丘のタンポポ
敷知遠江守
線路の丘
とある春の晴れた日の休日の事だった。
その日、俺は朝から趣味のジグソーパズルに勤しんでいた。
今作っているのはフィンセント・ファン・ゴッホの『夜のカフェテラス』という作品。
実は作り始めてから既に四か月が経過している。今、完成度は九割といったところだが、ここまで来るまでに紆余曲折があった。
このジグソーパズルを買ったのは昨年の年末。娘のクリスマスプレゼントを買いに玩具屋に行った際に思わず衝動買いしてしまった。その際に妻のプレゼントが無かったものだから、年内は作るなと怒られてしまった。
年が明けてからコツコツと作り始め、半分ほどはめ終わった所で、娘が遊んで崩してしまった。
わんわん泣きながら、ごめんなさいと喚いて謝る娘を見て、怒るに怒れず、また途中から作り直す事に。
そこから六割ほど進んだところで、今度は妻が掃除をしながら掃除機のホースを引っかけてしまって、また崩れてしまった。
まるで賽の河原に石を積む子供が如く、俺は壊されても壊されても、ジグソーパズルをはめていく。
一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為と冗談を呟きながら。
はて、三つ目は誰の為だっただろうか?
そんなこんなで九割ほどが完成した。今日の内に完成させて糊付けまでしてしまいたい。
そんな時に限って用事というものはできるものである。
父さんと言いながら、とてとてと足音を立てて小学校四年生になる娘がやって来た。
俺の服を引っ張り、線路を見に行こうと言ってきたのだった。
線路は丘の上を通っており、その丘はコンクリートで舗装されているのだが、一部土がむき出しになっている所があるらしい。
娘が友達から聞いた話によると、そこにたくさんのタンポポが咲いていて、とても綺麗だったのだとか。
それはいつ頃の話なのかとたずねると、娘は「さあ」と言って苦笑い。
まあ綿毛となっていたとしても、それはそれで綺麗かもしれない。
確かに外は透き通るような青空。気温も穏やか。網戸にテントウムシが止まっているのが見える。
せっかく娘から出かけようと誘われているのに、その気持ちを無碍にするのもどうかとも思う。
首を傾げ、不安げな顔で、「駄目かな?」とたずねる娘に、俺は優しく微笑み、準備しておいでと促した。
勢いよく部屋を飛び出して行き、「母さん水筒!」とはしゃぐ娘。
座布団から立ち上がり、腰をぽんぽんと叩き、腕を天に伸ばして曲がった背筋を伸ばす。
部屋から出ようとすると娘が立っており、「早く準備して!」と急かして来た。
少しくらい遅れたってたんぽぽは逃げやしない、そうなだめるのだが、娘はもう嬉しくなってしまって全然耳に入っていない様子であった。
お気に入りの黄色いスキャット帽をかぶり、車の助手席に乗り込む娘。
運転席でエンジンをかけると、娘は線路のどこどこの辺りと具体的な場所を指定してきた。この辺りだとそこだけらしいと聞いたのだそうで。
車で十分ほど走り、娘の言う場所から少し離れたところに車を駐車。娘と手を繋ぎながら、横にコンクリートを見ながら線路の脇の道を散歩していく。
反対側に桜の木が植えてあり、遅ればせながら薄墨の花を付けていたのだが、どうにも娘は興味を魅かれなかったらしい。
肩までの髪をなびかせて、俺の手を引っ張っていく。
タンポポに着いたら写真を撮ろう。そこで一緒にお茶を飲もう。母さんからお菓子も貰って来たんだ。
もう娘の興奮は最高潮であった。
もしかしたら身長の関係で娘からは見えなかったのかもしれない。
だが、俺にはその光景がいち早く視界に入った。
この後、どうやって娘を慰めたら良いだろうか、それで頭の中が一杯となった。
確かに土がむき出しの丘はあった。
だがそこには人だかりができていた。その人だかりがタンポポを見に来た人たちでは無い事は、俺にはすぐにわかった。
皆手に手にカメラを携え、丘に三脚を立てている。恐らくは電車を撮影するため。
娘が見たがっていたタンポポは見事に踏み荒らされ、ただの一輪も咲いていなかったのだった。
娘は唇を噛みしめて顎に皺を寄せて、じわりじわりと瞳を涙で滲ませていく。
俺と目が合うと娘は俺の足に抱きついた。
タンポポが、タンポポがと喚いて、声をあげて泣き出してしまった。
まさかこんな事になっているなんて思いもよらなかった。
もちろん知っていたら来なかったし、仮に娘が駄々をこねても、別の所に行こうと代案を出しただろう。
あまりに憐れな姿に、かける言葉がなかなか見つからない。
そんな娘の泣き声が聞こえているはずだが、タンポポを踏み荒らした者たちは、娘の喜びを奪った憎き者たちは、こちらを一瞥もしない。
今も現在進行形でタンポポは踏み荒らされている。
「残念だったね。帰ろうか」
そう俺は声をかけた。それくらいしか口からは出てこなかった。
泣いていたところでタンポポが元に戻るわけじゃない事くらい娘もわかっているだろう。だけれども、どうしても娘の足をここに縫い付ける何かがあるらしい。なかなか「うん」と言ってくれない。
恨めしそうな目で踏み荒らされたタンポポをちらちらと見ている。
そんな娘を見ていて、俺の脳裏にふととある記憶が掘り起こされた。
記憶が間違っていなければ、あそこにタンポポはあったはず。
車の中でお菓子を食べようと促すと、娘は完全に気落ちした顔で、こくりと頭を垂れた。
とぼとぼ。
そんな効果音が娘の小さな靴から聞こえてきそうである。
視線は完全に歩道を凝視。唇をぎゅっと噛み、泣いたせいで鼻が赤い。
そんな顔をした娘の頭を優しく撫でると、娘はまたじわりと瞳を涙で滲ませてしまった。
車に乗り込むまで、結局娘は一言も言葉を発しなかった。
車でお菓子を食べようと言った事も、忘れているのか、聞こえていなかったのか、全然ポシェットからお菓子を出そうとしない。
そんな娘をちらちらと見ながら車をとある場所へ向けて走らせた。
大型ショッピングモールで車を停め、気晴らしに買い物をして帰ろうと娘を誘った。
娘の顔は完全に嫌々という感じではあったが、俺は半ば強引に車から降ろしてショッピングモールへと向かった。
用事があるのは二階の玩具屋。
まだ残っていると良いのだが。祈るような気持ちで娘の手を引き、脇目も振らずに玩具屋に向かう。
玩具屋に到着した後も、周囲のフィギアやプラモデルには目もくれずジグソーパズルのコーナーに直行。
娘がジグソーパズルに興味が無い事は重々心得てはいる。だが目的はそんな事では無いのだ。
確かこの辺に。記憶を頼りに一つ一つジグソーパズルの柄を確認していく。
全く興味がないという顔をする娘。
そんな娘を俺は手招きする。娘が小首を傾げながらやってくる。
「父さん、これを買おうと思うんだけどどうかな?」
そう言って俺が取り出したのは、ゴッホの『サン=ポール病院の庭の松の木とタンポポ』という絵画のジグソーパズル。初心者でも作れそうな小さな箱の商品である。
沈みきった顔に頬だけを持ち上げるという何とも複雑な表情をして、娘は俺の足に抱きついた。先ほどとは異なり泣いてはいない。ズボンを両手で握りしめて顔を押し当てている。
頭を撫でて、もう一度どうかなとたずねると、娘はその体勢のまま頷いた。
ジグソーパズルを大事そうに抱えて車に乗る娘。ビニール袋に入れてあったはずだが、それは足元に捨てられていて、タンポポの絵の描かれた箱を嬉しそうにじっと見つめている。
はっと何かを思い出したらしく、娘はジグソーパズルをダッシュボードに立て掛けた。
「父さん! 母さんがね、お菓子くれたんだよ。一緒に食べようよ!」
丘のタンポポ 敷知遠江守 @Fuchi_Ensyu
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