2―4 リーベス・ブリューテン・シュトゥルム 恋の花吹雪

 尾滝おたき意輝おきてるは、迷わなかった。

 定時まであと少し、という時間になったところで、窓口の前に若い男女が立った。意輝は笑顔を向けながら、マウスのカーソルを婚姻届受付のボタンに乗せた。どうせ用件はそれに決まっている。

 港嶺市中央区役所に異変が起きていた。通常、婚姻届は一日あたり三件あれば多い方だ。それなのに、先月、つまり9月末頃から急激に増え始めて、今では毎日、百件近くが提出されている。明らかにおかしい。恋をしてしまう感染症が蔓延しているとでも言うのか。

 意輝の恋人の、いや、昨夜ゆうべ、婚約者になったばかりの大牟田おおむた史奈ふみなにその話をすると、まるで恋の花吹雪が幸せを振りまいているみたいね、と表現した。吹雪どころか嵐だ、いや、台風だ、と意輝には思えた。それも史上最大級の。世紀末だからって、何でもありじゃないはずなのに。

 窓口に座った男女の用件は予想通りだった。女の方は、史奈とはタイプは違うけれども顔立ちがすっきりと整っていて、かなり魅力的に思えた。パイプ椅子に座る時、髪飾りの鈴が、ちりーん、と鳴った。涼やかないい音だ。

 それに対して夫となる男は、一言で表現するなら冴えなかった。しかも大切な儀式だというのに無精髭が目立つし、寝癖の髪が跳ねている。なんでこんな奴と。

 やれやれ、と思いながら婚姻届の用紙を受け取る時、女と指先が触れ合った。その瞬間、バチッ、と静電気が弾けるような鋭い衝撃を感じた。反射的に引っ込めようとした手が動かない。指先を見た。透き通って液状になり、細かく震えながら女の指と融合していた。

 なんだこれは。頬を引きつらせた意輝の目の前でその領域は一気に拡大して二人の腕はすべて液体と化した。一本に繋がっている。

 激しく波打つ腕を通して、自分とは異質の何かが猛烈な勢いで流れ込んで来るのを感じた。それと同時に、わけの分からない映像が周囲に飛び交い、意味不明な話し声やデタラメな音が頭の中に鳴り響いた。まるで発狂したテレビに頭を押し込まれているかのごとく、世界は混沌として、秩序を失っていた。

 意輝は非常事態から逃れようと必死にもがいた。だが、女と繋がっている腕を中心に体が痺れて思うに任せない。

 理解不能のとんでもない状況に陥った意輝が視線を上げると、自分と繋がっている女の顔が闇の中に浮かび上がっていた。さっきまで黒かったはずの瞳が、星々の煌めく宇宙の深淵を覗いたかのような、冷たい美しさと神秘の光を湛えたアイスブルーに輝いていた。眩しさに目を細めながら、意輝はゆっくりと口を開いた。言葉は自然に流れ出た。

「夫になる人、大崎おおさき誠司せいじさん。妻になる人、冲走おきはし波月はづきさん。間違いないですね」

 二人は頷き合って、はい、と答えた。

 おめでとうございます、と祝いの言葉をにこやかに述べた。ありがとうございます、と照れたように微笑んだ女の瞳は、深く澄んで潤う黒だった。

 その時、微かな違和感が意輝の胸に広がった。もやもやと漂ってはっきりとした形を成さないけれど、けっして無視してはならない何かが、記憶を小さな爪で弱々しく引っ掻いている。

 僕は、重大な事を忘れてはいないだろうか。

 周囲に視線を巡らせた。腕にカバーを巻いた職員たちがパソコンや書類に向かって手を動かしている。分厚いファイルの収められたガラス張りの棚の前では、誰かが指を立てて何かを探していた。電話の声、紙を捲る音、エアコンから吹き出す微かな風のノイズ。

 いつも通りの区役所だ。混乱が起っている様子はない。冷たい不安が胸に広がった。得体の知れない何者かに、意輝だけが闇の中から見つめられている気がした。

 誰かに訊いてみようか。さっき、何か普段とは違う事が起きませんでしたか?

 ちょうどその時、十七時のチャイムが鳴り始めた。全軍の兵士が敬礼しながら息を合わせて軍靴を踏み鳴らしたかのような音が響いた。職員たちが一斉に立ち上がったのだ。まるで定時のチャイムを非常ベルの音と聞き間違えたみたいに職場から脱出していく。最初の頃は驚いたが、今となっては見なれた光景だ。

「オタッキーくん、今日も残業?」

 先輩の瓜虎うりとら香凛かりんが通りすがりに意輝に声をかけてきた。二歳年上で二十七歳だ。すっきりとしたショートヘアーの下に、知的な光を灯した涼しげな切れ長の目が覗いている。スレンダーな体には、しなやかに大地を駆けるネコ科の猛獣を彷彿とさせる躍動感があった。

 魅力的な女性、と言ってなんら差し支えない。だが、意輝はこの先輩が苦手だった。細かい事が気になるたちのようで、ちょっとした事をすかさず漏らさず指摘して来るからだ。

 尾滝という姓をもじってオタッキーくん、と呼ぶのも気に入らない。子供の頃から飽きるほどそう呼ばれてきたけれど。オタッキー、起きてる? とからかわれる。意輝は答える。起きてるよ。すると納得して黙る、というのが小学生の頃の定番だった。

 それに香凛は、瓜虎流という剣術を中心とした総合格闘技の家元の娘で、次期当主だと噂されている。そんなおっかないものに近づきたくない、という気持ちもあった。

 適当に相手をして追い払おう。ヘタに首を突っ込むと巻き込まれるぞ、という警告を込めて、意輝は婚姻届が積み上がっている状況を説明した。

「やっかいな仕事が当たったね」香凛は特に興味もない様子で、意輝の前にあるパソコンの画面を覗き込んだ。「あ、ここ、間違ってない?」

 ほら来た。ただでさえ気分の疲れてる時にやめてくれ。この後、残業が待っているのだから。でも相手は意輝の教育係を務めてくれた先輩だ。無視するわけにはいかない。

「どこですか」

 意輝はうんざりしながら画面に顔を寄せた。香凛が振り返った。至近距離で目が合った。

 その瞬間、体の中を電撃が突き抜けた。そして胸の奥で、熱い何かが弾け飛んだ。

 どういうわけか、自分の姿が見えた。同時に香凛も見える。そして香凛にも意輝と彼女自身の両方が見えているのが分かった。香凛の瞳が紫色にキラキラと輝いている。それは意輝も同じだった。

 二人の間で、見た事もない無線通信プロトコル手順ネゴシエーション交渉が強制的に開始されて、ほどなく強固なハンドシェーク接続が確立した。

 虚無の空間に全裸の意輝と香凛が手を繋いで浮かんでいた。その周辺にはデータらしきものが竜巻のごとく猛烈な勢いでぐるぐる回りながら飛び交っている。やがてそれは無限にも思える広がりを感じさせる世界を埋め尽くし、二人を激しく振り回して翻弄しながら呑み込んだ。

 ふと気づけば意輝は香凛の顔を見つめていた。香凛も驚いたような顔をして意輝を見ている。その頬が朱に染まり、視線が逸らされた。意輝は咳払いをした。

 うぶな中学生じゃあるまいし。目が合ったぐらいで、二人とも何を動揺しているのだろう。意輝は心の中で自虐的に笑い飛ばそうとした。

 だが、突如として訪れた胸を熱く揺さぶるその感触は、けっして無視する事のできない存在感と激しさを伴っていた。

 有り得ない。香凛の事は、嫌いとまでは言わないが、特別に好きというわけではなかったし、史奈のようにふくよかな体型が好きな意輝にとって、すらりとした香凛は女性としての魅力を強く感じるような対象ではないのだから。

 まるで落とし穴に嵌まったみたいな気分だった。足下の地面が突如、消失して、なすすべもなく地底深くに吸い込まれた。そんな感じだ。

 特別なできごとがあったわけではない。そう、何も特別な事なんかなかった。ただ、目が合っただけ……のはずだ。の、はずなのに、不安にも似た胸騒ぎが、ぼんやりと記憶の隅で漂っている。だが、そこに意識のフォーカスを合わせる事ができない。曖昧に歪んだ何かが確かに存在するのに捉える事ができなかった。

 香凛と目が合った瞬間に感じた、ごく短い停電のような意識の断裂。それは繋ぎ目の編集がうまくいっていない動画が一瞬乱れた時の、ガクッ、と時間がずれる感覚に似ていた。

 ごく最近、同じ経験した事を思い出した。婚姻届を出しに来た冲走波月と指が触れ合った時だ。その僅かな時間の間に、いったい何が起こったのだろう。

 恋の魔術師マジカル香凛。月が変わったら、お支払いよ! などとふざけた事を必死に考えて自分の中に不自然に生まれた感情を無視しようと努めた。

 だが、香凛の存在が猛烈に駆り立ててくる抑えようもない渇望を冗談でごまかす事などできはしなかった。もはや疑いようがない。意輝は、自分は恋に落ちたのだと認めざるを得なかった。

「なんで、こんな事になっちゃったんだろうね」

 すべてが終わったあと、香凛は今にも泣き出しそうに顔を歪めて笑った。ついさっきまで野獣のような咆哮を上げていた女とは別人のように、弱々しく見えた。

「知らないよ」

 香凛の黒髪を優しく撫でながら、意輝はわざと素っ気なく答えた。

 昨日まで女としてなんの意識もしていなかった相手と今、一つのベッドで横になっている。意輝の腕の中で安心したように寝息を立て始めた香凛の素肌の温もりを感じて、意輝は目を細めた。

 愛おしい。

 香凛に対するその想いだけが意輝の胸を満たしていた。そこにはもう、永遠の愛を誓ったはずの史奈はいなかった。

 香凛さえいれば。香凛さえいれば、他にはもう何もいらない。

 それなのに、胸の内側を引っ掻くような不安が消えないのはなぜだろう。

 幸せな疲労感と共に香凛の肩を抱いてホテルから出ると、目の前に女がうずくまっていた。

 顔を上げた史奈の化粧は悲惨なほどに崩れていた。泣き続けたのは疑いようもない。

 香凛は状況を察したのか、気まずそうに俯いた。

「こういう人がいるなら、言って欲しかった」史奈は香凛の方にちらりと視線を送った。「昨日のあれはなんだったの?」

 プロポーズの事を言っているのだろう。少なくともあの時点では、意輝は間違いなく史奈だけを愛していた。

 意輝が口を開きかけたところで史奈はいきなり走り出した。一瞬遅れて意輝が追う。

「どうして! ねえ、どうしてなの、意輝くん! 私の何がいけなかったの!」

 道路に出て大声で叫ぶ史奈を通行人たちが驚いて見ている。

 意輝が追いついた。史奈は首を振りながら逃げるように下がった。意輝が歩み寄る。史奈は意輝を拒絶した。微笑みを浮かべようとして失敗した意輝は、頬をこわばらせながら史奈を迎え入れるように両手を広げた。史奈はくるりと背を向けて全力で走り始めた。パンプスが片方脱げて飛んだ。でも、史奈は止まらない。

 踏切の警報が鳴り始めた。悲しげな瞳に涙を溜めて振り返った史奈は、遮断機の向こう側に立っている。非常通報ボタンに意輝が飛びついた時にはもう、列車は史奈の至近距離に迫っていた。巨大な警笛の音が、降り始めた冷たい雨の中に響いた。電車の運転手が顔をひきつらせながらきつく目を閉じるのがやけにはっきりと見えた。

 史奈の唇が、何か言いたげに動いたような気がした。だが次の瞬間には視界から消えていた。列車は史奈のいた所を通過した。金属同士が激しく軋みながら火花を散らす音で耳が痛くなった。非常ブレーキはなんの意味も成さなかった。

 波月の父は、風船から空気の抜けるような息を吐いて脱力した。

「何言ってるんだ、波月」

 けっしてもの分かりの悪い人ではないと波月は知っている。だが、娘の将来に大きく関わる事となると、やはり慎重にならざるを得ないのだ、と思えた。

「もう少し、じっくりと互いの事を知ってからでも遅くないんじゃないの?」

 母も心配そうだ。

「お父さん、お母さん。二人の言う事は分かる。でもね、私もう待てないの。誠司さんとこれ以上、離れてなんかいられない」

 誠司は異動の辞令を受けて、既に単身で赴任していた。

「まあ、その気持ちは……」

 母は、ちらりと父を見た。父は目を泳がせた。

「それに、もう婚姻届は出したの。おばあちゃんの喪が明けた二週間前に。お願い、私を行かせて」

 そう言って波月は頭を下げた。髪飾りの鈴が、ちりーん、と鳴った。

 父は天井を見つめた。言葉が出ない。母は長い息を吐きながら首を振った。黒猫のミーコは後ろ足で首筋を掻きながらあくびをした。

 何があろうと、波月はあとには引けなかった。半ば駆け落ちのように家を出て誠司と共に暮らし始めた。お腹にはもう、夜月よづきがいた。

 史奈の死から三日後の土曜日、意輝の部屋を香凛が訪問した。傷心の意輝を慰める為、のはずだった。だが、そのまま二人は共に暮らし始めた。

 その頃から、区役所内でやたらに新しいカップルを目にするようになった。そして窓口に座る意輝の前に婚姻届は積み上がり続けた。それは中央区だけに限った話ではない。港嶺市全体に見られる現象だった。年が明けて二十一世紀を迎える頃まで、そんな奇妙な状態が続いた。その期間だけで、普段よりもおよそ三万組も多くの夫婦が誕生した。

 地方紙を中心にニュースになった。マスメディアは『恋の花吹雪』と名づけた。奇しくも史奈が口にしたものと同じだった。

 同棲を始めた翌年の2001年6月27日水曜日。意輝と香凛の間に男の子が生まれた。香輝こうきと名づけた。香凛の香に意輝の輝だ。光り輝くように黄色い髪をしている。そしてまだ乳児だというのに、妙に筋肉質だった。

 同じ頃、港嶺市は猛烈なベビーラッシュの最中にあった。

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