景勝地・インク沼の畔にて

荒野のポロ

物語の書き手について

弘法筆を選ばず

 『弘法筆を選ばず』という言葉がある。

 けれど、かの弘法大師は生まれながらに筆を選ばなかった訳ではないだろう。


 「途中の山に熊が出たらしいぞ」と集落の人に脅されながら、山を歩いて高野山に参った時、般若心経を絵文字で表した絵心経の手拭いと共に、表紙の代わりに高野霊木のひのきを充てた御朱印帳を入手した。

 それ以前は神社の御朱印をいただいたことしかなかったから、寺院の御朱印を意識して目にするのはこれが初めてのことだった。そして順に参って御朱印をいただく中で気づいたことがある。

 実際にそうでなければ何とも失礼な話かもしれないし、あくまで私的な所感ではあるけれど、奥へゆくほど達筆で手前ほど修行中なのかもしれないなと感じたのだ。 

 奥の院では特に、朱印帳を前にした時の姿勢や、筆運びの滑らかさや溜め、仕上がった画面の中の朱印と文字の配置、白と黒の割合。それらが調和的に感じられた。

 一方で手前の方では朱印を待つ人も多く、書き手も若かった。そういったことも含め様々な視点のバランスを加味した結果、修行中の坊主は書いて書いて書きまくる輪廻において修行をしているのだろうか、と至極勝手な解釈をした。 

 その背景もあって、神社とは違った重厚な書の面白さは、寺ならではかもしれないと感じられた。


 最近、四国の雲辺寺の坊主が、ひたすら御朱印や卒塔婆に文字を書く様をinstagramで見かけるようになった。或いはひたすら寺の仕事をする姿が公開されている。寺の仕事とは、場を整え、人と向き合うことだが、やってもやっても降りかかってくるような繰り返し作業である。

 だからこそなのか、やはり彼も達筆だし、参拝者の足元の安全への配慮を惜しまず、寺に参る楽しさを考え創造的に伝え続けている。本当に、留まるところなど有りはしないのだろう。

 そして御朱印や卒塔婆に書かれた文字は、実は文字ではないのだと気づく。

 あれは恐らく、心が映し出された造形であり単なる象形に過ぎないのだろう。全体のデザイン的調和で有り、安定の繰り返し配列だ。

 それを以て、朱印を通じた北陸の復興支援義捐金という喜捨を募り、それを携えて能登へ向かい、『忘れてはいけない。支援は続けなくてはいけない。それが被災しなかった者の努めである』と伝える取り組みをされている。

 国の税に対する姿勢も、このようであって欲しいと願わずにはいられない。


 つまり、朱印帳に記される文字に意味などないのだ。

 そこにあるのは心だけ、結んだ印を交換する。だから上手く書けたか否かについて、その文字の造形に固執しているうちは未熟なのだろう。そして、そんな目先のものはお構いなしに書いて書いて、ひたすら同じ輪廻を繰り返せるようになって初めて、その筆に達し、輪廻を逸脱することができる。

 それこそが達筆の意味であり、仏教における解脱ではないだろうか、といった落とし所に思い至って一人腑に落ちた。

 少なくとも私の中では、『弘法筆を選ばず』というフレーズの意味は、「弘法大師様ほどのお方ともなると、如何なる筆をもってしても達者な文字が書ける」という意味ではない。

 今に残る言葉の本質が、そのような媚びた意味であるはずがないのだ。


 時には一文字に注目してあらためることも必要だろう。

 けれど筆に墨を吸わせたら、あとはひたすらに書き切る。これを安定的に継続できる境地にはそう易々と至れるものではなく、日々の修行の賜物なのだと、改めてしみじみとした。


 合掌

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景勝地・インク沼の畔にて 荒野のポロ @aomidori589

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