2―3 ヴィルデ・フンケン 火花、散る

 白い。何もかもが白かった。天井だけでなくて、優しいドレープを蓄えたカーテンも、壁も。

 自分が病院にいると気づいた波月は、ナースコールのボタンを探した。

 ほどなく足音が近づいてきて、カーテンが静かに開かれた。

「おはようございます。担当看護師の堀北ほりきた咲奈さなです。よろしくお願いします」

「あの、私どうなったんですか」

 堀北看護師は、不安そうに問う波月に笑みを見せながら、ゆっくりと頷いた。

「キャンプに中に行方不明になったあなたは、数時間後に非常に疲れた様子で戻って来て、そのまま意識を失ったと聞いています。救急隊によってこの病院に運ばれてきました」

 波月が寝かされているのは、港嶺市立中央市民病院のベッドだ。壁に掛けられたアナログ時計は四時を示していた。夕方ではない。十四時間ぐらい眠っていたという。

 当直の医師によると、どこにも異常はないらしい。慣れない登山で道に迷って疲れたのでしょう、と言われた。それにしてはずいぶん眠り過ぎではないか、と波月は思った。

「天野さんは零時頃まで付き添っていらっしゃったんですが」堀北の視線が窓際のパイプ椅子を示した。「あまりにも遅い時間になってしまったので、栗本さんやあなたのご両親と共にお引き取りいただきました。天野さんは、ずっとあなたの手を握っていたんですよ」

 心配をかけたようだ。傍にいてくれた事が嬉しかった。責任を感じてもいたのだろうけれど、それだけで遅くまでずっと付いている事なんかできないはずだ。

「大崎さんは?」

「あなたと同じ経過と状態です。まだ目を覚ましていませんが」

 緊急のケアを必要とする症状がないので、波月は救急センターから一般病棟に移動させられていた。時間が遅過ぎるし念の為という事もあって、一泊だけ入院する事になった。

 外見からは分からない何かが体の中で起こっていないとも限りませんしね、という医師の言葉が、妙に心に引っ掛かるのを感じた。そして、なんとなく体が重かった。まるで、自分の中に別の何者かが潜んでいるかのように。そんな事を考えているうちに、波月はいつの間にか再び眠りに落ちていた。

 次に目覚めると昼前だった。こんな遅い時間に起きたのは学生の時以来だろうか。体に特に不調は感じなかった。ベッドから降りて廊下に出てみた。

 今日は家に帰れるだろうか。海歌にも連絡を取りたい。そう思いながらぼんやりしていた波月は、ふと気配を感じて振り返った。大崎が立っていた。

 目が合った瞬間、胸の奥で強烈な火花が弾けた。

 頭頂からつま先まで高圧電流のような激しい痺れが駆け抜けて体が震えた。

 心拍数が一気に上がり、頬が熱くて、喉が渇いた。呼吸の乱れを抑えられない。

 なんだ、これは。

 混乱と戸惑いの中にありながらも、波月にはその正体が既に分かっていた。

 これは……恋?

 もちろん、今までにも恋をした事はある。でも、かつて経験したものとは全く比較にならないほどに激しくて唐突で、危険な予感に満ちていた。

 ロマンチックな乙女の恋とはまるで次元が違った。剥き出しの欲望に突き動かされ揺さぶられるような、荒々しい衝動に支配された制御不能の本能の渇望に、恐怖すら覚えた。

 波月は抑えきれない女の疼きを、大崎に対して感じていた。

 まるで野生動物ではないか。はしたない。下品だ。そう思いながらも、事実として受け入れる以外にできる事はないのだと、打ちのめされた理性が弱々しく告げていた。

 大崎は驚愕したように目を見開いて波月を見つめていた。その瞳は紫色に輝いていた。自分も同じ色の瞳をしているという事が、なぜか波月には分かった。

 そこへ看護師の堀北が通りがかった。二人は慌てて目を逸らした。堀北に促されるままに、それぞれの病室に戻った。もう一度、一通りの検査と診察を受けて、退院が認められた頃には夕方になっていた。

 日曜日なので人気のない、がらんとしたロビーのベンチに座って、海歌に電話を入れた。涙声で喜んでくれた。よかった、よかった、と何度も繰り返しながら。今すぐ会いに行く、というのは丁重に断った。心配をかけて申し訳ないのだけど、疲れているから休みたい、明日、会社で会えるから。そう言って。でも本当は、別の理由があった。

 自宅にも連絡した。少し用事をして帰ると伝えた。今すぐ帰れと言われたが、適当にごまかした。隣のベンチで、大崎も何件か電話をしていた。

 波月と大崎は、どちらも無言のまま会計を済ませて病院を出た。

「ねえ、冲走さん」

 大崎が目を合わさずに話しかけてきた。

「なんですか」

 そっけなく返事をしたつもりだった。だが声が掠れた。間違いなく大崎の事を男として意識している。病院の廊下で再会した時に感じた、火花の散るような恋は、気のせいなどではなかったのだ。

「食事でもどうですか。快気祝いという事で」

 快気祝いだなんて言い方が大げさだなと思ったが、断る気にはなれなかった。波月は大崎から視線を逸らしたまま、はい、と頷いた。

 それなりに高級な店だった。和風創作レストラン、厳寿朗げんじゅろう。史上初の九つ星レストランだという。

 だが、全く味が分からなかった。波月は大崎誠司の存在だけをずっと意識し続けた。

 誠司も食事を楽しんでいる様子はない。皿の上のステーキ肉は無意味に小さく切り分けられて冷めていた。

 波月はいきなり大崎に恋をした。それはかつてないほど鋭く胸を貫いた。全身が痺れて心が熱く震えている。

 心の片隅に残った青息吐息の理性が、何かがおかしいと訴え続けている。なんらかの力が、抗いがたい強さで波月と大崎を鎖のように縛り上げようとしているように思えた。けっして離れさせてなるものか、と言わんばかりに。

 空腹のままレストランを出た波月と大崎は夜の街を歩き始めた。

「駅はそっちじゃありませんよ」

 地面を見つめたまま波月が言う。

「あ、うん」

 大崎も波月と目を合わさずに呟く。

「どこへ行くんですか」

「どこへ行こうか」

 そろそろ帰りませんか。その一言が口から出せなかった。

「昨日のあれ、奇妙な洞窟でしたね」

「なんだったんだろうね」

「宇宙人さんの役に立てたんでしょうか」

「どうだろう」

 波月には、透き通った壁に囲まれた部屋で大量の液体を浴びてからの記憶がなかった。

 でも今は、そんな事はどうでもよかった。帰りたくない。ずっと大崎の傍にいたい。焼け付くような想いが、自宅から遠ざかる方へと波月の足を動かしていた。大崎にも足を止める気配はない。商業地帯を通り過ぎて人気ひとけの少ないエリアに出た。

 二人の手が軽く触れ合った。たまりかねたように大崎は波月の手を掴んだ。波月は逆らわなかった。冬が近いのに大崎の手はじっとりと汗をかいていた。意外なほどに柔らかくて温かかった。大崎と肌を触れ合わせている感覚に触発されたように、甘美な痺れが胸の奥に湧き上がった。それは漣となって、体の隅々にまで沁み渡った。

 目的地を定める事もないままに、波月と大崎はさらに歩き続けた。このまま進めば、二人はどこへ行くのだろう。

 メインストリートから外れて路地に入った。目の前に、大統領官邸を建築家生命のすべてを賭けて下品にしたような建物が現れた。

 大崎の足が止まった。波月の心臓が大きく跳ねた。手を強く握られた。波月は、そっと握り返した。ハリボテなのが丸出しの、チープ極まりないアーチ状のエントランスを見上げた。波月にはそれが、夢の世界へといざなう魔法の門に思えた。

 波月は初めてだった。けれども何一つ拒む事なく、されるままに誠司にすべてを委ねた。誠司は激しかった。だが、壊されてしまうのではないかという恐怖さえもが、波月には心地よかった。

 やがて誠司は、波月の中に熱い愛を放った。波月はそれを、しっかりと受け止めた。

 波月はもう、迷わない。

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