識字率と出版不況

天上天下全我独尊

第1話 識字率の高さと日本の言語文化

 日本には書店が多い。地方でも広い敷地の書店や中古本を扱う店舗が存在する。これは、日本の出版市場が歴史的に発展し、読書文化が根付いてきた証拠の一つと言える。また、日本の識字率は99%以上と非常に高く(UNESCO, 2023)、義務教育を通じて国民全体の読み書き能力が一定の水準に保たれている。

 識字率の高さは、新聞や雑誌、漫画、国産映画の発展にも寄与してきた。例えば、日本新聞協会のデータによれば、2022年時点で新聞の発行部数は3,000万部を超えており、これは人口比で見ても他国と比べて高い水準である。参考に、アメリカの新聞発行部数は約2,400万部に留まる。また、漫画市場は世界最大規模を誇り、2023年には国内市場だけで7,500億円以上の売上を記録している(出版科学研究所, 2023)。これらの数字から、日本人が日常的に文字を読み、情報を処理する文化の中で育っていることがわかる。

 しかしながら、識字率が高いからといって、日本人が必ずしも「言語を操る能力に長けている」とは限らない。例えば、OECDが実施する国際成人力調査(PIAAC, 2019)では、日本人の「読解力」は比較的高いものの、「問題解決における対話能力」や「自己表現の力」については他の先進国と比べて平均的、もしくはやや低い水準にある。つまり、日本の教育システムは「文字を読み取る能力」を重視する一方で、「議論し、言葉を使って考えをまとめる能力」については十分に育成できていない可能性がある。


そこで、日本の識字率と言語文化について、さらに深い考察を試みる。


1. 日本の識字率の定義とその実態

 日本の識字率は99%以上とされますが、まずは、この「識字」の定義について述べる。


(1)機能的識字の観点

 実は一口に「識字」と言っても、単に文字を読める能力と、読んだ内容を理解し、適切に活用できる能力(機能的識字)が異なることは、少なくともここに自力で到達できる文章を愛する読者であれば、わかるだろう。この違いについて、OECDの国際成人力調査では、日本人の読解力は世界トップレベルである一方で、高度な情報処理を伴う読解や文章作成に関しては、他国と比べて弱い面も指摘されている。これは、基礎的な識字能力は高くとも、応用的な言語運用力に課題があることを示唆している。


(2)デジタル識字の観点

 近年、識字の概念は単なる紙の文章の読解にとどまらず、デジタル環境における情報の取捨選択や批判的思考も含めなければならない。総務省の「情報通信白書」(2022)によると、日本の若年層のデジタル情報リテラシーは高いものの、一方の中高年層では他の先進国と比べて低い傾向にある。それでも識字率の高さが出版文化を支えてきたのは確かだろう。日本語話者以外が、日本語の新聞や書籍を頻繁に買うことも映画を見ることもほとんどないことは明白である。


2. 日本の言語文化とその特性

 日本の言語文化には多言語にはない特徴があり、それが言語運用能力の発達に影響を与える可能性について考察する。


(1)日本語の表記体系と情報処理能力

 日本語はひらがな・カタカナ・漢字の3種類の表記体系を持つため、一般的に文字数が多く、表記の習得に時間がかかる。すなわち、日本の教育では「書き取り」や「暗記」を重視する傾向が強く、結果として記憶力や短文の読解力は鍛えられる一方で、抽象的な概念の議論や論理的思考の訓練が不足するのではないだろうか。

 英語ではアルファベット26文字の組み合わせで表現するため、語彙の増加が言語能力の発展に直結しやすい。一方、日本語では漢字を覚えること自体が大きな学習負担となるため、語彙の習得が体系的になりにくい側面がある。


(2)日本語の「曖昧さ」と議論文化

 日本語は主語を省略することが多く、あいまいな表現を好む文化がある。これが敬語や婉曲表現の発達を促した一方で、明確な主張を求められる場面では不利に働く。例えば、日本の企業文化において、明確なYes/Noを言わず、「検討します」「前向きに考えます」といった表現が使われることが多いのは、対立を避ける傾向があることに起因する。これは、日本の教育がディベートやロジカルな議論よりも、「調和」や「協調性」を重視していることにも関連していると考えている。


3. 日本の出版市場と読書文化の変遷

 識字率の高さが出版文化の発展に貢献してきたことは間違いないが、では、近年の「出版不況」との関係についてどう考えるか。


(1)書籍・新聞の衰退とデジタル化

 1996年には2兆6,500億円あった日本の出版市場は、2022年には1兆2,200億円まで縮小した(出版科学研究所, 2023)。これはインターネットやスマートフォンの普及によって活字文化の形態が変化したことに起因するだろう。例えば、新聞の発行部数は2000年代初頭には5,000万部以上あったものが、2022年には3,000万部にまで減少している(日本新聞協会, 2023)。これは、情報収集の手段が紙媒体からデジタルメディアに移行していることを示しており、「文字を読む文化」自体の変化を意味するのではないだろうか。


(2)漫画市場の特殊性

 漫画市場はデジタル化の恩恵を受け、拡大傾向にあります。特に電子書籍市場の成長が顕著で、2023年には5,500億円を突破した(出版科学研究所, 2023)。これにより、活字文化の衰退が一概に「文字離れ」ではなく、「媒体の変化」と捉えるべきであることがわかる。


しかし、漫画と一般書籍の読解力には大きな違いがあるため、「漫画市場の成長=読書文化の維持」と単純に結論づけるのは難しい。むしろ、活字の書籍を読む習慣が減少していることで、長文の読解力や論理的思考力の低下が懸念される状況になっていくのかもしれない。


以上の議論から、

「識字率の高さは必ずしも言語能力の高さを保証しないのでは?」

という新たな問いが生まれた。


 日本の識字率の高さは確かに出版文化や情報消費の基盤を支えてきたものの、それが必ずしも「言語運用能力の高さ」や「対話・議論能力の発達」には直結していないことがわかる。

1. 機能的識字・デジタル識字の観点では課題がある(読解力は高いが、応用的な情報処理力や批判的思考は必ずしも高くない)

2. 日本語の特性が言語能力の発達に影響を与えている(表記の複雑さや曖昧な表現の多さが、論理的議論のハードルを上げる)

3. 出版市場の変化により、読書文化自体が変質している(紙の書籍・新聞の衰退、デジタルコンテンツの台頭)


今後、日本の言語文化がさらに発展するためには、「識字=言語能力」ではなく、「識字をどう活かすか」という視点が重要になるのではないだろうか。教育においても、単に読解力を鍛えるだけでなく、議論や対話を通じて「言語を使いこなす力」を育成することが必要となるかもしれない。

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