第5話 スカラベの翼(1/2)
シナイ砂漠 — 1889年
夜明けが近づくにつれ、洞窟の壁に走るルミナイトの鉱脈が徐々に光を失い、峡谷は朝日のくすんだ金色の光に包まれた。ザフラはスカーフをきつく締める。胸の奥で、新たに埋め込まれた結晶が心臓の鼓動に呼応するように微かに震えた。
外では、赤い
「〈アル=シッハ〉はすぐそこよ」ザフラは母が残したスケッチを見つめた。スカラベの翼を持つ飛行船の絵が、まるで呼吸するかのように紙の上で脈打っている。「峡谷を東へ進むの」
イドリスは鼻で笑った。「東? あそこは断崖絶壁だ。それに、あっちの方角にはコヴィントンの巡回兵がうようよいる」
「だからこそ、『突き抜ける』のよ」ザフラは前方の峡谷の壁を指差した。そこには、かろうじて
「死ぬ気か」イドリスは呆れたようにぼやいたが、それでも駆動エンジンを始動させた。
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亀裂の先には、狭く暗い隘路が続いていた。壁には壊れたランタンや、朽ちた滑車が散乱し、かすかな風がそれらの残骸を揺らしている。
ザフラは岩に刻まれた印を見つけた。風化し、かすれながらも、そこには「翼を持つスカラベ」の紋章が刻まれていた。
「お母さんの印……」彼女は息をのんだ。
「へぇ、いい趣味してるな。砂漠のあちこちに、こんな死地を作ってまわったのか?」イドリスは崩れかけた梁を避けながら皮肉をこぼした。
ザフラはイドリスにかまわず、砂を払いながら、錆びついた制御パネルにそっと触れた。
「ここはルミナイトの輸送路だったのよ。英国軍が来る前はね」彼女はケーブルをたどり、眠ったままの駆動エンジンに手を伸ばす。「これを再起動するのを手伝って」
「なぜだ?
「〈アル=シッハ〉は隠されてる。高度を上げないと見つけられないのよ、たぶん」ザフラは迷いなくレバーを引いた。
歯車が重々しく回転し始め、プラットフォームが軋みながら持ち上がる。
イドリスは蒸気ピストルを握りしめた。「おいおい、正気か?」
「オートマトンとチェスする男が、それを言う?」 ザフラはすました顔で言う。
イドリスはニヤリと笑った。「確かにな」
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プラットフォームが峡谷の台地の上で止まると、彼らの視界に、広大な砂漠が広がった。陽光を浴びた砂は、まるでくすんだ銅板のように輝いている。
そして少し陥没した窪みに、〈アル=シッハ〉はあった。
半ば砂に埋もれたその船体は、鈍く光る青銅色の甲虫のようだった。翼のように広がる帆はボロボロに破れ、それでもなお、母が描いた方程式がその表面に残っている。しかし、何かがおかしい。
「煙が……」イドリスが低く呟いた。
船尾から、黒い煙が立ち上っている。地面には、新しい足跡が無数に残されていた。
「コヴィントンの兵士たち……!」ザフラの心臓が高鳴った。「先に見つかっていたのね」
下のほうから怒号が響いた。蒸気駆動の外骨格スーツを纏った二人の英国兵が、〈アル=シッハ〉の貨物室から木箱を運び出している。隙間から漏れる青白い光が、ここからも見える。
イドリスはピストルを構えた。「お前が気を引け。俺が奴らの戦利品を回収する」
「いいえ、『船』を取り戻すのよ」
「俺たちが生き延びる方が先決だろ」
ザフラは彼の腕を掴んだ。「母の駆動エンジンは、……まだ無事なはずよ。もし起動できたのなら——」
その時、兵士の声が風に乗って届いた。
「——爆薬を積め! 日没には全部吹き飛ばすぞ!」
イドリスはため息をついた。「俺たちを殺す気か、ズガルタ」
「でも、金持ちになれるわよ」ザフラは不敵にほほ笑む。
イドリスも牙をむくように笑った。「いいぞ、その意気だ」
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彼らは台地の斜面をロープで滑り降りた。風に舞う砂が肌を刺す。ザフラは音を立てずに地面に降り立つ。
兵士たちの外骨格スーツが蒸気を噴き上げながら動くたび、関節の隙間がわずかに開くのが見えた。そこが弱点だ。
「おい! 侵入者だ!」兵士の一人が彼らを見つけ、リベット銃を構えた。
イドリスの銃撃が先んじた。外骨格スーツの圧力弁が破壊され、蒸気が吹き出し、兵士は悲鳴を上げた。「走れ!」
ザフラは〈アル=シッハ〉のハッチへと飛び込んだ。
エンジンルームは、埃まみれになりながらも、どこか神聖な輝きを放っていた。アラビア語とフランス語のラベルが並ぶパネルは無傷だった。
「
ザフラは手のひらを点火プレートに押し当てた。……だが、何も起こらない。
「おい、グズグズするな!」イドリスが怒鳴った。
「キーが要るのよ!」彼女は必死で目を走らせた。
パネルの隅に開かれた母の手帳が放り出されていた。背表紙には、ルミナイトの欠片がはめ込まれている。
*カチリ*
駆動エンジンが轟音を上げた。
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