出てこない。何も、出てこない。


 真白い原稿用紙を机に置いたまま、シャーペンのお尻で頭の横をつつく。真白と言っても、書いては消すのを繰りかえしているから、紙はよれて、マスも灰色に汚れている。きょうは、木曜日だ。先生に指定された締切は、明日に迫っていた。現代文の試験には、記述で答える問題がある。答案返却日に配られる解答例のなかには、いつも、わたしのものが載っていた。きっと、あれを見て声をかけたのだろう。とんだ見当はずれだったというわけだ。自分でも、書けるつもりでいたのが、恥ずかしい。断ればよかった、断れればよかった。


 教室での先生は、ほとんど笑わない。涼しい音を響かせながら黒板にチョークを走らせて、テキストに解説を加える。寝ている生徒もちらほらいるけれど、起こさない。板書を写しとりながら、あのノートの文字が懐かしくなった。先週の微笑みは、幻だったのだろうか。思いだすだけで、熱い風が頬をくすぐる。


「どうしたの、ぼーっとして」


 夕食後、母がコーヒーを淹れてくれた。眼のまえに、猫の柄のマグカップが置かれる。カフェインを抜いたものなので、夜に飲んでも大丈夫だ。


「先生に頼まれた文章、できてなくて」


「てきとうに書いておけばいいじゃない。小学校の作文もてきとうに書いて出したでしょう」


 母は、学校の課題をちょろまかすことに、ためらいのない人だった。小学生のときなど、夏休みの宿題は最初にやってしまえ、一行日記も最終日までまとめて書けばいい、先生もどうせ読まないのだからと言った。


「そうだけど」


 ほかの課題なら、ちょろまかしてもいいけれど、今回は気が進まない。


「書けないなら、正直に伝えてみたら。宿題じゃないんだし、先生も怒らないと思う」


 母は少しまじめな声で答えて、コーヒーをひとくち飲む。


「先生ね、二十歳までコーヒー飲めなかったって」


 ふと、口をついて出た。


「そんな話するの」


 母が笑いながら訊ねる。わたしは、あわてた。


「補習のとき、デスクにマグカップがあったから訊いてみただけ。なんとなく、思いついて」


「千明は、わりと早く飲めるようになったほうかもね」


 母は両手でマグカップを包み、コーヒーに眼を落としている。うちでカフェイン抜きのコーヒーを飲むのは、母がとつぜん、カフェインを摂れなくなってしまったからだった。母は、ことさらに残念そうなそぶりを見せるわけではないけれど、売場にデカフェのコーヒーがないときは、がっかりした顔をする。ふたりでカフェに行くときは、紅茶やデカフェも出す店かどうか、たしかめてから入る。母と一緒の日は、たいてい、わたしも紅茶をえらぶ。


「コーヒーまだある? 明日、買ってこようか」


 訊ねると、母が眼をあげて、微笑んだ。


「あるよ。ありがとう」


 わたしも微笑みかえす。先生の笑った顔は、母に少し似ている気がした。


 翌日、六限目が終わったあと、国語準備室を訪ねた。リュックサックを背負った肩が重い。扉のまえで、原稿用紙が入ったクリアファイルを取りだす。白い。ため息が出た。


「綱島さん」


 うしろから声が聞こえて、肩がびくりと跳ねる。振りむくと、先生が、マグカップを片手に立っていた。心なしか、表情が硬い。


「先生、あの、先週の」


「書いてきてくれたんですか」


 先生の眼が見ひらかれた。表情の変わりように面くらいつつ、クリアファイルに入れたままの、白紙の原稿用紙を見せる。


「どうしても、書けなくて。それを、言いにきました」


 先生は、クリアファイルに眼をやった。マグカップから、ゆらゆらと湯気が立ちのぼっている。


「もう少し、待てるんですけど」先生は、コーヒーをひとくちすすった。「一回は書いてますよね? 消したあとがあるから」


 何も、言えなかった。原稿用紙を渡されてから、行き帰りの電車や、通学路を歩くあいだ、何を書こうか考えてしまうのだけれど、不思議と、いやではなかった。頭のうえに分厚くひろがった雲が、そのときだけ薄くなって、弱い光さえ届く気がする。


「ちょっと、なかで話せませんか」


 先生が準備室を指した。たしかに、マグカップ片手に立ち話は、おっくうだろう。先週と同じく、宮沢先生の椅子を借りて、デスクのまえに座った。コーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。レースカーテンで淡くなった西陽が、先生の頬を包んでいた。


「涼しくなってきましたねえ」


 デスクのうえの書類を集めて重ねながら、先生がつぶやいた。準備室にいるときは、なんというか、おしゃべりになる。教室にいるときを、無口すぎると言うべきだろうか。


「先週、渡さなかったんですが、例文です」


 先生は、一枚の紙を差しだした。ワープロ打ちの文字が、縦書きで刷られている。数行空けて、A、B、Cと三パターンの文章が載っている。文末に、かっこ書きで、文字数が書かれていた。どれも四〇〇字前後だ。好きな教科のこと、この高校に入ってよかったことなどが、過不足なくまとまっている。べつの生徒が書いたものだろうか。


「先入観なくやってもらいたかったけど、最初から渡したほうが書きやすかったですかね」


 紙に眼を落とした先生は、少し、残念そうだ。期待外れと言われた気がして、苦しくなる。期待なんか、するほうの勝手なのだから、応える義理はない。期待外れと言われても、涼しい顔をしていれば、いいの。いつも、言いきかせてきた。


「綱島さんは、好きですか。現代文」


「好きです。小学生のときから、作文も好きでした」


 先生の授業も好きです、と言いそうになって、飲みこむ。先生は、何度かうなずくと、マグカップの取手に指をかけた。


「試験でも、毎回よく書けていますね」


 うれしさと、つまらなさが、ない混ぜになる。先生のまえにいると、わたしの気持ちは、マーブル模様みたいだ。


「ありがとう、ございます」


 ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。


「学校がつまらないなら、まずは、そう書いてみたらどうですか」


「えっ、いいんですか」


 思わず、先生の顔をまともに見てしまう。眼が合ったけれど、わたしのほうから、そらした。


「そのままパンフレットに載せるのは、ちょっとむずかしいですけど。まずは正直に書いてもいいと思いますよ」


 答えて、コーヒーをひとくち飲んだ。考えるような間が空く。やがて、穏やかなまなざしが、わたしをとらえた。


「つまらないですか、学校」


 先生の口調は、淡々としていた。つばを飲みこむ。


「つまらないです」


 先生が、笑い声を立てた。はじめて耳にする声だった。教室にいるときの、真平らな口調からは、想像もつかない。


「はっきり言うなあ」


 わたしも、つられて笑ってしまう。学校で、こんなに声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。身体のなかから、一羽の蝶が飛びたつようだった。三日月型になった瞳と視線が合った。


「僕の例文は無視していいので、書いてみてください」


「これ、先生が書いたんですか」


 デスクのうえの紙を、まじまじと見てしまう。そういえば、先生の書いた文章を読む機会はない。三つとも、まるでちがう生徒が書いた文章に思えた。Aは私、BとCは僕になっている。


「今年からはじまったことですからね。生徒が書いたものがあれば、そっちを載せますけど」


 生徒の例文でなくて、よかった。紙の端に指を載せて、もう一度、順番に読みなおしてみる。


「べつの生徒が書いたものかと、思いました」


 しばらく待っても、答えは返ってこなかった。不安に思って振りむくと、先生のまなざしは、例文を刷った紙に注がれている。微笑むような、悔やむような、それでいて、いまにも泣きそうな表情だった。わたしが見ていることに気づいて、先生は、「あ、すみません」と眼鏡のブリッジに人差指で触れる。


「綱島さんも、書くことを覚えるといいと思います」


 先ほどの表情は、かき消えていた。腿のうえで両手を組みあわせ、淡々と言う。


「水曜日までに、書けますか」


「やってみます」


 クリアファイルに例文の紙をしまって、席を立つ。先生は、小さく頭をさげた。コーヒーは残っているようで、職員室まで一緒に、とは言わなかった。ノブをひねったまま、準備室の扉を閉めて、音を立てないようにする。なんとなく、先生は、耳障りな音を嫌う気がした。息をついて、踵を返す。人気のない廊下を歩いても、スニーカーの足音は静かだ。


 とにかく、今夜、書こう。スキップでも、したいくらいだった。手を、おおきく振って歩いてみた。風を切る指先が、冷たい。せつなくなって、やめた。iPod Touchとイヤホンを取りだす。同じ方向の電車で帰る生徒は少ない。井の頭線で通う生徒が多いように思う。あとはせいぜい、総武線で荻窪や東中野まで帰る子がいるくらいで、中央線を下っていく子には、かぞえるくらいしか会ったことがない。


「千明」


 イヤホンをつけながら校門を出たところで、声をかけられた。振りむくと、雪乃がいた。きょうも、長い金髪をポニーテールに結っている。彼女のように、校則がないからといって、派手な格好をする生徒はあんがい少ない。制服があったほうが、服をえらぶ手間がなくて楽だという子さえいる。


 わたしは、てきとうなTシャツにジーンズとスニーカーを合わせることが多い。ほとんど、制服のようになっている。服よりも、ピアスをえらぶほうが楽しい。母がピアスを開けているのがうらやましくて、中学生のとき、両耳にひとつずつ、開けた。


「雪乃ちゃん、残ってたんだ」


「そっちこそ」


 雪乃が、歯を見せて笑った。


「数学の課題をやってたの。直接、ダンスのレッスンに行くから」


 わたしは驚いた。ダンスを習っているとは、知らなかった。言われてみれば、スカートから伸びた脚には筋肉の線がくっきり浮きあがっているし、露出の多い服を着ても、いやらしい感じがない。


「家に帰らずにってこと?」


「そう。スタジオが新宿にあるから」


 なんでもないことのように、雪乃は答えた。どちらともなく、ならんで歩きはじめる。彼女のブーツが、一歩を踏みだすごとに固い音を立てた。


「ダンスは、いつからやってるの」


「八歳、かな。お姉ちゃんがやってて、真似したっていうか」


 雪乃に姉がいることも、はじめて知った。


「そういう靴を履いて、踊るの」


 うしろから、自転車に乗った男の人が追いぬいていく。


「ヒールがあるやつってこと? そういうこともあるっちゃあるけど、あたしはフラットな靴のが好き」


 相槌をうちながら、雪乃がどうして話しかけてくれるのか、不思議に思っていた。わたしはおしゃれに興味があるわけでもないし、およそ趣味の合う相手には見えないはずだ。


「千明はどうして残ってたの、きょう」


 頼まれている文章のことで、と答えようとして、パンフレットのことをほかの生徒に言ってもいいのか、とつぜん気になった。


「現文の先生から、ちょっと、頼まれごと」


 濁した言いかたになってしまったが、雪乃は、ふうん、と答えただけだった。玉川上水に沿って歩く。独りではないせいか、道の暗さは気にならなかった。


「そういえば、あの先生、今年でおしまいなんでしょ」


 風が、木の葉をざあっと揺らして、わたしの襟元にまで忍びこむ。今年でおしまい。今年でおしまいって、なんだ。


「なんの、話」


「三月で、やめるって話だよ。家族が病気で、実家に通えるところに引っこすから、この学校に勤めるのは無理とか、そんな感じ」


 雪乃の口調は、冗談を言うふうでもなく、ただ、聞いたことをそのまま話したという感じだった。わたしは、そう、と答えるだけで、精いっぱいだった。恋人の有無も、年齢さえも噂にならないのに、やめるという話だけ、どうして、こんなに、はっきり伝わってくるのだろう。嘘だと笑うこともできない。信じないほうがむずかしいくらい、ありえそうな話だ。大人なら、嘘っぱちと見ぬく手がかりを見つけられるのだろうか。


「文系の友だちが言ってた、田坂先生はわかりにくいから、あの人のがいいのにって」


 一年生で受けた田坂先生の授業を、思いかえしてみた。わかりにくいと感じたことはない。


「そういう話、誰から聞くの」


「同じクラスの文系の子。美咲ちゃん」


 名前を聞いたことはあるが、顔かたちや服装を思いだすことはできない。同じコマの授業を、とっていただろうか。二年生にあがって、生徒の名前や顔をあらたに覚えることをあきらめた。雪乃は一年生のときに同じクラスで、たまたま席が近くなったから、話すようになった。彼女は外部生だ。


 先生の授業が好きな生徒って、ほかにもいるんだ。つい、笑ってしまう。雪乃を窺うと、不思議そうな顔でこちらを見ていた。なんでもない。わたしは言った。

 池のうえにかかる橋を渡りきって、石段をだらだらとのぼる。息が切れるから、しぜんと無口になる。駅まではもう少しだ。服屋やカフェがならぶ通りを、いつもよりゆっくりと歩く。


「雪乃ちゃんは、こういうお店好きそう」


「そう? あたしは原宿とか渋谷とかで買うことが多いけど。古着はあんまり」


 店をよく見てみると、たしかにこのあたりには古着屋が多いようだ。服に疎いあまり、気にかけたことがなかった。てきとうなことを言ってしまったな。申しわけなく思っていると、雪乃が口をひらいた。


「千明は、いつもかわいいピアスしてるよね」


「え、そうかな」


 こんどは、わたしが訊ねる番だった。とっさに、何をつけていたかわからなくなる。耳たぶに触れて、かたちをたしかめる。しずく型で、きらきらした青いビーズを、いくつも埋めこんであるものだった。


「あたし、千明のセンス好きだよ」


 てらいなく、雪乃は言った。


 吉祥寺駅の、公園口改札のまえには、細い車道に人があふれかえっていて、いつもひどい混雑だ。はぐれそうになりながら、やっとのことで改札をくぐり、ホームにあがると、ちょうど、上り方面の電車がすべりこんできたところだった。


「そいじゃね」


 雪乃は軽く手を振って、列の最後尾につく。振りかえした手をおろしながら、静かに息をはいた。iPodを取りだして、イヤホンを耳にはめる。一曲目の前奏が終わるころ、下り方面の電車がやってきた。リュックサックを肩からおろして、のろのろ歩きで乗りこむ。空席はない。中央線には、空いている時間がない。黒髪の女性が座っている席のまえに立った。女性は、布のカバーをかけた文庫本に眼を落としている。


 電車が走りだすと、左手でつかんだつり革も、通学路も、教室も、流れていく景色も、すべてが遠のいて、頭のうえにある雲が薄くなり、静かに光が差す。書くことを覚えるといい、という声が聞こえた。


 つぎの水曜日、書きあげた原稿を先生に渡した。

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