塔とキャベツの伝説
藤光
塔とキャベツの伝説
おお、マルドゥク神よ。なんてことだ。いや、そうじゃない。ありがたい、やっと言葉が操れるようになった。もう数えきれないほど人に声をかけ続けてきたんだ。あなたはいったいどこからやってきたのだ? わたしがいま話している言葉はなんなんだ教えてくれないか。そうだ。言葉にならないくらい残酷なことが起こった。まさか、塔が崩れてしまうなんて。そう。いまはもうなくなってしまったバビロニアの大地と天空とを繋いできた塔のことだ。わたしはバビロンからやってきた。どうか旅人よ、異郷の地で客死することになるだろうわたしの話を聞いてほしい。
わたしは曽祖父の代から塔で暮らしてきた「塔人」だ。塔人とは、塔で生まれ塔で暮らし塔で死ぬ人々を指していう。母なる大河チグリスとユーフラテスに臨むこのバビロニアの地にいつから塔が築かれはじめたのか、確かなことを知る者はだれもいない。わたしの曽祖父はバビロニアをはるか遠く離れた小アジアの港町に生まれた商人だったが、ケール(キャベツの原種)を栽培する技術を身につけていたため、乞われて塔にやってきた。
建設が始まって数世紀、当時は塔建設の進捗が滞っていた。その理由は塔建設に必要な日干し煉瓦を塔の天辺へ運ぶ人夫たちの栄養失調だった。知ってのとおりバビロンに聳える塔は二棟ある。ひとつは神の住まう天空へとバビロンの民を導くために築かれた主塔、もうひとつは主塔を建設するための資材を搬送する従塔だ。従塔を使って資材と食糧が主塔の天辺へ運ばれ、人夫の死体と糞尿が地上へ運ばれる。
その周囲の長さが100キュビト(約50メートル)に及ぶ塔は、高さが10万キュビトを超えた途端に建設が進まなくなった。この高さになると地上から天辺まで人夫の足で約60日の行程となる。往復すると約120日だ。彼らの食糧は日持ちするパンや干し肉だが、それだけではさらに上方へ向かうために必要な栄養が不足してしまう。栄養失調のためつぎつぎと人夫が倒れ、死んでゆくので工事が進まない。野菜不足からくる壊血病だった。
バビロンの王に招かれたわたしの曽祖父は、従塔を5万キュビトの高さまで登り、そこでケールという作物の栽培をはじめた。従塔の外壁と主塔の外壁との間に細長いベランダを吊り下げると砕いた日干し煉瓦を敷き詰め、人夫の糞尿を撒いて、ケールの苗を植えたのだ。小アジアの海岸沿いに自生するケールは栄養価が高く、過酷な環境に強い。常に強風が吹き続ける塔の上空でも栽培することができた。
曽祖父が栽培をはじめたケールは作業人夫の栄養状態を劇的に改善した。パンや干し肉に加えて新鮮なケールを食べることができるようになった人夫たちは10万キュビトを超えて塔を建設できるようになった。主塔と従塔の間にベランダを作るアイデアはそこで他の作物や動物を飼育し、塔の上空で自給自足する道を開いたからだ。わたしの祖父の代になると、塔の中に小さいながら町ができ、人夫やその家族が定住するようになる。「塔人」のはじまりだ。わたしも、わたしの父も、塔で生まれた。
祖父と父はベランダの農場を増やし、栽培することのできる野菜を増やすとともに、その品種改良に取り組んだ。増加する塔人の腹を満たすためだ。若かった父は曽祖父が塔に持ち込んだケールのうち、葉を巻く性質をもつ株に目をつけた。葉を巻いて玉のようになる株は葉を広げるものより空間効率が高いのだ。こうした結球性の高いケール同士を掛け合わせ続けることによって父は葉が葉を包み込み、玉のように成長するケール――「キャベツ」を作り出した。ケールの栄養価をそのままに、空間効率が高く、鮮度も落ちにくいキャベツは塔人の腹を満たし、塔人は完全に地上からの補給なしで生活できるようになった。
わたしが生まれた頃には、塔の高さが50万キュビトを超えていた。塔人の住む町は塔の上方へ向けていくつも作られ、塔全体で10万人もの人が暮らしていた。塔には塔独自の法が用いられ、人夫として集められ、肌の色も顔かたちも様々だが、塔と共に生きると決めたからにはすべて塔人として受け入れるというのが最高の法だった。下方の塔人の中にはどういう理由で塔に人が住むようになったのか、忘れてしまう者も出てきた。それでも塔の天辺では、天空へと日干し煉瓦を積み上げる工事が続けられていた。
その頃、バビロンが新しい王を迎えた。ネブカドネザルという男だ。シリア、アッシリアを征服し、ユダを屈服させその住民10万人をバビロンに連れ去った猛き王だ。このネブカドネザルは、塔と塔人を快く思っていなかった。彼は天空に神など住んでおらず、自分自身こそがマルドゥク神であると信じていた。頭上にそびえる塔を不快に思い、塔人たちは神である王の頭を踏みつけにする者と憎んでいた。10万人もの住民が住む敵国のひとつだと考えていた。
ネブカドネザルは連れ去ってきたユダの民に対しては新しい王国を与えると偽り、塔人に対しては建設人夫を増やしてやると偽って、国を失ったユダの民を塔の中へ送り込んだ。ユダの民の信じるユダの神は、塔人の信じるマルドゥク神とは相容れない。やがてふたつの民が争いはじめると見透かしていたからだ。
王の目論見どおり塔へ入ったユダの民は、天空まで塔を伸ばし神と交信しようする行為をユダの神への冒涜と決めつけ、塔を建設している塔人との間でいざこざを起こしはじめた。早晩、ふたつの民が戦争状態なるのは、火を見るよりも明らかだった、父の跡を継ぎ、塔人を束ねる立場となっていたわたしは塔の法に従い、故国を追われたユダの民を塔に受け入れようと試みた。具体的には、ふたつある塔のうち、従塔をユダの民に明け渡し、塔人を主塔に移住させたのだ。しかし、盲目的にユダの神を信じるユダの民にとってそれは異教の法。ユダの民の心を動かすことはできなかった。
時をおかず、ふたつの民の間で食糧を巡る戦いが起こった。塔をふたつに割ることはできたが、塔の食糧はふたつの民の腹を満たすには足らなかったからだ。「バベルの塔」と「ユダの塔」、ふたつの塔の戦争は半ば滑稽なことならがら、塔の間に吊るされたベランダでキャベツや家畜を奪い合う戦いとなった。この戦いで何万人もの塔人とユダの民が殺し、殺された。死人が多ければ多いほど、ネブカドネザルは空を見あげて笑ったという。それほどまでに残酷であり、かつ滑稽な戦争だったからだ。
長い長い戦いの末、戦争はバベルの塔の勝利に終わった。すべての塔人に知らしめるため、ほかならぬわたし自身が塔の天辺で捕虜となったユダ王の首を刎ねた。その時だった。奸智に長けたネブカドネザルですら予想していなかったことが起こった。塔の天辺から10数キュビト上方、それまでは青空としか見えなかった天空の底が裂けたのだ。わたしたちはもうすぐそこまで、神の住まう地まであと数日のところまで煉瓦を積み上げていたのだ。しかし――天の裂ける音はバビロニアを越えてシリア、エジプトにまで響き渡り、その裂け目からは信じられないほど大量の水が雨となって大地に降り注いだ。途端に塔を構成する7000万立方キュビトの日干し煉瓦が一斉に崩れ去り、バビロニア全域を覆い尽くしてしまった。もちろん、塔の麓にあったバビロンの都も100キュビトの厚さに堆積した泥の下に埋まった。バビロニア王国は一夜のうちに滅んでしまった。
わたしたち塔人は一面に泥の海が広がるどことも知れない場所まで流された。気づくとわたしたちはわたしたちの言葉を失っていた。ユダの神の呪いかマルドゥク神の与えた罰か。言葉を持たぬ我々に塔を再建する力は残っていなかった。塔人は地上から消滅した。あれから十数年、わたしは年老い、力も尽きた。ただ、最悪というわけではない。旅人よ、あなたにこれを託したい。言葉もなく流離ううちにかしこの海岸で探し当てたケールとその苗だ。塔人を塔人たらしめた魔法の作物。そのケールの葉が巻き始めるとき、塔はふたたびその姿を地上に現すだろう。旅人よ、遠くこの作物を運び、広く大地に植えてほしい。かつてバビロニアに栄えた塔の民と天と地を結んだ塔の記憶と共に。
(了)
塔とキャベツの伝説 藤光 @gigan_280614
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