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「正しさ」の風景の中で

私は、かつてアウシュビッツを訪れたことがある。
観光でも好奇心でもない。けれど、あれを“学び”と呼んでよいのか、今も迷う。
むしろ、その場に立ったとき、自分が「傍観者の系譜」に連なっているという事実に押し潰されそうになった。

ガイドが説明していた。「ここでは一日に何千人という人が…」
その数字の大きさと、目の前の空気の静けさとが、どうしても結びつかなかった。

ある部屋には、髪の毛が山のように積まれていた。
別の部屋には、使い古された義足、眼鏡、鞄。
それぞれに持ち主がいた。名前があり、家族があり、仕事があり、日々の生活があった。
だけどそれらは、「合理的な処理の対象」として選別され、廃棄された。

なぜこんなことが起きたのか?
当時の人々が極端に悪だったのか?
そんな単純な答えは、きっとない。
多くの人が「自分は関係ない」と思っていた。
多くの人が「社会のため」と信じていた。
それこそが、最大の恐怖だった。

アウシュビッツで私は、「無関心が、誰かを殺すことがある」という言葉の重みを感じた。
そして、気づかされたのだ。
そのとき、黙っていた者もまた、加担しているということに。



私は次回作を書きながら、登場人物の中に、自分自身の未熟さと、過去の傍観の痕跡を重ねていた。
身近な人が何をしようとしているか気づいていた。
止めることも、支えることも、語ることもできなかった。
ただ、布団の中で目を閉じていただけだった。

わたしも、そうだった。

声をあげる勇気がなかった。
違和感を違和感のまま、心の奥に沈めて、
“静かにしていること”を賢明だと信じた。

その静かさが、どれだけの声を消してしまったのか。
今さら悔やんでも遅い。
それでも、「わたしは、加担していた」と言えることから、何かは始まるのかもしれない。



わたしは、今から少しずつ、違う選択をしていく。
勇ましい抗議ではなく、完璧な正義でもなく、
ただ、「誰かの存在を無かったことにしない」という、小さな選択から。

この物語が、あなた自身の問いにつながることを願う。

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