第6話 スカラベの翼(2/2)
〈アル=シッハ〉が、長い眠りから目覚めるかのように震えた。ザフラは制御パネルを握りしめ、エンジンの低いうなりが次第に鋭い悲鳴へと変わっていくのを感じた。
外では、英国兵たちがよろめき、目を覆っていた。飛行船の翼からほとばしる光は、星の輝きのように冷たく、容赦なく夜明けの砂漠を照らした。
「何をした!?」イドリスが轟音をかき消すように叫ぶ。
「起動させたのよ!」ザフラは母の手帳を必死に読み取った。欄外に記された方程式が、まるで生き物のように脈動している。「舵を取って!」
「どこにだよ!?」
飛行船は砂を振り払うように急上昇し、峡谷がみるみるうちに下方へ遠ざかっていく。ザフラは、胃がすうっと落ちていくように感じた。
地上では、英国兵が次々と銃を構えて撃ってきたが、その弾丸はもう船体には届かない。
「増援を呼んでるぞ!」イドリスが、空に弧を描いて飛ぶ発炎弾を指差した。
ザフラは「エーテルコア」と記されたレバーを引いた。翼が大きく広がり、光の振動が空気を震わせる。
「母はこれを『
「詩的だな…… だが、今はもっと速く飛ばせ!」
〈アル=シッハ〉は雲を切り裂くように突き進んだ。ザフラの手は震え、母の書き残した計算式が視界でぼやけたが、母のノートを必死で読み取る。「この船には隠し倉庫があるみたい。母はそこに研究成果を隠した。でも、コヴィントンの部下が先に見つけたら……」
その瞬間、太陽が影に包まれた。
イドリスが舌打ちする。「遅かったな」
上空に巨大な影が迫る。鋼鉄の装甲板で覆われた英国のドレッドノート級飛行戦艦。その側面には、赤く塗られた翼を持つライオンの紋章――コヴィントン卿の紋章が刻まれていた。
「即刻降伏せよ!」拡声器から響く声が、雷鳴のように砂漠を震わせる。「さもなくば、灰となるだろう!」
ザフラの心臓が高鳴る。「エンジンはまだ半分の出力……逃げ切れる!」
「あるいは……」イドリスは武器パネルを開きながら言った。「お前の母さんが仕込んだこの玩具を試してみるか」
ザフラは目を瞬いた。そこに並ぶのは見慣れぬ制御盤。古代文字のような記号が並んでいる。「これ、大砲じゃない……光投射機?」
「なら尚更いい!」
イドリスは躊躇なく、青白く光るボタンを叩いた。
〈アル=シッハ〉の翼が燃え上がるように輝き、濃縮された星光がまるで槍のように飛行戦艦の船体を貫いた。鋼鉄が軋みを上げ、巨大な飛行船が横に傾き、黒煙が巻き上がる。
イドリスが歓声を上げた。「こりゃあ、最高の花火だ!」
「警告射撃よ!」ザフラが怒鳴る。「今のエネルギー残量だと、もう一発撃ったらエンジンがもたない!」
まるでその言葉を証明するかのように、制御パネルが火花を散らし、船体が激しく揺れた。
「ズガルタ!」イドリスが操縦桿を必死に抑えながら叫ぶ。「どうにかしろ!」
ザフラはエンジン室へと転がり込んだ。エーテルコアは脈打つように明滅し、ルミナイトの血管がひび割れていた。
「オーバーヒートよ! 着陸しないと!」 ザフラはハッチに向かって叫ぶ。
「どこに!?」 イドリスが振り返る。
ザフラの視界に、峡谷が開け、遥か向こうに広がるオアシスが映った。陽光を映す湖のほとりには、朽ち果てた飛行船の残骸がいくつも転がっていた。
「そこよ!」 ザフラは身を乗り出した。
〈アル=シッハ〉は操縦不能のまま、砂の上を滑るように突っ込んだ。衝撃が走り、船体は水際で停止した。ザフラは咳き込みながら外へ飛び出し、煙をかき分ける。
イドリスが彼女を腕を引いて、崩れた石柱の影に隠れた。「奴ら、すぐに斥候を寄越すぞ」
上空では、傾いて黒煙をあげながらも、飛行戦艦がゆっくりと旋回していた。
ザフラは母の手帳をしっかりと握りしめた。「……このオアシスに、母の倉庫がある。最後の手紙に書かれていたの――『正午のスカラベの影を追え』って」
イドリスが片眉を上げる。「詩的だな」
「母は技術者であり、詩人でもあったのよ」ザフラは指をさした。湖畔に立つ風化したスカラベの像。その石の翼が湖面に影を落としている。そしてその影の先、茂みに隠れるように、錆びついたハッチがあった。
「……まさか墳墓じゃないだろうな?」イドリスはつぶやきながら、それをこじ開けた。
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その下は、まるで時間ごと封じ込められたようなガラス張りの研究室だった。冷たい空気の中で、ザフラの吐息は白く曇る。
ザフラは息を呑んだ。
作業台には設計図や組みかけの装置が散乱し、そしてその中心には、光を放つ巨大なルミナイト結晶が、まるで心臓のように鎮座していた。
ザフラが一歩踏み出すと、彼女の胸の中で鼓動する真鍮の心臓が、それに呼応するようにカチリと音を立てた。
「……これが母親の遺産か?」イドリスが眉をひそめる。「でかいが、ただの鉱石じゃないか」
「『電池』よ」ザフラはそっと結晶を持ち上げた。「純化されたルミナイト。不純物も、劣化もない……都市を動かせる。あるいは、艦隊さえも」
その瞬間、頭上からブーツの足音が響いた。英国兵の声が反響する。
「コヴィントンの奴らが来た……」イドリスは低く言った。「行け。俺が時間を稼ぐ」
「何言ってるの!? 置いてなんかいけないわ!」
イドリスはコートの内側から、小さな
「誰なの?」
「お前よりコヴィントンを嫌ってる奴さ」彼はザフラの背を押した。「それ行け!」
ザフラは結晶を抱え、闇の中へと走り出した。背後では、銃声が響き渡った。
The Brass Heart(真鍮の心臓) 豊田自働筆機 @sansala_ai
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