歌姫の旅路

待居 折

歌姫の旅路

「イリナは本当に歌が上手いなぁ」


 安いお酒を片手にした父さんが、幼い私を前に呟いた。

 その日はすごく寒い夜で、小さなストーブを前にした私の吐息は白く、声も寒さで震えていたのを覚えてる。


 母さんの顔を覚えていない私には、父さんと暮らす狭い家と、五十人もいない小さな村が全部だった。

 五人しかいない子供の中で、私は一番歌が上手かったけれど、みんな私より小さかったから、それは当たり前の事だった。

 たまに外で歌いながら遊んでいたりすると、村の人はみんな褒めてくれた。でもそれは、「こんにちは」や「元気だね」と同じ、挨拶みたいなものだと思ってた。

 だから、酔った父さんがしみじみと漏らした一言は、私の胸で、何かのメダルみたいにピカピカに輝いた。



 十五の時に父さんが流行り病で亡くなると、私のメダルはさらに強く光るようになった。

 決して裕福とは言えない暮らしで、父さんが遺してくれた私の可能性。それをどうしても大切にしなきゃいけないと思った私は、わずかなお金と数枚の服を鞄に詰めて街に出た。

 今思い返せば本当に小さな街だったけれど、村から出た事がなかった私には見るもの全部が新しくて、まるで別の世界のようだった。



 街には、週末にしか開かない小さな劇場があった。支配人に何度も頭を下げて頼み込んで、雑用の仕事に就く事ができた。その時には、平日の仕事でレストランの皿洗いを既に見つけていた。

 劇場の奥の奥、小さなランプが灯る殺風景な部屋で、くぐもって聴こえる演目に耳を澄まし、お客が帰ると同時に客席の掃除や、買い出しの為に消耗品を数えた。平日は、覚えた楽曲を小声で歌いながら、夜遅くまで皿を洗った。


 劇場の支配人は、不愛想だが良く見ている人だった。あるいは私が自覚のないまま鼻歌を歌ってしまっていたのかもしれないけれど、一人の歌手が休んだある日の夜、私にステージに上がる様に言ってきた。

 不安はなかった。人前で歌える事の嬉しさの方が遥かに上だった。ドレスの裾をどうにか詰めて、胸を高鳴らせながら眩しいライトを浴びた。


 何度も諳んじていた曲を歌い終えると、待っていたのは沢山の拍手と指笛だった。あの日、父さんからもらったメダルは誇りになり、私は劇場の歌手の一人になった。



 その街を六年で離れる事になったのは、隣国との情勢悪化がきっかけだった。「国境に近い街じゃ危ないかもしれない」と、夫となった劇場の支配人が、私を連れて更に中央へと越したからだった。


 ラジオで聴いていたよりも、帝都は物々しい雰囲気だった。大通りを軍用車が当たり前に走り回っていたし、徴兵募集の張り紙が至るところに貼られていた。

 それでもと言うのが正しいのか、だからこそなのか、大劇場は民衆の息抜きの場所として重宝されていた。そして夫の顔の広さのお陰で、私は帝都でも歌う毎日を続ける事ができた。


 ただ、歌う曲は前とは違っていた。

 身を焦がす様な悲恋や、胸のすく様な決闘の曲は「今にふさわしくない」として禁止されていた。認められていたのは、国の繁栄を誇ったり、建国した皇帝を称えるような歌ばかりだった。

 それでも、歌える事が私には嬉しかった。歌詞を読み解き、強い感情を込めて、どんな曲でも歌い上げてみせた。大劇場には沢山の歌手がいたけれど、三年もしないうちに、私は街でも声をかけられるほどの人気歌手の一人になっていた。



 三十歳の誕生日を迎えた翌日、帝都が隣国の急襲に遭った。この前の年には、生まれ育った村も、あの小さな街も戦火に呑まれていたそうだけれど、それを知ったのは、もっとずっと後になってからだった。


 一瞬の出来事だった。けたたましく警報が鳴り響いたと思った次の瞬間には、劇場は大きくひしゃげ、折れた柱に足が挟まれていた。

 あったはずの屋根はなくなっていたし、夫は舞台袖と一緒に吹き飛んでしまったのか、今に至るまで行方が知れない。


 恐ろしい音を立てて燃える劇場にどれくらいいたのか分からないけれど、駆けつけた軍隊に助け出され、手当てを受けたシェルターで震えていた時、差し出された水に感謝を言おうとして、自分の喉が潰れているのに気が付いた。

 看てくれた軍医が言うには、高熱の煙を長い間吸い続けた為らしかった。「本当なら命を落としていた、奇蹟みたいなものだ」とも言われた。


 けれども、私の声は二度と戻ってくることはなかった。



 あれから二十年が過ぎている。

 年中氷に閉ざされる山間の小さな村、有名な薬師が暮らす海辺の街。小さな希望の話を耳にする度、毎月支払われる戦傷者へのわずかな手当を切り詰め、私は方々へと旅を繰り返している。

 片足は引きずり、顔半分は火傷の引き攣れに覆われている。どこに行っても出迎えるのは白い目だけど、私にはどうでもいい。


 そう。私が伝えたいのは、華やかな過去の栄光でも、死別しただろう夫との思い出でも、戦争の理不尽や悲惨さでも、貧しい毎日でもない。

 何度も何度も磨いてきて、焼けてなくなったあのメダルを取り戻したい。たったひとつ、ただそれだけだ。


 貴方でも誰でも構わない。何か良い方法があったら教えて欲しい。



【完】

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