書を読む間の仲⑥

 けれど、木元は涼しい顔で話を続ける。主導権を握り返せるほど、俺の応対は追いついていなかった。


「呼び名に気を配れるし」

「章人くんがマジだって言うからじゃん」

「どういう理屈なんだ」

「本気なんでしょ? 十年だし」

「そうかな」

「違うの? 一目惚れじゃなくて?」

「どうだろう。最初は、本を教えてくれたんだ」


 胸にしまい込んでいた。自分でもどこからか分からない。

 出会いの瞬間。確かにそれは輝いていた。窓から差し込む光の中で笑っている穂架さんは眩しかっただろう。

 けれど、読み聞かせていた本の面白さに魅せられていた。当時は多分、本への気持ちのほうが大きかったと思う。未知の爽快感であったし、そのころの俺に異性の感情なんて芽生えは薄かった。

 ゼロであったとは言わない。人への好悪はあったのだから、それに恋愛感情が乗っていた可能性もある。ただ、調べようのないことに斟酌する気はない。

 あのとき本命だったのは本だ。

 これだけは違えようがない。穂架さんへの気持ちを疑う気はないが、本への感情を違うつもりもなかった。その識別は、とうに終えて整理がついている。

 口にしたのはその一端だ。入り口にも等しい。たったそれだけで汲み取れるものは少ないだろう。

 けれど、木元は髪の毛先を弄りながら、空を見上げていた。弄るのと同時に、上空を見上げるのも癖なのだろうか。


「それじゃ、章人くんにとって、とっても大切な人だ」


 どういう思考回路を辿ったのだろう。そう考えたのは、驚き過ぎた現実逃避だったかもしれない。

 なんてことはない。ありきたりなトーンが余計に、その印象を強くする。大切だと言いながら、それを特例として扱わない。そのバランスが心に焼き付いた。


「……君は、すごいな」


 大切だと声高に宣言するのは恥ずかしい。それを覆い隠そうと謀ったわけではないが、それよりも先に感想が漏れ出た。

 君、などという人称の口慣れなさは、自分の感嘆を浮き彫りにする。


「何、何? 急に」


 俺が木元の思考回路を読めないように、木元だって俺の回路を読めないのは当然だ。いくら行間を読めると言っても、そんなものは思い込んで問題のない条件が揃っていなければならない。

 現実世界では、そういうものを阿吽の呼吸などと呼ぶのだろう。同志として一ヶ月にも満たない俺たちに、そんなものが育まれている道理もない。


「俺の気持ちをさらっと掬ってくれるなって話だよ。本を教えてくれたって言うだけで理解してくれるのは稀有だ」


 同級生を褒め称える。慣れないことではあるが、ここで内向的になったところで気持ちが悪いだけだ。

 木元はそれに、優位に立ったような自慢げな笑みを浮かべた。


「あのね、章人くん。あたしだって本を読むんだよ? 重度の人間が本にどんな気持ちを寄せてるのかなんて、よーく分かってるよ」


 ふふっと笑う横顔は、柔和に照り映えている。本への愛情がその身を飾っているようだ。

 衒いのない本音は、多くを語っているわけでもない。それでも、十分に機能をはたして心に届いた。そして、胸にある思いを俺へも適用してくれる。

 時と場合によっては、知った顔をされるのが億劫なこともあった。けれど、今はそうではない。重要度を慮ってくれている。それに胸を満たされることこそあれ、感受できないわけがなかった。


「同志が木元でよかったよ」

「あたしも章人くんでよかったと思ってるよ?」


 クスクスと木の葉を鳴らすように笑う。愉快で心地良くて、心が和む。そこにいる木元の輪郭が、格別にくっきりと見える。紛れもなく、揺らぎようのないほど確固たる同志だ。

 他の誰も木元の代わりにはならない。

 それが形になって胸に嵌まった気がした。


「だったら、良かったよ」

「まぁ、だから? 章人くんに蔑ろにはされたくはないし、棚田さんに誤解されないようにするから」

「……悪い」

「そうだよ。だから、頑張ってね」


 謝罪を受け入れておきながら、想像以上に親切な応援が戻ってくる。やはり、コミュ強。

 ……いや、木元の性格がいいのだ。どこまでも、眩しいほどに。だから、俺も肩の力を抜くことができた。

 その脱力に、しまっていた悩みがふっと零れる。


「年の差がなぁ」

「それってそんなに重要なの?」

「男として見られてないってことだよ」


 本物の恋なら年の差なんて。

 それは、両方に感情が伴ったうえで、倫理観を守っていなければならないだろう。大人同士なら倫理観には猶予が生まれるだろうが、俺という未成年にとってそれは遵守すべき途方もない鎖だ。破れば責められるのは大人の分別を持たぬ穂架さんになってしまう。そんなことさせられるわけがない。

 だから、早く大人になりたかった。

 大人になれば、万事解決するわけじゃないことも分かっている。自立の側面にしても、感情の側面にしても。すべてをそのせいにするつもりはない。けれど、年の差という動かざるひとつが、大きな障壁になっているのは事実だった。


「なるほどね〜。でも、章人くんってちゃんと男の子だけどなぁ」

「そりゃ、そうだろ」


 穂架さんだって、その識認ができていないわけではない。

 苦笑いをすると、木元は呆れたような顔でこちらを見上げてきた。そして、距離をつめてくる。肩がぶつかりそうになって半歩離れたが、木元は意に介さない。


「こんなに違うんだよ? 章人くんでっかいし。手もね」


 ぶつかりそうになっていた手のひらをさっと掬われて目を剥く。男の子、というわりには、その接触の仕方は意識の欠片もない。

 けれど、


「ほら。こんなに違う」


 などと手のひらを重ねて見せてくる意図は理解できるので飲み込んだ。


「……ていうか、本当に大きいな? 辞書楽々掴めそうで羨ましいんだけど?」


 ふはっと息が漏れた。

 手のひらを検分されていても、もう飲み込んだ性差は零れてこない。性差の意識どころか、着目点は読書への有利性。どこまでも同志だ。

 自分の手の上に乗っている木元の指は白魚のようだった。


「木元は不器用なんだろ」

「なんでそうなるわけ」

「本を抜けずに困ってたのは誰だ?」

「あれは背丈だもん」


 怒ったように、ぶんと手を振って離される。触れていたものがなくなる喪失感はあったが、ほっともした。

 それは、同志と言えども異性である認識があることと、既に図書館の敷地内に入り込んだところだったことからだ。


「まぁ、高い位置だったし、そんな気にしなくてもいいんじゃないか」

「別にそこまで気にしないよ。でも、章人くんは軽々で羨ましくはある。それでね、小さいころから知ってたら、そういうのは何だかんだよく分かるよ」


 逸れていたというよりは、流れていたはずの会話の着地点に、わずかに間が空いた。瞬くと、木元が緩慢に笑う。


「だから、まったく男だと思われていないってわけじゃないと思うよってこと! あたしの考えだから、見当違いかもしれないけどね。でも、ゼロはないと思う。それだけ」

「……ありがとう、木元」


 館内に入っているので、言動の大きさは抑えられている。けれど、精いっぱいは伝わった。感謝を聞いた木元はへにょりと笑う。力のない緩い笑みは、いつもよりもずっと柔らかかった。


「じゃ、あたし返すのも後にするから」

「頭が上がらないんだが?」

「ふふん。感謝してくれていいよ?」


 変に謙遜せずに胸を反らす姿が凛々しい。


「さすが木元様」

「文葉狙いだったんだけどなぁ」


 ちぇっとふざけたように笑う。本当に頭が上がらないし、足を向けて寝られない。そんなありがたい相手の要望に応えないのは、不適正というものだろう。


「分かったよ、文葉」


 文葉。

 文字の葉。

 それは、木元によく似合っていた。

 木元……文葉は、大きく目を瞬いてから、とろりと目を蕩けさせる。満足げな笑みには、こちらまでむず痒くなった。ふふふと笑みまで漏らされると、いたたまれない。

 目を眇めると、文葉は俺の背を叩いてから、ぱっと離れていつも使っている机へと去っていく。奇妙な余韻があった。その後ろ姿が振り返って、ぐっと拳を握り締める。頑張れ、ということだろう。

 くすぐったいような困ったような気持ちで、眉を下げて笑った。

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