修了式が終わったあとは、そのまま帰ろうと思っていたけれど、やっぱり、準備室に寄ることにした。どうせ、学校が早めに終わったからといって、一緒に遊ぶ相手もいない。


 あの日、原稿用紙を二枚、渡した。学校のつまらなさをまとめた文章と、パンフレットに掲載してもらうための文章だ。先生は、その場でさっと眼を通して、くくく、と小さく笑った。


 ありがとうございます、助かりました。


 わたしは、よろしくお願いします、とだけ答えて、部屋を出た。原稿を渡したきり、国語準備室には立ちよっていない。わたしが訪ねさえしなければ、先生がいなくなるという話が、嘘になる気がした。あの先生がやめるってほんとうですか、という生徒の質問に、担任は言葉を濁した。わたしの願かけもむなしく、冬休みまえには、噂は事実になった。


二年生と三年生は、教室こそ変わるとはいえ、クラス替えはない。廊下に出ていく同級生たちの背中を見おくりながら、机のなかに手を入れて、空っぽだということをたしかめる。もう二度と、座ることもない。天板についた傷に手を伸ばしかけて、引っこめた。見なれているだけの、さして愛着もない傷に、いまさらかまうなんて。


 国語準備室のまえに立つ。コートのポケットに手を突っこんだ。四月になったら、もう、この部屋を訪ねることはないだろう。ポケットから、握りしめたままの手を出して、扉を二回、叩く。先生の声が応えた。教室で聞く、固い声だった。扉をひらく。


 振りかえった先生は、驚いたように、口を、お、とひらいた。わたしが用事を言いだすのを、待っている。自分から来たくせに、いざ先生をまえにすると、言葉が砕けてしまった。


「二年生も、終わりですね」


 先生が口火を切る。答えに迷い、わたしは笑った。運のいいことに、ほかの先生は、出はらっている。修了式の日にまで準備室に詰めていることのほうが、不自然なのかもしれない。


「とりあえず、座ったら」


言いながら、宮沢先生の椅子を指す。けっきょく、この部屋で宮沢先生が仕事をするところは見ていない。リュックサックをひざに載せて抱える。先生は、デスクの左手に重なった書類のなかから、薄い冊子を取りだした。


「これ、できたんです」


 表紙に書かれた学校案内という文字を見て、あっと声が出た。差しだされたパンフレットを、両手で受けとる。ぱらぱらとめくると、在校生の声というコーナーに、わたしが書いた文章と、Tというイニシャルを見つけた。原稿用紙に手書きした文字が、明朝体で刷られているのは、なんだか、むずがゆい。自分の文章を隠すように、さらにページを繰ろうとしたとき、小さな紙が落ちて、床をすべった。身をかがめて拾いあげる。端正な字で、おくれてきた天使、とだけ書かれていた。先生に紙を差しだすと、眼鏡の奥の瞳がおおきくなる。


「すみません」


 急いた声だった。メモをさっと小さく畳んで、細身のペンケースにしまいこむ。白い指先がすばやく動くのを見ながら、これっきり会えないのだ、ということが、ふいに迫ってきた。


「それ、なんですか。曲の名前とか」


 わたしが訊ねると、先生は、口元をぎこちなくゆがめる。


「曲の名前では、ないです」


 答えて、一度、口をつぐんだ。それから、静かに息を吸った。


「いま書いているものの、題名にしようかと思っていて」


 予想外の答えだった。文章を書くことを覚えたほうがいい、と先生に言われたことを、遠くのほうで思いだしていた。


「まだ仮だけれど、たぶん、これを使うことになるんじゃないかな」


 先生はわたしの眼を見て、薄く笑みを浮かべる。


「どういうことを、書いているんですか」


 わたしが教師だとして、こういうことを訊かれたら、きっと、いやな子どもだと思うだろう。もう、嫌われてもいい。半分、やけっぱちだった。先生は、あごをなでながら、そうですねえ、とつぶやく。話をまとめているようでもあったし、ほんとうのことを答えるかどうか、考えているようでもあった。やがて、うつむいたまま、口をひらいた。


「短い人生ですけど、ここまで生きてきて、遅れてきたけれど、手遅れではないことっていうのが、あったんですよね。それを書こうと、いえ、書いているんです」


 よくわからないまま、うなずく。先生の人生が短いなら、わたしの人生は、それよりもまだ短いのだ、と当たりまえのことを思った。先生は、冷たそうな指先を組みあわせて、くちびるをなめる。


「綱島さん、僕は、綱島さんには僕のようにはなってほしくないんです、これから起きるいろんなことが、きちんと、適切なタイミングに、間に合っていてほしいんですけれど、もし、何かが遅れてきたと思っても、悪いことのように思う必要はないんです」


 先生は、ひと息に言った。ますます、わからなくなった。先生の横顔を窺っても、表情が読めない。それでも、応えなければ、と思った。


「じゃあ」


 のどがひっついて、声がかすれる。軽く咳ばらいをした。


「わたしも、遅れてきたんですか」


 先生が、驚いたようにこちらを見た。リュックサックを抱えた腕に力が入る。このまま立ちあがって、部屋から出ていきたい。うつむいたわたしの耳に、ため息のような「そうですね」という声が届くまで、長い時間がかかった。


「でも、間に合ったんです」


 おそるおそる、顔をあげると、まなざしが、静かに、わたしを包んだ。気持ちが、すうっと凪いでいく。


「先生、今年でやめるって聞いたんですけど」


 我ながら、軽やかな口調で訊ねることができたと思う。


「うん、そうですね」


 なんでもないことのように、先生が答える。わたしも、なんでもないふりをした。


 ずっと、なんでもないふりをしてきた。


「そういえば、何かご用だったんですよね」


 先生が、思いだしたように訊ねた。


「パンフレット、どうなったかなと思って。もらえたので、大丈夫です」


 先生は、黙って微笑んだ。もらった学校案内をリュックサックにしまって、席を立つ。先生も、マグカップを手に準備室を出た。


「まえにも、コーヒーを取りにいってましたよね」


 ならんで階段をおりながら、つい、口ばしった。


「そうでしたっけ」


 先生は首をかしげる。考えてみれば、わたしの知らないところで、かぞえきれないほどコーヒーを取りにいっているに決まっていた。


「いつコーヒーを飲めるようになったか訊いたから、覚えてるんですけど」


「ああ、話しましたね。そういえば」


「会食でコーヒーを飲むしかなかったって話でしたよね。なんの会食だったんですか」


 よく覚えてるなあ、というつぶやきが、先生の口から漏れた。忘れるほうが、むずかしい。


「授賞式で会食があったんですよ。大学のとき、ちょっとした賞をもらったことがあって。ほんとうは、紅茶とコーヒーをえらべたけど、みんながコーヒーっていうから、自分の希望を言えなくて」


 若かったんですよね、と先生は笑った。わたしたちの足が、一階の床を同時に踏んだ。職員室が、どんどん近づいてくる。先生の白い手が、扉のノブをつかんで、わたしの眼を見た。


「さよなら」


 答えようとして、先生たちに対して以外で、さよなら、とあいさつをしたことはないな、と思う。


「さよなら」


 扉が閉まるまえに、踵を返した。わずかなすきまから、天使がするりと飛びだして、わたしの横を通りすぎていく。

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おくれてきた天使 風待葵 @ym71d_bibi

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