本を愛するみたいに私に触れるなクソ野郎
ぽんぽん丸
図書館クレーム
クレームはすべて記録しなければいけない。なぜなら図書館は区の運営で区民の方々の税金で運用されているからだ。私が常駐する優しい木目のカウンターも、ブルーと濃いブルーの市松模様のカーペットも、エントランスの土着の妖怪みたいな地元の彫刻家が作った故郷という彫像もすべては税金で作られていて、私は税金によって息をしてる。つまり私の酸素である税金を吐き出す人が吐いた言葉は…酸素が吐く…?実のところよくわらない。たとえの着地点はよくわからないのだが、とにかく記録しないといけない。
「本が許せないんですけど」
はたして私はそのまま記録するべきだろうか。いや聞き取りをして詳細にしてから記録しなければいけない。
日報
本日の頂いたご意見
本が許せない
公的な記録にこう書くと税金泥棒とののしられてもしかたない。少なくとも私の9つ上の普段やる気のない、いや実際にやることがないのだから仕方がないのだけど、彼の久しぶりの先輩らしい業務としてくどくどと言われることだろう。
「ご意見痛み入ります。適時対応いたしますのでどちらの本が問題でしょうか?タイトルお伺いさせていただきます」
「そういうのじゃないんですよね。とにかく本が許せないんです」
「個別のタイトルではなく本そのものが…?」
「ええ」
彼女は決して怒鳴ったりしないが語尾には憤りと怒りを滲ませている。その証拠としてわざわざハイヒールを履いている。急行電車は止まるけどユニクロがないこの街の図書館にハイヒールで来る人はいない。私がこの職に就いてからの4年間1人もいない。つまりこれは少なくとも4年に一度、オリンピックやワールドカップのような規模の出来事だ。もしかすると数十年に一度かも。皆既月食のようなものの可能性さえあるのだから私はメガネの真ん中のところを中指でグイッとあげてレンズの中心から見定める。
「ご要望としてはどういった内容になりますでしょうか?」
「具体的にってことでしょう?男の人っていつもそうですよね。いやそれはいいんですけど、でももう具体的にどうこうという話ではないんです」
私は彼女から強烈な厄介を感じる。臭う。もし彼女が化学薬品なら鼻腔の奥を裂く刺激臭がするに違いない。私は少しわくわくしてきた。山ほどの物語や科学や哲学の蔵書に囲まれながら、何も起きない毎日にうんざりしているのだから。たまには鼻腔の奥を焼かれたくもなる。
「と言うと?」
私はすっかり公務員義務を捨てて、ここがバーで私がオーナー・バーテンダーのような振る舞いで彼女に続きを促した。
「離婚するんです」
私は彼女の一言目に歓喜した。本が許せない。そして離婚する。そうだ、図書館にクレームを言うべきかもしれない。私は物語との出会いに興奮した。もし油断して鼻息を気の向くままに噴射するときっときのこ雲みたいなのが出てくるから十分に配慮してまるで公務員みたいなふりをする。
「あの人が私に触れる手が優しくて結婚を決めました。でも一緒に暮らして気付いたんです。本当はそんなことないのかもしれないけど、でも彼が本をめくる時まったく同じ手つきだって気付いたんです」
電撃走る。この女は本に嫉妬している。感電して意識が飛んだせいで少し鼻息が漏れた。
「『優しくめくるんだね?』って私聞きました。そしたら彼は『そうだね。大切なものだから。本には書いた人の人生が滲んでるんだ。誰かの心の中を覗くんだから優しくしないといけない。』って。それからなんて言ったと思いますか?」
私は彼女の問いかけによって突然に物語の登場人物になる。
「そうですね、えーと。どうでしょう」
真面目な公務員でも、オーナー・バーテンダーでも、常に読者に伝わるように正確な思考をする物語の登場人物でもない、くだらない私ははじめから予想済みだった様子で彼女は続きを言った。
『君もそうだ』
彼女の声は少し低くなった。それは怒気が強まったわけではなく、いや強いのだけど、だけどそういうわけではなくて、それはおそらく彼だった。彼女の声帯が彼みたいに震えた。彼の声を聞いたことはないのだけどそうだ。
「そう言いました」
迫真の彼は瞬間的に彼女から去り、たった1人すっかり孤独な彼女がそこにいた。
わたしはなるほどなと思う。たぶんこの人は自分だけが唯一特別だと感じていたのに、それは本やその作者の二番煎じに過ぎないことに気付いて怒っているのかもしれない。言ってしまえば彼女が浮気相手なのかもしれない。
「そうですか、それはそれは」
やはり自分は主人公には向いていないなと、頭の中で今言った平平凡凡なセリフを活字に直してみて確信する。
「そうですよね。本当にそうですよね」
彼女は私が共感しているみたいにそう言うと泣いた。怒気や憤りは涙を隠すためのものだったのかもしれない。そこに立ったまま泣いていたのだけど、ハイヒールや鮮やかな青いワンピースがまるごとへにゃへにゃになって彼女の水たまりになってしまうんじゃないかと思わせるように泣いてしまった。
「ああ、なんて言えばいいのか、その、元気です」
私はいよいよ主人公がどうとかではなく、将来プロポーズしたりできないだろうなと確信する。
『元気です』
また脳内で活字に起こしてみたら、この場面でここまで振り切ればいいかと思う。でも人間マナーとしてよくない。よくわからないし、整理して『元気を出して』だとしても彼女に言うべきではない気がする。元気じゃない人に元気を促すのはマリー・アントワネットみたいだ。マリー・アントワネットは高貴なオーラを放つ。私は混乱に溺れている。こんなに言葉の出てこない奴が促すべきではない。とてもよくない。将来、言葉ではなく背中で語る人間になる必要があるようだ。20代も中盤に差し掛かりすでに将来なのだけど。
「ごめんなさい」
私がどうしようもない内的思考に溺れる間に彼女はふっと戻ってきた。体幹を取り戻して水たまりになりそうな存在ではなく、人間の大人に戻った。そうしてすぐに人間義務よろしく謝ると今度は怒気を含まず言った。
「でも、私、本を許さないです」
そう言うと赤くなった目から最後の一粒を流してから私に背を向けて去っていく。青の市松模様のカーペットが彼女のハイヒールの衝撃を吸収してしまう。私は頭の中で床を光沢ある大理石プレートに敷き換えてカツ、カツ、と鳴る音を頭の中だけに響かせる。
「あのー」
次の市民の方がわざわざ声をかけて下さるまで私はその大切な音や彼女のこれまでやこれからで一杯だった。
「申し訳ありません。ご案内ですか?」
手元に本を持たない市民の方は大方本を探している。私はL字カウンターの90度曲がったところに座っていたのにさっきの出来事を我関せず無視した後輩のかわいい女の子にカウンター業務を任せてご案内に出てしまう。
なぜかカメムシの図鑑を探している高齢市民の方からご丁寧なお礼を賜ってから、私は文学の棚に向かう。
後輩のかわいい女の子がワンオペ対応で四苦八苦すればいいというのはもちろんだけど、物語を手に取りたくなったから。文学の棚にたどり着いて目当ての本を探す。
教科書に載っている本のコーナーでは目立つように表紙を見せて並べられている。特別にスペースを裂いて教科書で触れたとっかかりから市民を文学に誘おうとしている。私はこころや舞姫の文庫版を手に取ってみるがこれは目当ての本ではない気がした。
それからしばらく本棚の整理をするフリをしながら好きな作家の本を手に取ってみる。万永元年のフットボールも違う。檸檬も違う。人間失格は読んだ時もおっかなかったし、今日も違う。
私は11冊目で気付いた。ああ、やめにしよう。そうしてようやく、マッチングアプリに登録して大切な人に触れようと思い至った。趣味の欄に読書なんて酷いことを書くのもやめにしよう。彼女の泣くところを見て喉が渇くような感じがしたから目当ての本を探したのだけど、必要な物語は文字ではないのかもしれない。
さて、そのまえに彼女のクレームを何と文字にしようか。
本を愛するみたいに私に触れるなクソ野郎 ぽんぽん丸 @mukuponpon
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