第4話 厨房

 ——これまでだってなかったわけじゃないだろう。

 自分の指がキーボードを叩くのが耳に入ってくる。照明をやや落とした閉店後の店内で過ごす時間は、不得手な接客用の愛想笑いをする苦行が過ぎて、思い出したようにどっと疲れに襲われるのと同時に、いつもならその疲労に心地よい達成感が混ざっているはずだ。

 だが今日は体に馴染んだ一種の高揚がわずかもなく、未消化の残滓が胃のあたりに残る。

 ——毒か。

 カウンターの上でノート・パソコンを開き、ブラウザのページをなんとはなしに遷移する。しかし頭には昼に聞いた言葉がこびりついて離れない。考案中のレシピの決め手が見つからなくて飲食関係やファッション・プレスのコラム・サイトを巡っているのだが、どのページもまともに読む気にならず流れていってしまう。

 菓子であるチョコレートを忌避する人間はたまにいる。店に訪れる客層は若い女性客が多いが、中にはせっかく来店しても先の女性のような理由をこぼして買わずに出ていくケースもある。ああした文句を残していくのは購入者ではなくその付き添いのことが多いが、美容意識の他に、健康意識から嫌悪感を示す人間もいる。

 彼らの理由が理解できないわけではない。しかし頭で分かっていても感情は別物だ。

 どうしたって制御できない苛立ちとやるせなさ。

 否応なく胸が疼く。

 レシピを練るはずが脳みそも働かぬまま画面を見続けていたら、ブルーライトが目に痛くなってきた。絡んだ思考を無心になるなら作業台の前に立ったほうがいいか。

 パソコンを閉じてしまおうと思ったとき、もはや惰性で動いていた指がマウスを叩いてページが開かれる。ワンランク上のライフスタイル志向を売りにしたウェブ雑誌のバレンタイン特集だった。フランス風のデザイン性高いショコラの写真が画面を飾る。

 だが匠の目を引いたのはハートのプラリネを遮る見出し文句だった。

『チョコは悪魔の食べ物! バレンタインにチョコはもう時代遅れ』

 考えるより前に目と指が動く。記事をスクロールすると、医師および栄養士監修と銘打たれてチョコレートの弊害が説かれていた。

『カカオのポリフェノールやスーパーフードのカカオニブを宣伝文句にしていても、甘いチョコには糖質と脂質がたっぷり』

『ヴァレンタインで人気のトリュフや生チョコは生クリームもふんだんに使い、三粒だけでおにぎりひとつ分のカロリー(コスパ悪!)』

 他にも栄養価のグラフや成人病のデータを使いながらチョコの害悪が連ねられ、菓子に代わる贈り物が魅力的に提案されている。

『ハイスペの彼やオシャレな上司にこそ、チョコレート以外の贈り物が今風女子の成功ストラテジー』

『美容・健康を気にする人が増える現代、高いチョコは罪悪感と無駄遣いじゃない?』

 途中までスクロールして耐えられずパソコンを閉じる。乱暴にパソコンを横へ追いやり、ペンを挟んだままだったレシピ・ノートを開いた。

 続きを、とペンを手に取る。だが書きかけのデザインと構成コンポジションに、ウェブ・ページの残像が重なった。

 ここまで気が散るのは、作ろうとしているレシピに迷いがあるのも原因か。

 ——チョコは悪魔の食べ物。

 店内には匠しかいないのに、目に見えぬ何かが無音を崩すことすらせず、静かに、しかし確実に、臓腑を刺すようだ。

 健康に悪影響を及ぼす面がショコラにあるのは事実だ。カカオ・バターだけでなく、とろけるガナッシュや軽い食感のフィスタージュを作るには生クリームやバターを惜しむことはできない。体に良いとされるポリフェノールもショコラ一粒に含まれる量はたかが知れているし、カカオマスの無いホワイト・チョコは論外だ。

 健康に良いという評判を拾ってナッツを主軸とした製品を打ち出す風潮もある。ショコラのレシピをそちらに寄せることも可能だが、それでは逆に脂質過多になる。

 匠はペンを無為に揺らしながら、甘味成分の候補をメモしたページをめくった。経験で得た感覚から、選択肢の中でこれというものは決まっているのに、踏ん切りつかずにいた点だ。

 最近は糖質オフの流行を意識してカロリーゼロの人工甘味料を取り入れているパティスリーもある。食事制限のある消費者には助かる取組みだろう。

 しかし自分の作りたいショコラは、妥協なく最高だと思えるショコラだ。

 甘味料はそれぞれ味が異なる。砂糖といっても白糖、黒糖、三温糖は各々特徴があるし、蜂蜜やメープルシロップはいずれも数えきれないほど種類がある。それにプラリネに包み込むカラメルやプティ・ガトーを飾るグラサージュは砂糖の化学反応がなければ作り得ず、グラニュー糖か上白糖かでも仕上がりが違う。

 ——『お酒入りはさらにハイ・リスク。それよりハイ・センスな贈り物を選ぶなら、相手の健康を気遣ったショコラ以外のものがベスト!』

 ページを戻り、デザイン画の中央に描いたグラスをなぞる。頭を悩ませている新しい試みも、所詮はだろうか。

 数値で示されるチョコの成分と摂取量に比例した身体影響の数値。並列される他の食品の血糖値上昇値や病への効能。

 そうした数値では、チョコレートの利点は現れない。

「無駄。」

 口に出すと嫌な唾きがこみあげ、想像しかけた作品の味を邪魔する。

 ショコラの効能は、無いのだろうか。

 頭が重くて目を開けているのもしんどく、匠は肘をついて手のひらに頭を埋めた。だが目の前が暗闇になっても鈍痛が和らぐわけではない。

 見えない圧から逃げられず、立ったまま動けない。

 すると、突然体に伝わってきた振動が、無理矢理に匠の束縛を解いた。

 スマートフォンに表示されたのは、馴染みの喫茶店の店名だ。

「はい。穂積さん?」

「ああ匠くん、今大丈夫?」

 穂積の店にショコラを納品しているのは、匠が自分の店を持つ前に勤めていたパティスリーだ。匠が客としてカフェにたまに行くとはしても、先輩の店から匠の店へ商品の発注を変えるとは思えない。

「平気ですが、何か? はい……え?」

 スマートフォンを握る手に、さっきまで入らなかった力が籠る。

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