第一章 十年と数週間
十年と数週間①
日に焼けぬように整えられていると言っても、地下室ではない。窓のある市立図書館には、麗らかな日射しが注ぎ込んでいた。
カーペットが足音を吸音し、さらさらと紙が擦れる細やかな音が響く。色とりどりの背表紙が、賑々しく書架を彩っていた。子どもたちが座れるように作られた土足厳禁エリアは、カラフルなクッションが並んでいる。小さな靴たちは音符のようで、そこには話し声が跳ねていた。
同年代や大人たちの話し声は、耳に障るものだ。けれど、子どもたちの声はそれはそれでまた一興だった。げんきんさを覚えながら、図書館の空気を浴びて歩く。
新刊や古い紙の匂いを吸い込みながら、悠々と浸っていた。
「
本棚の海を泳いでいるところに、小さな泡が投げられる。
顔を上げると、セミロングの髪を緩くひとつに結んだ
これは俺が穂架さんを出会ったときからお姉さんと認識しているから、そうした印象を持っているだけに過ぎないだろう。いつの間にか、十センチは背を超してしまったけれど、第一印象は根づいているものだ。
「入学式でも図書館には来ますよ」
小学生のころまでは、タメ口で話していた。けれど、いつまでもそんな子どもじみてはいられない。穂架さんとは十も歳が離れているのだから、弁えるべきは弁えるべきだろう。それに、俺はいつまでも穂架さんに子ども扱いされたくはなかった。
幼いころのお姉さんの存在は大きい。ましてや、賢くて清楚。素敵なものを教えてくれた相手。
そんなもの、憧れるのは当然。初恋の人にせずにはいられなかった。
「珍しいと思うけどなぁ。顔合わせでどこかに遊びに行こうなんて話にならなかった?」
「やってる子もいたんじゃないですか」
「相変わらず、人付き合いが悪いんだから」
「俺にはちゃんと付き合えるものがありますから」
片手に重ねた本を上下させる。いかにもな言い分に、穂架さんは微笑みを浮かべた。
「それは私のせいだなぁ」
「責任取ってくれてもいいんですよ?」
「じゃあ、オススメの新刊を教えてあげよう」
本気紛いの冗談は、事もなげな返球にあう。隙がない。新刊の並ぶ棚へ向かう足取りにも、毛ほどの迷いはなかった。
穂架さんがご機嫌な顔で胸の前にかざすのは、特殊ミステリの一冊だ。チェックしたままになっていた本は、オススメしてくれるチョイスとしてピッタリ過ぎる。
「入荷したんですか?」
「そう。ちょうど入ったばっかり。章人くん、好きでしょ?」
「穂架さんが俺をミステリに導いたんでしょ」
当人に布教のつもりがあるのかは定かではない。けれど、俺に物語の面白さを教えてくれたのは穂架さんだ。
俺の読書遍歴は穂架さんの影響が大きい。徹頭徹尾、穂架さんに準拠しているわけではないが、それでも傾向は似ている。これは、俺が憧れの人に近づこうとした感情による近似でもあるだろうが。
「章人くんだって、肌に合ったから楽しんでるんじゃない? 私より全然、幅広く読んでるし」
「それはそうですけど。穂架さんよりも幅広いのは、単に乱読なだけですよ」
「いいことでしょ? 章人くんが楽しむってことが何より大切なことだもの。じゃあ、私は配架に戻るから」
「はい。ありがとうございます。頑張ってください」
「ふふっ、ありがとう」
労いをかけるようになって、それなりに経っていた。穂架さんはいつも微笑ましそうな笑みを零す。大人になろうとしている子ども扱い。それを鮮明に感受するのは、こちらの自意識過剰か。それを飲み込んで、配架に戻る穂架さんの後ろ姿を見送った。
こんな些末なことで肩を落とすほど、初心ではない。もう、今更だ。穂架さんにとって、俺は小さな子どものままらしい。馬鹿にされているわけではないし、変化を拒絶されているわけでもないのだろう。
けれど、縮まらない年齢差は平行線だ。俺がようやく高校生になったところで、穂架さんはどんどん大人としてステップアップしている気さえする。
俺の世界も広がって、理解できることも増えた。だから、穂架さんだけが成長していると感じるのは、焦燥でしかない。
今更だと言いながら、胸には感情が渦巻いている。常態化してしまっているがゆえに、乱されていないだけだ。
物語に埋没しているとき。こうして、本棚の隙間を縫っているとき。俺は穏やかな心でいる。穂架さんと過ごしているときだって、動揺や諦観だけに支配されてはいない。
言葉を交わせる時間は、温泉につかっているかのような幸福の時間だ。飲み下すものがないわけではないけれど。それもまた味のひとつだと信じている。
今日もまたそれを噛み締めながら、特殊ミステリ本を片手に館内を遊歩した。市立図書館は近年、一部をリノベーションしている。館内も広くなって清潔感も上がった。蔵書数も増えている。
だから好きだ、と言うわけではない。穂架さんに出会った図書館だから、そうでなくても大切な場所だ。だが、蔵書数が多くて、新刊のバラエティが自分に合っているというのは大切だった。
高校生になったばかりの俺にとって、図書館は物語と出会うためには欠かせない場所だ。部屋の本棚を埋めるほどには自分でも購入しているが、それだけで欲求は満たされない。俺のような乱読派なら尚のこと。気になる本をひょいっと手に取るためには、図書館を使わざるを得なかった。
穂架さんがいるだけが、図書館に通っている理由ではない。本棚を物色しているときは、穂架さんのことは忘れている。ジャンルの影響は受けているとはいえ、現在の選択を依存しているわけではなかった。
自分の感性に従って、背表紙を引き出す。タイトルや装丁。そうした直感でも本を手に取る。好きな作家や誰かのエッセイで見たタイトル。そうしたものが脳内に蓄積されていた。
そうして一〇冊を抱えてカウンターへと向かう。道すがら、本棚の合間によく知っている制服を見かけた。
入学式だ。その姿が珍しいかは判別できないが、同級生が図書館にいることが珍しいことは知っている。高校生も同じなのかどうか。その辺りを考えながらカウンターそばの貸出機で作業していく。
読み込みのわずかな時間。制服を視界の中に留めてしまった。そうして、改めて気がつく。
クラスメイトだ。
多分。
名前は結びつかない。
けれど、リスのしっぽのようなウェーブがかったセミロングに、薄い化粧の施された小顔の彼女に見覚えはあった。入学式からカーストが決定するわけではないが、探り合う空気感はある。その中で、上層に組み込まれそうな目立った子だ。人目を惹く。
図書館には似合わない、というのは偏見でしかないだろう。
それでも、好んで図書館に通いつめる子には見えなかった。今まで生きてきた短い時間の中で、同年代の派手め女子が図書館に通っている現場に遭遇したことはない。だから、意外性があって余計に目を惹いた。
でも、だからって、それ以上何かが発展するわけもない。物語の始まりとは違う。何より、俺には主人公たる精力はなかった。平凡を自認している巻き込まれ主人公の可能性もあるけれど。けれど、俺にそんな特性はないし、能動性もない。
一時の一方的な遭遇は、そのまま何事もなく過ぎ去った。
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