◆エピローグ

 ――あれから何年経つ――


「タケル。お前高校を中退したのに何でそんなに勉強してるんだよ」

「さあな。楽しいからかな?」

「大検でも受けるの? あ、今は高認って言うんだっけ?」

 タツヒコと五年前、そういう話をした。


 あのときの俺は必死だった。姉ちゃんが目指した人間になって。そう、ある程度の不幸なことをなかったことに出来るくらい、光を放つ人間になりたくて。


 俺は実際、高校生のとき、一人の光を放つ人間に救われていた。もしその人に出会っていなかったら、今の俺はないと思う。きっと何処かで精神が潰れて、持たなかった。だけど、俺は実際、頑張り続けることが出来たんだ。どうしてそんなことが出来た? 俺は知ってる。人を元気にする光を放つような人間は、周りを巻き込んで、どんどん人々を幸福にしていく。


 そういう連鎖の中に、俺は確かに居たし、これからは、人にそれを与えていく立場だ。職場が決まってから、研修が終わり、滝がオーナーになったコンビニを通り過ぎ、昔お世話になった〝森本ボクシングジム〟に挨拶に行こうかなと街を歩いていたら、俺の知ってる顔のデカい先輩が、似合わねーカジュアルでオシャレな格好して街を歩いてた。


 横には美人じゃないけど感じのいい女の人が居て、先輩は少しぎこちなく笑ってんの。緊張しすぎだろ、しっかりしなよ先輩。


 俺は野暮ったいことは嫌いだ。近くには行かず、普段行かない喫茶店に逃げるように入ってアイスコーヒーを頼んだ。


 窓から外を見ると、二人は本当に幸福そうにただ歩いて行った。歩くだけで幸福だなんて、こんなにいいことはないな。俺はアイスコーヒーをゆっくり飲んで、

「おめでとう、若村先輩。これからもお元気で」と呟いた。


 俺はまた、高校生の、授業を放棄していたときのように、自分の願望が作り出した架空の本を想像しようとした。しかしその本は、開くことすら出来ず、1ページたりとも読むことが出来なかった。ジャケットとタイトルすら、くすんで見えない。


 その代わり、激しく厳しいが、この上なく魅力的な物語が僕の目の前で起こっている。


〝心の中の羽ペンはもう新しい物語を紡ぐことは二度とない〟


 俺は結局ボクシングをやめることはなく、プロにこそならなかったが、インターハイに出て、好成績を収めた。それから五輪代表をかけた試合には、ちょっと相手が強くて負けてしまったけど、今も細く長く続けている。


 俺は苦手な勉強を苦手なりに頑張って、大学の福祉学科を卒業して、社会福祉士の資格を取って――いやこれが国家資格だから中々難しかった。児童養護施設、孤児院みたいなところだと思ってくれ。親や世話してくれる近縁者のない子供達の世話や教育をするのが仕事だ。


 彼らの多くは、自分たちが望まれていない存在かもしれないという認識があって、確固たる強い自己を持てずに居る。俺はそういう子供の救いになれたらいいなと、施設のボクシング部で、孤児達にボクシングを教えてる。


 かつて自分の荒んだ心を救ってくれたものだからといって、自分以外の人間も救えるなんて、短絡的なことを考えているんわけじゃあないんだ。俺が人に教えられることが〝まだ〟限られてるから、確かなことから教えたいと悩み選んだ結果だ。


 スポーツで精神性を鍛えるなんて高尚なことを言うつもりもない。ただ、自己肯定感と、自信、それから俺たちは此処に居ていいんだって思えるように、少しでも、皆がなるためにね……。


 だって俺だけそういうのが得られるのは、ずるいだろう? 俺たちは生きてていいんだってね、別に誰が許可するわけじゃないんだ。自分に、生きてていいよって語りかけてくるのは、他の誰でもない自分なんだ。だからそういったものは自分で掴み取って欲しいんだ。俺が出来るのは、生活の中で、その手助けをするだけ。


 今日は、スポーツの内容の授業を、子供たちにしてくれと指示があったので、俺自身が救われたものを、子供たちに知ってもらいたくてスクリーンにパワーポイントでボクシングの画像を映しながら喋ってる。俺も今日は先生だから、いつになく饒舌で、俺のインターハイでの敗戦を見せたら、やんちゃな子はゲラゲラ笑って、「先生負けてるじゃん」って喜んでくれた。だけどその後、「先生ってホントは強いんでしょ? 勝ってる試合が見たいよ」って言われたときは困ってしまった。


 というのも、自分の勝った試合のデータは、今日持ち合わせて居ないからだ。その代わり、俺の〝イチオシ〟の選手が快勝したビデオを見てもらうことにした。


 その選手の名は〝福島リサ〟リングネームはLISA。


 スクリーンに「女子ボクシング、東洋太平洋王者決定戦」と表示されている。挑戦者はLISAだ。画面の中のリサは、実に彼女らしい、無邪気に遊ぶ猫のように、伸び伸びと戦い。誰が見ても明白なKO勝利をおさめた。僅差だったから、リサも結構殴られてて、あのときのように晴れた右目を隠さず、テレビカメラに向けて笑っていた。まだ右の打ち下ろしの対策は完全じゃないのだろう。

「この選手が現役の、バンタム級女子東洋太平洋王者だ。先生なんかよりも、ずっと強い人だ。今でもファンなんだ」

 生徒達は興味深そうにスクリーンの中の人を見てる。

「こんな綺麗な人なのに強いんだね。挫折とか知らなそう」

 やっぱりそう見えるんだ。

「この選手は誰よりも挫折して、砂を舐めるような気持ちで頑張ったんだ。本当は彼女も俺たちと同じ、弱い人間なんだよ。どん底から這い上がった人間なんだ」

 ちょっと面白げに、冗談っぽくそう言うと、笑いが起きた。だけど最前列の一人が首をかしげて言った。

「北沢先生、なんでそんなこと知ってるの?」

 俺はこのことが誇らしかった。

「……同じジムに居たんだよ。お互いに意識して、高めあった最高の仲間だ。他にも見せたい選手はいっぱいいるけど、次に授業させられたら、持ってきてやる。頭が超でかいけど、超強いおじさんの引退試合!」

 観たいという声が上がって、むしろリサよりそっちに興味が言ってる子が多かった。


 俺は、かつて、本当に若い頃、高校生の頃、俺だけの幸福を望んだから、頑張れなかったし幸福になれなかった。こんな簡単なことに気が付けなかった。こんな馬鹿な子供は流石に俺くらいだろうが、皆に簡単で一番大ことなことを伝えるため、俺は生きている。そのことを逝った姉に報告しながら、一日一日を、大切に。


 そして心の中で呟く。

「姉ちゃん安心して、俺が代わりにやっとくから。いや、ちょっと違うかな。姉ちゃんみたいな人たちが、もう迷わないように。そして人よりもほんの少しだけ、迷子になりやすい、俺のために」


 今日は東洋太平洋王者が、帰国して古巣の森本ジムに帰ってくる。俺はその人と仕事ではなく、プライベートで会う約束をしてる。でも約束って言っても、単なる口約束で、それは何年も前のことで、風化してるのが当たり前。もうきっとその人は素敵な家庭の中にいて、俺のことさえ忘れていても、おかしくないんだけどね。


 もう日が落ちて、児童養護施設の帰りに、駐車場まで歩いていたら、見ない大型二輪が駐車場に止まってた。なんだろうと思って歩いていくと、物凄く見慣れた顔がこちらを見ていた。薄暗くても、目視出来る、青あざを隠さずにこちらを見ながら、その人ははにかんだ。

「我慢出来なくて、こっちに直接来ちゃった。タケル!」

「おめでとう、チャンプ! 俺は未だにお前に片思いをしてるよ。お前はもう忘れてるかもしれないけどね、リサ!」

「あはは、本当に待ってるなんて、私が思ってるより、ずーっと馬鹿! 迷惑だっつーの」


 そう言ってから、リサは両目からあのときのように涙を流して、俺の手を掴んだ。


「本当に馬鹿だね……タケルは」


 彼女はカモメのジョナサンではなかった。


 俺は、誰よりも強い人を知っている。俺は誰よりも勇敢な人を知っている。俺は誰よりも恐怖と戦ってきた人を知っている。俺は誰よりも愛しい人を知っている。大粒の涙を流しているその人を、俺は両手で抱いた。


 リサ。愛してる。


 ――そして生きていこう。

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