第3話 舞台裏
着替えて病院関係者に挨拶を済ませ、玄関ロビーへ戻る。演奏会場から日常へ戻ったエントランスは、処方箋や会計を待つ人がまばらにいるだけで、ドレスを脱いだ響子を演奏者だと認識する人もいない。昔、患者から寄付されたというピアノレクリエーション・ルームに戻っている。
薬品の匂いが混ざるのか、特殊な空気は病院独特のそれで、空間内にいる人々の属性を無言のままに知らしめる。
付き添うべき相手も面会先もなくいる自身が、水中の中の油の如く、この空気には溶け込めないという自覚も。
待合ソファの間を抜けて、建物の外に出た。
「ふぅ」
背後で自動ドアが閉まり、院内の空気から隔絶される。きりりと澄んだ冬空の下に立つ。すると外界と膜一枚隔てていたような違和感が身体から消えていき、やっとこの世界のものとして受け入れられるのを感じた。
駐車スペースが設けられた病院前の敷地には、外来時間を過ぎてしまえば人の声もしない。上空を横切る飛行機のエンジン音が頭の上に降ってくる。
——薬にもならない。
頭の中に浮かび上がった言葉が、鈍い機械音と重なった。
「行こ」
瞼をぎゅっとつぶって口に出してから、響子は踏み出した。こんな時には美味しいものを食べたりカフェでひと休みするに限る。
病院の敷地を出ると車通りになる。横断歩道を渡れば線路に跨る橋となり、電車が走るのを眼下に渡ると駅舎だ。病院が立つ側は大学や公共機関が多く、落ち着いた雰囲気であるが、対照的に橋の向こうは賑やかな繁華街になる。楽器店も並ぶ一帯なので響子にも馴染み深い。
駅の周りにはチェーン店がひしめいているが、街自体は文明開花の頃から文学人や学者らが繁く通った長い歴史を持つ。路面店の中には明治期からの老舗もあるし、一歩路地に入れば昭和の頃から続く喫茶店が趣ある看板で足を誘う。
――あそこにしようかな。
お気に入りの喫茶店のうち喧騒を逃れた一角にある昭和創業の店へ足を向けた。店内に入れば、年代を感じさせる濃茶の木材や使い込まれたテーブルが外界とは別世界のような空間を作り出し、ざわついた気持ちを落ち着けてくれる。
そう言い聞かせながら店の扉を押し開けると、運よく隅の席が空いていた。季節限定メニューも惹かれるが、こんな時は普段の通りに、といつもの珈琲を注文する。
木枠に囲まれた壁時計が、古めかしくカチコチ規則的に律動を刻む。それをかき消さない程度に流れるゆったりとした民族風の音楽。演奏を聴くとどうしても神経が張ってしまうが、自分は絶対に演奏しないケルト風の調べは、全身の感覚を適度に日常から引き離してくれる。それが、響子が演奏会を終えるとここに来たくなる理由なのかもしれない。
しかし今日はティン・ホイッスルやフィドルの奏でを聞いても、いつものように気持ちが緩んではくれなかった。
——お気楽なもんだな。聴いたって何の役にも立たねえのに。
エントランス・ホールの床から感じた冷たい感触が蘇る。
——人が生きるか死ぬかって時に音楽なんて。
内側から響いてくる文言が波のように反響を繰り返し、耳が分厚い膜に覆われてしまったようだ。どこまでも壁のない野原に吹く民族音楽は、遠くて遠くて掴めない。
深く刻まれた机の木目が、軽く閉じた響子の指の下まで這って渦を巻く。木の線の先は手の影に隠れて見えず、巡るだけ巡って目的地を見失っているようだ。
その幾何学的な図像を見つめ続けて、次第に視覚が朧げになってきた。輪郭がぐらつき、もう崩れる——そこへ、真っ白なソーサーとカップが飛び込んだ。
「はい響子ちゃん。お待たせしました。ブラックで良かったよね?」
瞬時に視界がクリアになった。面を上げると、顔馴染みになった二代目のマスターが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「今日は病院のコンサートだったっけ。聴きにいけなくてごめんね」
「いえ、穂積さん、お店ありますし」
せっかく来たのに沈んだ顔をしていては店主の穂積に失礼だ。慌てて本番と同じ笑顔を取り繕って、置かれたソーサーを引き寄せ礼を言う。
「ありがとね。寄ってくれるんじゃないかなって期待しちゃった。ゆっくりしていって」
いつもなら演奏会の様子を聞く穂積だが、ちょうど隣の卓の客がオーダーの手を上げた。それに応えて穂積が離れると、同じ卓へもう一人、店の奥からきた男性客が腰掛ける。手洗いにでもいっていたのだろう。
「——はい、シングル・オリジンでアイス・コーヒー二つですね」
「一つはカフェオレってできる?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
外回りの合間の会社員か、それともこれから打ち合わせの仕事仲間か、客はそうした雰囲気の壮年の男性だった。穂積の応対からして固定客ではなさそうだ。
カウンターに戻る穂積に会釈だけで挨拶すると、響子はカップを両手で包み込んだ。湯気が立ちのぼってきて目元を湿らせ、瞬きを誘われて瞼を閉じると涙が滲む。意外と乾燥していたのだな、と気がついた。
いつもなら焙煎した珈琲豆の香りにあっという間に魅せられて、熱いうちにとカップに口をつけるのに、今日は卓に置いた手が鉛のようで、そのひと口のためにも動かない。
カウンターで穂積が珈琲豆を挽く音がする。手挽きのミルが規則的に回り、豆が弾けて石飛礫のように鳴った。その小さな衝撃音に重なって、斜め後ろの卓の一人が「そういや」と切り出した。
「お嬢さん、今年が受験じゃなかったですか」
「おう、もうこれが大変で聞いてくれよ」
歳上らしき男性が身を乗り出す気配がした。
「希望学部、本人の好きにさせようと放っておいたんだが、聞いたら大変でな」
「何です、医学部とかですか」
学費も難易度も高い医学部は、突然「受ける」と言われたら焦るだろう。この界隈が医大の複数並ぶ土地柄だということもあって響子もぼんやりそう予想していたが、男性は「違うんだよ」と勢いこむ。
「事もあろうに美大だと!」
響子の身体がびくりと震えた。それに気がつくはずもなく、相手の男性が「それはすごいじゃないですか」と感嘆を送る。しかし年配の男は大仰な手振りで否定すると、乱暴に肘をついた。
「聞いた時にはもう自分で出願料も払って、予備の美大は推薦も確定してるとかいいやがる」
「なかなかなお嬢さんですねえ」
馬鹿言え、と男はさらにいきりたつ。
「工芸なんぞやって何になるってんだ。余程でないと食えないし」
響子の拳がぎゅっと縮こまり、聞いてはいけないと思うのに自制が効かず耳をそばだてる。
相方が他人事だと適当な相槌を打つのにも拘らず、男は激昂した反動なのか、今度は額に手を当てて項垂れた。
「医学部受けてくれた方が学費だって払い甲斐があったのに……せめて企業ニーズも多そうな理工とかならなぁ」
続く言葉に怯える自分がいて、追い払いたい予感がじわりと忍び寄る。だが塞ぐべき耳は、どんどん鋭敏になってく。
「藝術なんて、無くたって生きてけるようなもんじゃなくて」
物理的な衝撃もなしに、脳髄が撃ち抜かれたような感覚が走った。
「でもまぁ、工芸ならそこからデザインとか建築とかもあるかもですよ」
「建築士にでもなってくれりゃ役に立つけどなぁ……」
「インテリア関係って手もあるじゃないですか」
二人の会話はまだ続いていたが、響子の耳は一変して機能を失っていた。無意識に言葉を受け取るのを鼓膜が拒絶したのか、それともどくどくと内側から打つ音が外からの刺激に勝ってしまっているのか。
やまない打音は鼓動なのか、頭の中で作り出している幻聴なのか。
ともかく落ち着こうと、珈琲カップを持ち上げる。癖のあるスパイシーな香が鼻を刺して胃から嫌な塊が込み上げ、響子はカップに近づけた口を離した。
「あの、穂積さん、すみません」
隣の客に給仕を終えた穂積を呼び止め、「ミルクを頂けますか」と小さく頼むと、穂積は間近まで来て腰を落とした。
「響子ちゃん、大丈夫?」
顔を覗き込まれて困惑する。だが隣卓を横目で見遣った穂積の仕草で、何を思ったのか十分解った。
「響子ちゃん、珈琲、今日はやめとこっか。顔色悪いし帰った方がいいかも。ここ、気分悪いでしょう」
「あ……でも」
頷けずに言い淀む。図星を当てられたものの、オーダーしたのに口もつけずに残すのは失礼だ。しかし穂積はにこりと響子の手からカップを取り上げ、お盆にそっと着地させる。
「珈琲は私の好き勝手にアレンジしちゃうから、お代はいいからね。また飲みたくなったらいつでも来て」
「すみません……」
「はい、謝らない」
恐縮して俯き加減から直れないまま、店先まで見送ってくれた穂積に礼を言うと、響子は吹き付ける風に刃向かい小走りに店を離れた。
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