Ⅲ
修了式が終わったあとは、そのまま帰ろうと思っていたけれど、やっぱり、準備室に寄ることにした。どうせ、学校が早めに終わったからといって、一緒に遊ぶ相手もいない。
あの日、原稿用紙を二枚、渡した。学校のつまらなさをまとめた文章と、パンフレットに掲載してもらうための文章だ。先生は、その場でさっと眼を通して、くくく、と小さく笑った。
ありがとうございます、助かりました。
わたしは、よろしくお願いします、とだけ答えて、部屋を出た。原稿を渡したきり、国語準備室には立ちよっていない。わたしが訪ねさえしなければ、先生がいなくなるという話が、嘘になる気がした。あの先生がやめるってほんとうですか、という生徒の質問に、担任は言葉を濁した。わたしの願かけもむなしく、冬休みまえには、噂は事実になった。
二年生と三年生は、教室こそ変わるとはいえ、クラス替えはない。廊下に出ていく同級生たちの背中を見おくりながら、机のなかに手を入れて、空っぽだということをたしかめる。もう二度と、座ることもない。天板についた傷に手を伸ばしかけて、引っこめた。見なれているだけの、さして愛着もない傷に、いまさらかまうなんて。
国語準備室のまえに立つ。コートのポケットに手を突っこんだ。四月になったら、もう、この部屋を訪ねることはないだろう。ポケットから、握りしめたままの手を出して、扉を二回、叩く。先生の声が応えた。教室で聞く、固い声だった。扉をひらく。
振りかえった先生は、驚いたように、口を、お、とひらいた。わたしが用事を言いだすのを、待っている。自分から来たくせに、いざ先生をまえにすると、言葉が砕けてしまった。
「二年生も、終わりですね」
先生が口火を切る。答えに迷い、わたしは笑った。運のいいことに、ほかの先生は、出はらっている。修了式の日にまで準備室に詰めていることのほうが、不自然なのかもしれない。
「とりあえず、座ったら」
言いながら、宮沢先生の椅子を指す。けっきょく、この部屋で宮沢先生が仕事をするところは見ていない。リュックサックをひざに載せて抱える。先生は、デスクの左手に重なった書類のなかから、薄い冊子を取りだした。
「これ、できたんです」
表紙に書かれた学校案内という文字を見て、あっと声が出た。差しだされたパンフレットを、両手で受けとる。ぱらぱらとめくると、在校生の声というコーナーに、わたしが書いた文章と、Tというイニシャルを見つけた。原稿用紙に手書きした文字が、明朝体で刷られているのは、なんだか、むずがゆい。自分の文章を隠すように、さらにページを繰ろうとしたとき、小さな紙が落ちて、床をすべった。身をかがめて拾いあげる。端正な字で、おくれてきた天使、とだけ書かれていた。先生に紙を差しだすと、眼鏡の奥の瞳がおおきくなる。
「すみません」
急いた声だった。メモをさっと小さく畳んで、細身のペンケースにしまいこむ。白い指先がすばやく動くのを見ながら、これっきり会えないのだ、ということが、ふいに迫ってきた。
「それ、なんですか。曲の名前とか」
わたしが訊ねると、先生は、口元をぎこちなくゆがめる。
「曲の名前では、ないです」
答えて、一度、口をつぐんだ。それから、静かに息を吸った。
「いま書いているものの、題名にしようかと思っていて」
予想外の答えだった。文章を書くことを覚えたほうがいい、と先生に言われたことを、遠くのほうで思いだしていた。
「まだ仮だけれど、たぶん、これを使うことになるんじゃないかな」
先生はわたしの眼を見て、薄く笑みを浮かべる。
「どういうことを、書いているんですか」
わたしが教師だとして、こういうことを訊かれたら、きっと、いやな子どもだと思うだろう。もう、嫌われてもいい。半分、やけっぱちだった。先生は、あごをなでながら、そうですねえ、とつぶやく。話をまとめているようでもあったし、ほんとうのことを答えるかどうか、考えているようでもあった。やがて、うつむいたまま、口をひらいた。
「短い人生ですけど、ここまで生きてきて、遅れてきたけれど、手遅れではないことっていうのが、あったんですよね。それを書こうと、いえ、書いているんです」
よくわからないまま、うなずく。先生の人生が短いなら、わたしの人生は、それよりもまだ短いのだ、と当たりまえのことを思った。先生は、冷たそうな指先を組みあわせて、くちびるをなめる。
「綱島さん、僕は、綱島さんには僕のようにはなってほしくないんです、これから起きるいろんなことが、きちんと、適切なタイミングに、間に合っていてほしいんですけれど、もし、何かが遅れてきたと思っても、悪いことのように思う必要はないんです」
先生は、ひと息に言った。ますます、わからなくなった。先生の横顔を窺っても、表情が読めない。それでも、応えなければ、と思った。
「じゃあ」
のどがひっついて、声がかすれる。軽く咳ばらいをした。
「わたしも、遅れてきたんですか」
先生が、驚いたようにこちらを見た。リュックサックを抱えた腕に力が入る。このまま立ちあがって、部屋から出ていきたい。うつむいたわたしの耳に、ため息のような「そうですね」という声が届くまで、長い時間がかかった。
「でも、間に合ったんです」
おそるおそる、顔をあげると、まなざしが、静かに、わたしを包んだ。気持ちが、すうっと凪いでいく。
「先生、今年でやめるって聞いたんですけど」
我ながら、軽やかな口調で訊ねることができたと思う。
「うん、そうですね」
なんでもないことのように、先生が答える。わたしも、なんでもないふりをした。
ずっと、なんでもないふりをしてきた。
「そういえば、何かご用だったんですよね」
先生が、思いだしたように訊ねた。
「パンフレット、どうなったかなと思って。もらえたので、大丈夫です」
先生は、黙って微笑んだ。もらった学校案内をリュックサックにしまって、席を立つ。先生も、マグカップを手に準備室を出た。
「まえにも、コーヒーを取りにいってましたよね」
ならんで階段をおりながら、つい、口ばしった。
「そうでしたっけ」
先生は首をかしげる。考えてみれば、わたしの知らないところで、かぞえきれないほどコーヒーを取りにいっているに決まっていた。
「いつコーヒーを飲めるようになったか訊いたから、覚えてるんですけど」
「ああ、話しましたね。そういえば」
「会食でコーヒーを飲むしかなかったって話でしたよね。なんの会食だったんですか」
よく覚えてるなあ、というつぶやきが、先生の口から漏れた。忘れるほうが、むずかしい。
「授賞式で会食があったんですよ。大学のとき、ちょっとした賞をもらったことがあって。ほんとうは、紅茶とコーヒーをえらべたけど、みんながコーヒーっていうから、自分の希望を言えなくて」
若かったんですよね、と先生は笑った。わたしたちの足が、一階の床を同時に踏んだ。職員室が、どんどん近づいてくる。先生の白い手が、扉のノブをつかんで、わたしの眼を見た。
「さよなら」
答えようとして、先生たちに対して以外で、さよなら、とあいさつをしたことはないな、と思う。
「さよなら」
扉が閉まるまえに、踵を返した。わずかなすきまから、天使がするりと飛びだして、わたしの横を通りすぎていく。
おくれてきた天使 風待葵 @ym71d_bibi
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