鶯浄土

蔦田

鶯浄土

「ああ、よかった!」

 ようやく目を覚ましたね、とこちらを振り返って、夫がにこりと微笑んだ。

 差し込む白金色の朝日が、縁側の硝子戸の傍に座っている彼の顔に青く深く影を落としている。


「そこは寒いだろう、早く隣へいらっしゃい、暖炉ストーブの傍は暖かいよ。すまないね、この家はずっと冬のままだったから、熱の巡りがゆるやかなんだ」

 彼が話すのをただただぼうっと眺めていれば、焦れたように自分の隣をぽんと軽くたたくので、ああと思って襖を後ろ手に閉めて乞われるがままゆるゆる近づくと、朝の空気のするどさに凍えていた頬がほんのりと温まって柔らかくなっていくのが分かった。

 何だか、頭がぼんやりしている。目覚めたばかりのせいかしら。

 それにしたって。

「ずっと冬のままだったなんて、おかしな言い方」

「あなたが眠っている間、絶えず寒かったんだもの。暦の上ではもう春だけれどね、しかし凍て解けにはまだ早い。ほら、ご覧。庭の梅の蕾はいくつもいくつも色付いているけれど、溶け残った雪がちらほらと、まだそこらを白く覆っている。毎年そうだが、やはり春の気配が感じられる頃こそいっとう冷え込むものだね。ああほんとうによく冷える、ほら」

 はあ、と息を吐きだして、室内なのに白い、と彼は笑う。

 ほんとうね、と私も笑う。

「とはいえ、夜の空気を閉じ込めた地面も、空気中を揺蕩う微細な金剛石も、吐く息の白さも、なにもかも、あの眩い陽光がきらきらと透き通らせていく冬の朝は、なんとも美しいものだね」

 あなたがいるから、なおさらだ。

 と彼は言った。小さくも明瞭な、透明な声だった。

 こちらを静かに見つめる瞳が潤んで輝いているように見えて不思議に思ったけれど、しかし、なんてかわいいひとなんだろう、と頬が緩んだ。

 彼はそんな私を見てぱちりと瞬いたあと、照れたように紅梅色の頬を掻いて視線を泳がせて、しかしふいに何かに気づいたようにそろりと手を伸ばしてくる。

「……オヤ、あなたの呼気が睫毛に小さな水の蕾をつけているじゃないか。拭ってあげよう、じっとして」

 そっと目を伏せると彼の袖が肌を擽った。

 と同時に、ふわりと仄かな香りが広がる。

 乾いた睫毛を上げて、私は彼に問いかける。

「ねえ、なんだか良い香りがする」

「ウン? ……ああ、そうだ、そこの部屋でね、香を焚いていたから。僕の服にも焚き染められたんだろうよ」

 あなたが好きだと言った、梅に似た香りだろう。

「だけれど僕に言わせれば、あなたの方が。眠っている間に香をたんと喰ったようだね、その身の内から瑞々しい甘い香りがする、肉の腐る甘い匂いとはまるで違う。春の陽だまりの香りだ」

 彼はそう言って戯れに私の首筋に顔を埋めようとしてくる。

「ちょっと、ふふ、いやだわ」

「なんだい、照れなくったっていいじゃないか」

 ムッと口を曲げながらも目はにこにことしているので、肩を軽くはたいてやれば、巫山戯たようによろめきながら「ハハハ、まったく、つれないひとだね」と呟いた。

「春になったら二人で花見をしようと約束したのに、あなたときたら突然、僕を置いていってしまうんだから」

 置いていった?

「なんのこと?」

「いいんだ、気にしないで。こうして、また話すことができるんだから」

「おかしなひと、毎日お話していたじゃない」

「ウン、そうだったね、そうだった……。だけどどうかもっと、その鶯の声を僕に聴かせて。そうしたらこの凍てついた家にも春が来るだろう」

 答えになっているのかいないのか、それすらも分からない返事だ。なにがあったか思い出そうとしても、どうしてかまだ記憶に靄がかかっていて、何か大事なことを忘れているような、そんな不安と違和感が広がっていくばかり。

「……私が春を告げるの? 責任重大ね」

「そうだよ、僕の春告鳥。あなたが鳥籠から飛び立って、そのまま帰ってこなくなってしまったら、僕は凍え死んでしまうんだ」

「大げさよ」

「本当だよ」

 でも今は、と彼は私の左手を両手ですっぽり包みこんだ。温かい手から熱がじわりと伝わってくる。

「あなたのおかげで凍えずに済んだ」

「ふふ、暖炉ストーブのおかげでしょう」

「アハハ、あなたって、なんて冷たい人だろう」

「そうよ、まだ指先が冷たいの」

「おお、かわいそうに。そうだ、熱いお茶を淹れてあげようね」

「あら、ありがとう」

 そう言って彼が私の手を放して立ち上がった拍子に、またあの、白檀と丁子の香りがした。

 ……ああ、それにしたって、このくらくらする香り。

 彼から幽かに香るそれは、今も隣の部屋から蝕むように漂って、襖の隙間から薄紫色の煙が私に纏わりついてくるよう。忌々しい。きっとこの煙のせいで私の脳内に霞がかかっているんだと、そんな予感が、する。

 ……隣の部屋。

 隣の部屋は、何があるんだったかしら。

「どうかした?」

「え?」

「その襖の向こうが気になるのかい」

 彼は立ち上がったまま私をジッと、突き刺すように見下ろしていた。表情が抜け落ちていて、周囲から音が消えた。背にした明るい陽射しが彼を影のように浮かび上がらせている。なぜだか咄嗟に言葉が出なくて、私はただウンと頷いた。

 すると彼は困ったように首を傾げる。

「うーん、……開けてはならないよ」

「ど」

 どうして?

 だって。

「ここにはあなたと僕がいて、窓の向こうには黄金の朝日に輝く白銀の雪の景色もある。よく晴れた空は瑠璃と玻璃でできた透明な青で、硨磲シャコのように白い雲が流れている。それに梅の蕾もふくよかで、それらは今に緩やかにほどけてさ、紅い花がパッパッと開くんだ。血潮のように鮮やかで生き生きとした芳しく可憐な花だ。朝露によって、玫瑰マイカイや赤珠のように美しく煌めく宝玉となることだろう。そうしたらきっと小鳥や蝶なんかもやってきて、賑やかな囀りの調べに合わせてひらひらと可憐で優雅な舞を披露する。……どうだい、浄土のように良いところだと思わないか」

 だからね。

「だから別に、向こうを見る必要なんてないんだよ」

「だけど、私、どうしてか気になるの」

「どうして?」

「それは、わからないけれど」

「わからないってことは、大したことはないんじゃないかな」

 そうかもしれない。

 そうなのかしら。

 ほんとうに?

「この部屋にいるのは、不満?」

「そういうわけじゃないの、でも」

「僕以外に目を向けようだなんて、この浮気者」

「……大げさよ」

「ハハハ、冗談はさておき」

 少し待っていて、と今度こそ彼は廊下に出た。

 開けたら駄目だからね、と言い含めることを忘れずに。

 だけど。

 昔話の、鶯浄土でもあるまいし。もしそうだとして、この部屋が春の座敷なんだから、開けてはならないのはここの部屋だったはずじゃない。

 彼の足音は遠ざかり、小さくなって、今は床鳴りの音も聞こえない。

 そうよ、大したことないんだから、開けちゃえばいい。

 私はそっと立ち上がって、静かに静かに襖の前へと移動する。そうしてそろりと襖引手に指をかけた。真鍮と鉄のそれは未だ冷たく、指先が震える。

 開けた隙間から中を覗き込む。

 薄暗い部屋の中で、煙がもやもやと香炉から細く伸びて、風もないのにゆらゆらと震えている。ぐっと濃くなったあの、線香の香り。

 そうか、ここは、仏間だった。

 だけど仏壇の中は、空っぽで。

 ただ底の見えない不吉なくらい穴がぽっかりと口を開けている。

 わずかな光を反射するふたつの鏡。

 床にいくつか転がるのは数珠の玉?

 置かれた経机の上の香炉。

 その正面は、もぬけの殻。

 先ほどまで眠っていた誰かの痕跡を残すように布団と薄い布がくしゃりと。

 …………。

 ……。

 あっ。


「ああほら、だから開けてはならないと言ったのに!」

 呆れたような声に振り返れば。

 陶器の急須と湯呑を乗せた楕円のつややかなお盆を手にして戻った夫が、困ったように眉を下げていた。


「そんなに青ざめて。せっかく頬に色が戻ったというのに、せわしないこと。しかし、……ハハ、いやすまないね、違うんだ、可笑しくて笑っているんじゃあないよ、嬉しくって。アそんな睨むように僕を見ないで、そうじゃないんだ、そうじゃなくって、僕はね、僕は、あなたのそのくるくると変わる豊かな表情が、ずっと見たかった。ずっと見ていたかった。黒い額縁のなかで静かに綺麗に微笑むあなたの写真なぞ、僕は……。

 おや、どうした、もしかして腰が抜けたのかい? ハハハ、可愛いね。ホラ僕の腕に掴まりなさい。大丈夫、なにも恐れることはないよ。だって今、こうして、あなたは僕の隣にいるだろう」

 うまくいったんだ、すべて。

 あなたは還ってきてくれた。

「おや、今外からホケキョウ、ホケキョウ、と聞こえたね。……え、聞こえなかった? そうかい、不思議だね……いや、でもまあ、そうさな。今、あなたに法華経は必要ないものな」

 生きていようが死んでいようが、そんな些細なことは、もうどうだっていいよ。

「ああ、嬉しいな、待ち侘びた」

 ようやっと、春が来たのだ!

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鶯浄土 蔦田 @2ta_da

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