化け猫

野之人

化け猫

人はわたしの姿を見れば怯え、そして時に襲い掛かる。


気に障る者は全て喰ってきた。

一度は逃げ果せた者も、必ず村の住処を突きとめ、その血肉を貪った。

月明かりが愚か者とその家族の苦痛に歪む表情を浮き彫りにし、煩わしい風鈴の音は更に耳に障る人間の叫び声に掻き消された。

この大きい身体が恐ろしいか。

この鋭い爪と牙が恐ろしいか。

小さき者のなんと非力な事か。

しかし、いくら喰おうともわたしの中に渦巻く幾つもの唸りは鎮まる事はなかった。


先程までの騒々しさが嘘の様に静けさを取り戻した季節にそぐわぬ紅葉を散らしたように彩られた人の棲家で、わたしは口元を拭い月を見ていた。

「随分と散らかしたものだ」

ふと静かな声が鼓膜を揺らし、振り向くと笠を深く被った一人の僧が佇んでいた。

「許せとは言わぬ。許されたいと思う事さえ人にはおこがましい。しかし願わくば」

僧が言葉を並べると、わたしの意識は唐突に途絶えた。


気がつけば、かつてのような小さき猫の姿となっていた。

てっきり僧によってわたしの生は途絶えたものだと思っていた。

力が戻るまでは酷く眠く、私は身を隠すように寝てばかりいた。


ある日、草間でまどろんでいると老爺が現れた。

森に迷い込んだようで、暫く周辺を彷徨くと、老爺は足元に転がる蝉を見つけ、そっと木の下に添えた。

いつまでも此処にいられては気が散るので、私は森の外へ老爺を誘ってやった。

老爺はこちらを見つめ暫しした後、ひょいとわたしを持ち上げた。


老爺はわたしを家に住まわせた。

力が戻るまでは都合が良いので、暫く身を置く事にした。

人は皆同じ形状であるのに、わたしの知っているあの怯え見開かれた目は細められ、襲いかかるばかりであったその手はわたしの背を撫でた。

縁側の景色が心地よい。

寡黙な老爺は日頃あまり言葉を発しないが、一度掠れた声で私の額の眼のような模様を粋な柄だと言った。

以後、名を呼び硬い手の掌で背を撫でるばかりであるが、それも心地良く、大層落ち着くものであった。

しかし、「猫太郎」という名だけはなんとかならぬものだろうか。


時折、骨が軋むような感覚に襲われた。

戻りつつある力は小さき姿に収まりきらず身体が拒否反応を起こしているのだろう。

この姿で過ごす時はもう長くはないだろう。

老爺もわたしの姿を知れば怯えるだろうか。

恐怖から身を守るために本能的に攻撃してくるやもしれぬ。

老いた人間の攻撃など、痛くも痒くもないが、何故かそれを思うとわたしの奥底で何かが掻き乱されるような感覚を覚えた。


しかし、もしかすればこの老爺ならば、額の模様を目にして私だと気がつき、日頃のように目を細め、わたしの背を撫でさするやもしれない。

あの眼差しが変わらぬものであってほしい。

いつしか芽生えた奇妙な欲は、縁側の陽だまりの時の経過と共にその大きさを増してゆくのだった。

もう少しだけ、もう少し、と。


全身が軋みをたて己の影が月光に大きく伸びた時、わたしは如何に己の胸に抱いたものが浅はかなものであったのかを知る。

老爺が床に腰を付き、割れ散る皿の音が耳をつんざいた後、夜は再び静寂を取り戻した。


わたしはその静けさを噛み締めた後、閉じた瞼をゆっくりと開き、こうべを上げた。

老爺をわたしの影が覆う。

わたしの背を撫でた手は床を掴むように硬直し、今まで向けられていたあの細められた目は大きく見開かれた。

今まで幾度と見てきた人間の目であった。


分かっていた。

身体が小さければ悪戯に痛め付け、大きければ怯える。

人間など皆本質は変わらぬ。

わたしが、わたし「たち」が個々として生を受けていた頃、悪戯にその命を手折った人間達は今この目で見れば酷く浅はかで脆い。

ある年老いたわたしを蹴り上げた大きな足はあまりにも容易く折れやすいものであった。

ある目の開いたばかりのわたしを川に投げ入れた太い腕は見るも貧相なものであった。

その脆さを味わう事が、わたし「たち」を強く満たすものであった。


再び瞼をゆっくりと下ろし、開いた頃には、目前の老爺は体を震わせ、その場で額を床に押し付け蹲っていた。

その小さな背に手を伸ばすと、接触を拒否するかのように老爺は声を震わせ言葉を絞り出した。

  

「……お助けください」


老爺が粋だと言った額の模様に、その目が向けられる事はなかった。


己と違う種族に対し、親愛を注ぐなど夢物語であった。

聞こえるは命乞いの言葉ばかりである。

わたしの足元に影が深い穴のように闇を落としている。

耳の奥で血液が激流する川の如く音を立て、それは徐々に頭へと広がった。

その音に覆い尽くされんとしたとき、風に揺れる風鈴の音が細くも強く鳴り響いた。

その瞬間、全ての音が散った。

音は消えたかに思われたが、よくよく耳を傾ければ、老爺が掠れた声で再び言葉を発していた。

幾度も額を床に押し付け老爺が繰り返すその言葉は、やがてはっきりと耳に通った。


「猫太郎だけは……猫太郎だけは、どうかお助けください」



私は外へ駆け出した。

木々は風に揺れ、月は煌々と輝いていた。

家々を飛び越え、それでも抑えきれず吠えたけり、その咆哮は闇夜に轟いた。

恐ろしいと言われたこの声は、人々を恐怖に陥れる事だろう。


しかし、月明かりは辺りを美しく照らし、風鈴は優しくその音を鳴らすのであった。

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化け猫 野之人 @yalayalayalayalayala

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