第6話 開幕
ピアノに触れる手は暖められた室内のおかげか、適度な緊張のせいか、しっかりと感覚を持っている。そっと手首を上げ、キーに沈めた。
最初の和音はマイナー。和音の構成音から紡ぎ出すのはガーシュウィンのミュージカル《クレイジー・フォー・ユー》のヒロイン、ボリーのソロ。
哀愁ある旋律はしかし、悲嘆の歌ではない。引き伸ばされた音に弱拍の和音はクレッシェンドして――メジャーへ。
――あ。
途端に弾けるシンコペーション、鍵を爪弾き指が跳ねる。硬質な触感を確かめる間もなく次の刺激へ。飛んで着地がオフ・ビートならすぐさま返してオンへ切り替え、歌詞の合間に指を広げて変則的な和音の連打。
ポリーのダンスが響子を踊らす。走る指から熱が広がる。
――そうだ。
ミュージカルの場面は閑古鳥の鳴いたショーの現場だ。落ち込む仲間にポリーは歌う。リズムを作って朗々と、音楽とリズムとそれだけでいいと。
したり顔で眺める靖人が見え、意図を悟って響子の頬が緩んだ。よし、とピアノに向き直るとますます勢い増して威勢よく。
ポリーのタフさが音に伝染すれば、膨らむ嬉しさで最初の節が締められる。ソロはここまで。女声から一変、男性陣を交えた低い音域での繰り返し。
――あ、どうしよ。
この後の間奏は、パーカッションとタップ・ダンスのヒール音が導入だ。ピアノではどう頑張っても模倣しきれない。
もう歌の最後のフレーズが終わってしまう。ざっと目を走らせると、客の顔には続きへの期待が露わだ。しかし勢いで下手な和音を入れてしまっては、せっかくのガーシュウィンが台無しになってしまう。
止まるか壊すかならば仕方ない。即興で終止を作って終わらせてしまおうかと、間奏前の和音を思い切り打鍵する。だが沈黙を予想した響子の耳に、乾いた金属音が聞き慣れたリズムで飛び込んだ。
手を宙に浮かせたまま仰天して音の方を向くと、いつの間にかカウンターに戻った靖人が大小のグラスをマドラーで叩いている。音高は原曲からずれているがテンポの揺らしまで完璧だ。次第に加速し間隔を詰める高低の打音。とはいえ最後の重なりはどうする――?
――えぇ?!
ふっと靖人の横に立った人影に響子は内心で絶叫した。シャラララっと軽い音の連鎖が靖人の打音に重なり、匠が物言いたげな一瞥を寄越す。
視線が合った瞬間、すかさず響子は和音を滑り込ませた。
――うっそ!
高揚が固まった体を解き、手が自在に跳んでいく。タップのリズムと歌の旋律、次々に変奏されるサビのメロディには、いつしか客の拍手も加わっていた。
ここにあるのは音楽とリズム、かけがえのない時と大切な人。
そして訪れる歓喜の宣言――
少ない客全員から喝采が巻き起こり響子を包み込む。自ずから顔が上向き全身が熱を持つ。
勢いのままに立ち上がった身に注がれる拍手と人々の興奮混じりの視線。
響子は満面の笑みが浮かぶのを感じて、汗ばんだ手をピアノに置き礼をした。
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