書を読む間の仲⑤
数日前、オススメされて読んだ恋愛ファンタジーを、今は木元が読んでいる。
今までだって読み合いはしていた。しかし、履歴を披瀝していただけだ。リアルタイムで新しい作品に触れるやり取りは、新鮮味があった。
そして、図書館までの道のりが一人でないことにも新鮮味がある。示し合わせて同行したわけではない。けれど、目的地は一緒だ。むしろ、今日まで被らなかったことが奇跡だっただろう。
前方を行く木元に追いついてしまった。そのまま置いていくことも考えたが、気付いたように見上げられたらそうもいかない。図書館まではあと五分。周囲に生徒が多いってわけでもなく、あえて避ける理由もなかった。
「初めてだね、一緒になるの」
「俺もそう思ってたよ。木元にしては学校出るの早いな」
「リクエストしてた新刊が入るんだよね。わくわくしちゃって、のんびりしてられなかったの」
「上手く使ってるなぁ」
リクエストするかしないかは性質が分かれるだろう。俺はないものはないと諦めて、どうしても読みたければ自分で買うことにしていた。他の図書館を探すこともあるし、リクエストを出すことは少ない。
「だって、シリーズの最新刊だけ入ってなかったからつい。章人くんは利用してないの?」
「リクエストはあんまりかな」
「でも、レファレンスしてもらってるっていうか、司書さんと仲良いよね?」
一瞬止まりそうになった足をどうにか動かして、一歩を広く進めて歩調を保った。
木元は俺の動きを観察なんてしちゃいない。けれど、図書館で交流を持って、近場に構えるようになって日数は経つ。観察していないにしても、動きは見えるものだ。
元より、館内で相手の姿を目視していた。そのときよりも、相手の解像度が上がっている。目に留まる率も上がるし、行動を知られていることもあるだろう。
何より、俺は穂架さんとの接触を断つことなど考えていない。どれだけ同志ができたとしても、穂架さんのプライオリティは変わらなかった。
「もう十年も通ってるし」
「でも、あの人そんなに年上じゃなくない?」
毛先を弄りながら、ことりと首を傾げる。考えるときに毛先を弄るのは、木元の癖のようだった。
「十歳差。十年前はバイトだったけど、穂架さんもずっとここにいるんだよ」
「ふ~ん」
軽い返事に油断したというのかもしれない。穂架さんを蔑ろに扱われるのも我慢ならないが、ここで興味を掻き立てられても困る。その願望に縋り過ぎていて、相槌をままに受け止めていた。
どれだけ気さくで企みがないといえど、相手は読書家だ。
「穂架さん、ねぇ」
行間に含むという感覚に難がない。会話への明るさに、読書で鍛えられた含みが加えられた場合、その音は明晰に変貌するようだ。
それともこれは、木元が分かりやすくカスタマイズしているだけか。にまりと笑う顔を見ると、隠す気がないだけのような気もした。
「何だよ。付き合いが長ければ名前くらい知ってる」
「文葉とは呼べないのにねぇ」
「付き合いが長ければ」
前提条件をつけていてよかったと冷や汗をかく。
穂架さんのことは、幼いころはお姉さんと呼んでいた。穂架さんと呼ぶようになったのは、恋心を自覚したころだ。もう、お姉さんなんて呼んでくれなくなっちゃうんだねぇ、なんて感慨深げに言われた。
それは、今にしてみれば、狭い世界から飛び出して、人前で他人をお姉さんと呼ぶのが恥ずかしい反抗期のもののように扱われていたように思う。
本心では、記号的な存在に組み分けされたくなかったからだ。お姉さんと呼ぶ者は、すべからく弟になる。決して、恋愛対象になることはない肩書き。そこに組み込まれてしまってはたまらなかった。
だから、穂架さんを穂架さんと呼んでいる。
「じゃあ、あたしもそのうち文葉って呼ばれるの楽しみにしとこ」
「そうかよ」
そんな日は来るのか。俺には見通せない。
木元は木元で成立している。クラスメイトの枠に収まっていないのは、初めからだ。呼び名を変更しなければならないときのが見当がつかなかった。
千賀浦でさえ、千賀浦のままだ。この先、光輝などと呼び名を変える事変が起こり得るとは思えない。木元なんて尚のことだ。
そんなふうに考えていたところに、
「それで?」
と接続詞を告げられて、思考が出遅れた。直前の会話をさらっていると
「章人くんは、穂架さんのことが好きなの?」
と、ド直球に投げ入れられる。
コントロールの見事な球が入るのはストライクゾーンだ。いや、それともこれはギリギリを狙ったアウトだろうか。何にせよ、投げられてしまった時点で俺は打者としてマウンドに引きずり出されている。
「……なんでそうなった」
「話してるのもよく見るし、そういうときはあたしがそばによるとちょっと距離取ろうとするでしょ」
好きかと問われるよりも、よほどどきりとしたかもしれない。図星な分、後ろ暗さがある。
穂架さんは読書仲間として彼女の呼称を使っていた。仲を疑われているとは思っていない。それでも、好きな人に他の女子と話しているのを臆面もなく見せたくはなかった。
すべてがすべて恋愛事に括られると思うほど、恋愛脳をしているつもりはない。それでも、分の悪い想いを抱いている。俺は弟のような、見守られる学生で、そんなふうには見られていない。だからこそ、少しでも障害になることは避けたいのが本音だ。
ただ、それだけで、木元を遠ざけたくはない。初めての純粋な読書仲間に、思うところがないわけもなかった。
だからこそ、指摘されれば後ろ暗さが先に立つ。無言になってしまった俺に、木元のほうが驚いたようだ。
指摘したくせに。
そう思いこそすれ、自分の不手際だろうと思い直す。ふぅーっと長く息を吐いたのが、答えの補強のようなものだ。
木元は目を丸くして驚きを深めた。単なるかまかけ。それどころか、からかいのつもりだったのかもしれない。観念するには早かったか。けれど、木元に隠しておけるとも思わなかったし、避けてしまっていた気後れは放置しておけなかった。
「悪かったな」
「認めると思わなかったし、マジなんだ」
「……マジだよ」
この想いを他人に伝えたことはない。穂架さんを知っている人もいなかったし、恋バナをする機会もなかった。
へぇ、ふぅーん。と相槌を漏らす木元に居心地が悪い。
「章人くんって、ああいう人がタイプなんだ。すごく柔らかくて素敵なお姉さんだよね。理想の司書さんって感じ」
それは俺が抱いてきた印象そのままだ。憧れを詰め込んだような、そんな年上のお姉さん。
今はもう、穂架さんだっておっちょこちょいな面があったり、失敗をしたりすることも知っている。理想だけの遠い人ではない。憧れているだけのお姉さんではなくなっていた。
「いいよねぇ。ああいう人。穂架さん……苗字は?」
「棚田だけど」
「あたしも棚田さんみたいな人、憧れるなぁ」
「穂架さんでいいと思うけど。木元はちょっと雰囲気、違うだろ」
「だって、章人くんが長い付き合いでそうなったんでしょ? あたし、他人だし。でも、顔を合わせることもあるし、ぽろっと穂架さんとか普通に怖いじゃん。ていうか、淑女っぽいって言ってくれたくせに、雰囲気違うはひどくない?」
けろっとした顔でいるけれど、この機微を即断できるものがどれだけいるか。穂架さん呼びに固執しているわけではない。それでも、自分たちの時間を当然のように尊重されて、胸を温めた。
「木元って立派だよな。黙っていればって言っただろ。それに、木元は潑剌としててそれはそれでいいんじゃないの」
「なんか、反論しにくい言い方するなぁ。立派って何?」
振り上げた拳を下ろすかのように、淑女へのこだわりを捨てられる。そこまでクリティカルな言い分を返せたとは思えずに、怪訝を隠せなかった。
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