竜人と乙女

紫陽_凛

とある異類と人間の娘の話

 わたくしに名前があった頃、おそらく私に自我が芽生える前のこと、覚えているのは一面、見渡す限りの金の稲穂と、流れる水の清さと、その冷たさ、それから父母のおぼろげな笑顔なのですが、名前と一緒くたに失われたそれらのことを思い出すたび、私の中にある漠然とした統一性にひびが入って割れてしまいそうになります。それは、なんとなく私にとって悪いことの様に思われました。

 

 統一性とは、竜人リュウジン様が教えてくれたことばです。自分を担保するもの、自分を形作るもの、その外殻がいかくのことだと仰っていました。

「それが壊れてしまうとどうなってしまうのでしょう」と私が尋ねると、竜人様はただ一言、「わたしのようになる」とだけ仰いました。


 竜人様は日毎ひごとに「ふとるように」と仰って、私に生肉の塊を寄越しました。生肉は、血がすっかり抜けて薄い桃色の時もありましたし、ついさっきまで生きていたかのような、鮮血滴る塊のこともございました。


「お前が丸々と肥えたら、私はお前を骨ごと食らうことにしている。そのためにお前を里から攫ってきたのだ」


 毎日の様に仰いました。ですので私は、つとめて肥るように、いただいた肉を一日掛けて食べるのです。それが私の中に唯一存在する「統一性」でした。


 最初の日は、どのようにして食べれば良いか全く分かりませんでした。竜人様が見かねて、指先で点した炎からたき火をつくり、その火で炙ってくださいました。火を入れると食べやすくなることを覚えた私は、次の日から試行錯誤を始めました。


 熱い湯に入れたらどうなるだろうか。

 薄く切ってから炙るとどうなるだろうか。あるいは、湯につけてみては。


 竜人様はそんな私の試行錯誤を、青い目を細めてご覧になり、一言、「健気だな」と仰いました。私はその言葉の意味を幼児おさなごのように尋ねたのですが、竜人様はそれ以上何も仰いませんでした。


 そうしているうちに、肉塊にも個性があり、それぞれに適した調理法があることに、私は気づくのです。次第に「食べる」ことは、私にとっての「おいしい」を探求することに変化していきました。


 数えきれぬほどの日が過ぎていきました。竜人様のいる洞穴どうけつに、何度も水が満ち、そして引いていきました。最初はその満干まんかんを、土壁に指で彫りつけて数えていたのでしたが、途中でやめてしまいました。数えるのを忘れるほどの歳月を経ても、私は一向に肥らず、ただ縦にばかり伸びて、あしのようにほっそりしていました。


「これでは食べ甲斐がありませんね」

 竜人様は答えました。

「そうだな。もっと肥れ」


 竜人様のほうは、私の毎日の食事を眺めるばかりで、何かを食べるそぶりを見せませんでした。いちど、「竜人様もいかがですか」と、作りたての焼いた肉を木の板の上に載せて尋ねたのですが、竜人様はただ「お前が食べよ」と仰いました。


「お前がよくよく肥ったら、お前を食べて空腹を満たすとしよう」


 こんな調子ですから、私は竜人様が何かを口になさっているところを見たことがございません。



■  ■  ■



 竜人様は頻繁にお出かけをなさいました。それはおそらくわたくしの一日分の食餌しょくじを調達する事も兼ねていらっしゃったのでしょうが、私にはそれだけとは思えなかったのです。私は何日も何日も、ずうっと、その問いかけを胸にしまって居たのですが、とうとう尋ねました。


「竜人様はどこへお立ち寄りになっていらっしゃるのですか」

「ちょうど良かった。お前を見せる約束を取り付けてきたところだ」

 

 竜人様との間で、成り立たない会話は初めてではありませんでしたから、私はつとめて冷静に尋ねました。


「私を見せる約束とは?」

方々ほうぼうでお前の自慢をしていたら、そのを見せよという話になってしまったのだ。近いうちに、わたし知己ちきが三人、この洞穴にやってくる。そこでだ、お前の肉料理をかれらに振る舞ってもらえないだろうか」


 私は将来的に竜人様のかてとなる女です。「花嫁」なんて、とんでもない誤りです。私は頭の中で何度もそれを否定しようとしました。は、どうしようもなく、私の「統一性」を脅かしてくるのでした。私は竜人様のために肥ろうとしている、その最中の女なのですから、そんなことはありえないのです。

 ですが竜人様は水のようにその言葉を流してしまうものですから、私の方からとやかく何かを言うことは不躾な様に思われました。


「承知いたしました」


 私は静かに頭を下げました。長くほそく伸びた黒髪が、ゆるりと頬をかすめました。



 竜人様の三人の知己のかたがたは、それぞれ異なった姿をしていらして、私を驚かせました。

 一人は、蛇の下半身を持つ恐ろしいかた。一人は、体中にびっしりと鱗を纏ったかた。そして最後は、どこからどのように見ても「人間」とおぼしきかたでした。三人の殿方は、私の姿を眺めては、竜人様に揶揄やゆの言葉を浴びせます。

「お前も隅におけないやつよ」

「どこで拾ってきた?」

 私はただ顔をうつむかせて居ました。ここに来て、私が何も纏っていない裸であることを思いだしたのでした。せめて体を隠すぼろきれ一枚でもあれば良かったのですが、この洞穴にはそれすらないのでした。あるのは満ちては引く水と、土の地面と、それから竜人様と私だけなのです。


「まあ、そんなことは些末な事。皆座れ」

 そして「私は席を外す」と言い残し、竜人様は外へ飛び出していきました。おそらく材料になる肉を獲りに行ったのでしょう。私と三人の殿方は洞穴に取り残されました。

「あれとどうやって知り合った?」

 蛇の御方おんかたが尋ねました。

「あれが一人の女を囲い込むなんぞ、天変地異の前触れか」

「私は単に、食糧として攫われてきたものです」と私は答えました。

「食糧? 嘘だな。あれとあろうものが、三百年もずっと人間の女を生かし続ける理由にしては、あまりに滑稽ではないか」


 三百年。確かに蛇の御方はそう仰いました。私は何度も瞬きをして、その言葉を飲み込みました。あれから三百年も経っている。本当に?


「人魚の肉を食ったろう、女」と、鱗の御方が言いました。「人魚の肉は不死を得る。どれほど望もうとも死ぬことが叶わぬ。寿命も延びるし、若さも保たれる」

「死ぬことが……?」

 私は分からなくなってしまいました。どれが人魚の肉であったのか。なぜ竜人様は人魚の肉を私に食べさせたのか。本当に私は、人魚の肉を食べたのであろうか……?


「人魚の肉を食べさせてまで命長らえさせた女を、むざむざ食うアホウがいるだろうか」と、人間の御方が言いました。あぐらを掻いた両足に手を置いて、炯々けいけいとしたまなざしを向けてくる彼のことを、私は一目で「苦手だ」と感じました。

「いや、いまい。あれはお前を愛しているのだ」


「そんなことは、――」

 私は言い返しました。

「あの方に限ってそんなことはありません。私は食べられるために生きているのです。昔からそう言い聞かされて育ってきました。今も昔も、変わりません」

「あれはこわれて居るぞ」

 人間の御方はにやと笑って言いました。

「あれはひどく矛盾した生き物だ。それでいて、この世のどこにもあれに敵うものは居らぬ。矛盾しているからこそ強くあり、同時に弱くもあるものよ」

「あれの弱点は心臓だ」と鱗の御方が仰いました。「硬い銀の鱗に守られてはいるが、あの鱗を避けて、小刀で一突きすれば一発よ。ねやで試すなら試してみればいい、はは」

 私は真っ赤になって首を横に振りました。


 竜人様が戻っていらしたのはそのすぐあとの事でした。私は渡された生肉の塊を処理することに集中することにしました。三人の殿方に浴びせられた言葉は、次第に私の中で薄れ、肉を捌く小刀の切っ先に消えました。


 薄く削いだ肉を熱い湯の中で泳がせて食べる料理は、私が自力で編み出した肉料理のひとつです。こうすることで灰汁がとれ、肉のうまみだけを残して食べることが出来ます。私はそれを、三名の殿方にそれぞれお出ししました。

「これは、なかなか上品な味わい」と仰ったのは蛇の殿方で、

「もう少し野性味がほしいところ」と唸ったのは鱗の殿方でした。そして。

「これも一緒に食べろということか」と人間の御方が言ったとき、私ははたと気づき、そして慌てました。蛇の御方の椀のなかに、私の長い黒髪が一本、混じり込んでいたのです。


「ああっ! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」

 私は伏して謝りました。しかしかれは長い腕を伸ばして、私の頭にそっと手を置きました。

「おれが言わなければ気づかなかったろう。わざわざ指摘してやったのだ」

 そして、その強い力でもって地面に押しつけてくるのです。私は恐怖しました。

「申し訳ありません……」

 私は、消え入りそうな声でそう繰り返す他ありませんでした。次に出てくるのは「おやめください」という命乞いに違いありませんでした。彼の手は握力が強く、私の頭など一瞬で粉砕してしまいそうなのです。めり込んでくる指に恐怖しながら震えていると、竜人様が私とかれの間に割ってはいってきました。


「私の持ち物に手を出さないでもらいたい、我が知己、人間の英雄、ミコトよ」

「――失礼した。これを躾けるのはお前の役目だね。おれも頭を冷やさねばなるまいよ」


 ぶるぶる震える私を引き寄せて、竜人様は黙って私の頭を抱きました。それを見たミコト様が一言、

「やはり、お前はそれを愛しているのだ、竜人よ」と仰いました。竜人様は何も言わず、ミコト様の、やはり炯々とした、油断のならないまなざしをきつく見つめ返すのでした。



■  ■  ■



「今日も、よく肥るように」

 決まりの台詞とともに渡された生肉を受け取り、私がふと顔を上げると、竜人様は何か外を見て考えている風でした。

「どうなさいましたか」

「いくさの匂いがする」

「いくさ?」

 私にも、その音が聞こえてきました。何か水をかき分けてこちらへ進んでくる音――続けて、火の爆ぜる音も。


「伏せろ!」


 次の瞬間、爆風が洞穴を震わせました。私は言われるがまま伏せ、竜人様は煙の中に立ち、私を庇うように手を広げました。

 そして。私は見るのです。竜人様の、心の臓を貫通した長柄のもりが、彼の体をまっすぐ貫いているのを、見るのです。


「竜人様!」


 竜人様の最後の言葉は、「にげろ」でした。

 私は何も言えず、何も聞こえず、その血まみれの胴に伏して、泣き崩れました。どうしていいか、このあとどうなるか、それよりも、この長い間、ずっと私を食べようとしていた竜人様の死がただ悲しく、悲しく――ついに訊けなかったことを思い返してはそれを涙に換えました。

――どうして私に人魚の肉など食べさせたのです。食べさせていないとして、私はなぜこんなに長らえているのです。どうして。


「ミコト様の仰っていたとおりだ! 女がひとり!」

「竜人は倒れたまま動かず!」

「確保しろ! 傷一つ付けるな!」

「突入!」


 大声がこだまし、私は竜人様から引き離されました。私はあばれ、頭を振り乱し、抵抗しましたが、大男が三人がかりとなれば、もはやなすすべはありませんでした。

 暴れる私の瞳に、あのミコトの炯々としたまなざしが笑むのを見たとき――怒りが爆発して、私を捉えた男の一人に思い切り噛みつきました。

 口の中に入り込んでくるぬるい血が、最初に血の滴る生肉に噛みついたときの事を思い出させました。それは――見かねた竜人様が肉を炙ってくださったときの記憶と重なり、また一筋、涙になってこぼれ落ちました。




 狭く小さな鉄の箱に入れられて数日経ち、私はようやく最初の食事を与えられました。酷くおなかが空いていました。毎日一塊の肉を食していた私の体は、食べ物をもとめてずっと飢えていました。


「お腹が空いたでしょう。食べてください」


 見張りの女性が差し出してきた椀の中に、おいしそうな肉が浮いているのを見たとき、私はすぐに悟りました。私は顔を背け、「いらない」と意思表示をしました。目の奥がひどくあつく、泣き出す前の前兆を感じ取りながらも、私は涙だけは流すまい、この女の前では、と考えていました。しかし。


「お腹が鳴っているじゃない。お腹空いてるんでしょう? 食べて、ソラさん」


 生理的な体の働きを指摘されて、私は唇をかみしめました。

「いらな、いらない、いらない、いらない」

「どうして?」

「たべた、ない、いらない」


 椀の中の肉には――銀色の鱗がついていました。それだけで、もう、充分でした。私に、全てを知らすには、充分だったのでした。


「――主任、対象が食事を拒みます。どうしましょう」

 女性がそこにいない誰かに向かって話しかけているのが分かりました。この数百年で、人間の世界ではなにやら文化が発展して、私の知っているそれとは全く違うものになっていたのでした。

 私は歯を食いしばって、誰も見ていないのに首を横に振り続けました。


「いらない、いらない、いらない」

「……了解しました。……ソラさん。食べてもらわないと困るの。ソラさんには健康でいてもらわないと困るのよ。だからね? 食べて」

 女性は言うやいなや、私の顔を押さえつけ、口をむりやり開かせました。そして、何も言えないで居る私の口に、その匙を突っ込みました。


「――――!」


 口の中に広がる香りと、咀嚼させられる肉からにじみ出る旨み。肉を自分で調理していたときとは全く違う、段違いの食事。私は泣くまいとしていたのに、気づいたら泣くのを止められなくなっていました。


「うう、うえ、うええ、うええええ……」

「おいしいでしょう、もっとあるのよ。沢山食べると思って……」

「うええ、うえええ……」


 胃の腑へ落ちていく肉はあまりに美味でした。それが美味であるほど、私は悲しかったのです。それを吐き出そうとすらしない体が憎かったのです。なのに、空腹の胃に、は美味いのです。


 私は私の統一性がばらばらに毀れるのを感じていました。




了 











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