第5話 舞台袖まで

 だらんと鍵盤に寝た手の甲に喝を入れ、くっ、と山形にする。ただしほんの一瞬で、すぐに鋭く指先を落とす。芯がある一音いちおんは耳慣れた自分の澄んだ音だ。

 いつもの音で、いつもならここから音の連なりが旋律を作り始める。だが今は滑らせた指が鳴らした次の音からぼやけ、三音目は立ち上がってこなかった。

 演奏してできあがっていく曲は、物理的な形を成さずに消えていく。曲が演奏されている間に生まれる独自の音楽的時間は、すぐに物理的時間へ溶けていく。

 そのあと手で触れられる物質は、目に見える痕跡はない。建築や工芸のように役立つ物が生まれるのでも、調剤の医療ように身体に治癒効果を残すのでもない。

 物理的に結果がわかる行為以外と比べてもどうだ。

 演奏をしたからといって人権を守る法でもないし、経済的な利潤がもたられる知的作業でもない。

 無くても生きていけると言われたら。生活できると言われたら。

 ――無くてもいい、なんて……

 またも喉元から不快な塊が込み上げる。押し潰そうと閉じそうになった瞼を無理矢理開け、ピアノに向き直った。

 だがペダルにかけた足を踏み込む前に、玄関チャイムの音が先に鳴った。


 

「響子」

「たくちゃん? お店から?」

「店から直で。それより」

 玄関前に現れた匠は革ジャケットの前ボタンも止めていない。靴のまま玄関から上がらず、響子をじっと見据えている。

 しんと冷えた廊下の空気は無音を強調する。それゆえにこそ、やっと発せられる声も。

「何か、あったか」

 直球の問いかけは切羽詰まって聞こえる。

「別に? なんでもないよ」

「嘘つけ」

 破顔と共に返した答えは間髪入れずに一刀両断された。無意識に作り上げた笑みは、瞬時にひき剥がされる。

「なんで」

「極度に緊張した演奏会前の挨拶用の顔になってる」

 うぐぅとますます口の端が下がるのが分かり、やられたと匠を睨め付ける。だが微笑を作るその顔を、今度は響子が覗き込んだ。

「たくちゃんこそ、何かあったでしょう」

「いや特に何もな」

「嘘」

 今度は匠の眉がひくりと上がった。

「たくちゃんの苦手な接客用愛想笑いになってる」

 どちらも雑に作った仮面が割れて、仏頂面のまま同時に肩を落とした。

 数十秒の沈黙を破ったのは、嘆息混じりの匠の提案だった。

「これからちょっと、外に食べに行かないか」

 意外な発言に響子は固まった。向かいの家同士の幼馴染なので、食事をするならたいていどちらかの家だ。外食は滅多にしないし、こうした微妙な気分の時に匠が言い出すのも珍しい。だが今の響子の体はずしりと重く、鉛が腹にあるようだ。風邪になったわけでもない。しかし食事を思い浮かべると吐きそうな気持ち悪さが戻ってくる。

 堪らず「でも」と渋るが、匠は引かなかった。

「食欲なかったら無理しなくて大丈夫だから。やすさんの店、行こう」

 

***


 二人が来たのは匠の専門学校時代の先輩、靖人やすひとのカフェ・バーだった。バーといっても有機の材料を使った体に負担のない食事とカクテルをコンセプトにしており、そのこだわりを好む固定客もついている。平日夜のいま、まばらにいる客の大半は常連らしく、新たな客が来ては互いに軽く挨拶を交わす。

 店主の靖人は入り口から遠い席に二人を通してくれた。扉が開いても外の冷気が当たらず、暖房も直撃しないテーブルだ。

 響子はオレンジ・ジュースをベースにしたモクテルをひとくち飲み込んだ。やや苦みのある粒入り果汁がミントの清涼感と混じり合い、素直に喉を通る。メニュー表には載っていないノン・アルコールである。匠が響子の具合を伝えていたのか、靖人は響子を座らせるや「任せなさい」とサムズ・アップして奥へ引っ込み、すぐにこのグラスを持ってきてくれたのだった。

 気遣わせない靖人の明るさのおかげもあるのか、気怠さを感じていた胃も拒絶を示さない。

「ショコラもそんな風に見られるんだね」

「音楽に似て、な」

 響子の正面に座り、匠もソーダとライチのカクテルに口をつける。互いに今日起こったことを言い合って出たのがこの所感だ。

 響子の外向きの顔だけを知る人間なら、「ええ、そんな酷い」とでも言いそうだと思うかもしれないが、上っ面の慰めはしないのが響子だ。匠も匠で、真剣な悩みに対して現実に反する無益な評はしない。

「形にならなかったり、結果が目で見えなければ、無いのと……同じなのかな」

 明らかな効果や実利が得られない。喫茶店の客が言ったように、実学に対して虚学は二の次と言われやすいが、藝術もその類だ。

「でもよな。目に見えないものって」

 響子は頷いた。

 外傷や数値で現れる疾患ではなくとも、目に見えない力は臓腑を抉り、喉を詰まらせる。相手はそこまで深刻な考えなしに発した言葉だとしても、時にじわじわと、時に刃物で刺すように身を襲う。

 実際、今の響子も匠も自分の身体の異変を感じ、当然空腹を感じるべき時間に胃は正しい主張はせず、逆に内から蝕まれていくような感覚を抱えて、自分ではどうにもできなくなっている。

 目で見える変化の方がマシだとは言わない。辛く苦しみに襲われるのは事実だ。

 だが内にのみ起こる異変は外に見えないからこそ気付かれにくく、たとえ刻々と心を病魔で侵したとて、確たる証拠として示せないから自ら痛みを訴えにくい。外にわかるか内で起こるか、次元が異なり比べられる対象ではない。

 しかし時としてどちらも禍根は残り、押し殺し奥へ奥へと追いやっても、だからこそ深いところまで浸透した針が時を経てすら思い出したように主張する。

「人の考えはそれぞれだから万人と共感できるとは思わない。頷ける部分もある。でも」

 抗いたくなるのを抑えられない。そうじゃないのだと、声を張り上げて叫びたい。

「好みの問題だけど、私たちがやっていることって意味がないとは、どうしたって」

「うん、少なくとも響子のピアノは……」

 やや落とされた照明がグランド・ピアノの艶めいた黒に暖色を帯びた光を落とす。いまはその弦が鳴る代わりに、店内のどこかに隠されたスピーカーからしっとりした旋律が流れていた。ガーシュウィンのミュージカル・ナンバーだ。本来のヴォーカル抜きで、ピアノ独奏にアレンジされている。

 響子はオレンジに染まった鮮やかな水面を見つめた。知っている曲を聞いたら自然に動くはずの指は静かな疼きを感じているのに、今は上から押さえつけられているように、グラスから離れていってくれない。

 すると、響子の手元をじっと見ていた匠が「靖さん」と手を挙げた。

「ちょっとそこのピアノ、弾かせてもらっていいですか」

「え、たくちゃん」

「途中で止まるかもしれませんけど」

 カウンターから出てきた靖人は、人好きのする顔にニヤリと笑みを浮かべた。

「匠がすごい低い声で『来る』って電話してきた時からそう思ってたよ。さ、響子ちゃん。待ってたからね」

 響子は戸惑った。

 いまの状態で、自分のピアノが果たしてくれるのか。

 鬱々として迷う気持ちに引きずられ、演奏に毒が入るのではないのか。

 だが靖人がよく通る声で言ったせいで、周りの常連まで期待の目でこちらを見ている。椅子を引かれて促されたら、無意識に立ち上がってしまった。

 ピアノに目をやる。

 ライトを浴びて、出番を待つ楽器。集まる観衆の目。曲の出だしへ高まる期待。

 もう、引けない——ここは、舞台だ。

 響子は息を吸い込んだ。

 演奏者たる気質か、客を前に立ち上げっておいて、やらない、は無い。

「あの、ひとつお願いが」

「ん?」

 目尻に皺を寄せて靖人が首を傾げる。

「リクエストを」

 観客を一瞥し、匠と目を合わせ、それから靖人は「それじゃあ遠慮なく」とくうを指さした。

「ガーシュウィン。これいまかかっているヤツの中から」

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