彼女じゃ、ありませんよ」
途切れそうになる音を無理やりに繋げた。それは純然たる事実であるので、躊躇なんてあるはずもない。けれど、穂架さんに誤解を受けている。それが文葉との関係を途端に疚しいものにした。
渡会のときは動揺よりも辟易のほうが勝るほどであったというのに。衝撃度の違いは比べものにならない。
彼女。
愕然とする。足元がぐらぐらと揺れているようだった。いっそ、眩暈を起こしていたほうが楽ではなかろうか。
「そうなの? でも、すごく仲良しだよね?」
「……それは、そうかもしれませんけど」
どこを写実して、すごく仲良しとしているのか分からない。だが、否定もできなかった。自分だって、文葉との距離が他の誰とも違うと分かっている。
渡会に聞かれて大切にしていると答える程度には、距離感は違っているのだ。
「学習室で二人っきりで肩を寄せ合ってたから、てっきりそうなのかなって」
切り取られると、ますます退けることが難しいような気持ちにさせられた。
肩を寄せ合うどころか、ついさっきは背を支えて寄り添っていたくらいだ。図書室であれば噂に、と思った。その思考があって、この失態。むしろ、館内ほど俺には誤解して欲しくない人がいるというのに。迂闊だった。
ひやりと心臓が凍える。俺は緩く首を左右に振って、額を押さえ込んだ。
「あ、まだ付き合ってなくて、頑張ってるところとか、そういう感じだった?」
ささくれ立つ気持ちを必死に平らへ押し付けて引き伸ばす。
誤解に苛立つことは、八つ当たりだ。穂架さんは事実に基づいて、朴直に誤解しているのだから。俺の気持ちを分かってくれないなんて、そんなものは逆上でしかない。
「そんなんじゃないですって」
「そうなの?」
首を傾げるだけなら、俺は簡易的に頷いて話題から逃げていた。けれども、穂架さんは随分思案顔になっている。
「何ですか。そんなにおかしいですか」
「そりゃね、私は章人くんの友人関係を全部知っているわけじゃないし、関わり方を知っているわけじゃないけどね。そんなに女の子にベタベタするタイプじゃないと思ってたんだけど」
「当たり前でしょう」
なんだ、その不純な男は。
というか、俺以外でも、そんなにベタベタするような友人関係を構築する男は少ないだろう。ごく一部にはいるかもしれないが、それは女好きだとか言うレッテルが貼られるものではないか。
「でも、彼女……あの子とは、とっても近いよね?」
「それは、そうですが」
半端な肯定ばかりになる。辛うじて、逆説をつけるのが精々だ。
文葉の花のような香り。身体の柔らかさ。押し付けられる胸の感触。指通りの良い髪の毛。思い返そうとすれば、いくらだって描き出せる。
自分の首筋に擦り寄ってきた頭頂部。至近距離から見下ろすと分かる、胸の大きさ。悪戯っ子のようにこちらを見上げてくる瞳。華奢な背中。
瞼の裏に焼き付いていた。
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