終章 俺たちの霊魂戦争

 俺の中へ、何かが流れ込んでくる。清らかで温かい、陶然とした気持ちにさせる何かが。


 それでも、俺は目を開けなかった。それが今、唇を重ねているイプシロンの中から俺に流れてくるものだと分かっていたから。


 彼女のものならば、なんでも受け入れられる。


 徐々に、閉ざされていたはずの視界に光が宿った。


 俺の目の前には機織り機がある。俺は手を動かしている。「ああっ!」という叫び声。視線を転じると、そこにはベッドの上で半身を起こしている、包帯姿の黒髪の男がいた。


 俺は男に近寄り、手を取った。男は驚いたような顔をして、鳶色の瞳で見つめてくる。しばらくの沈黙の後、男は言った。


「ペネロペ……? 君は、ペネロペなのか?」


 その言葉を聞いた瞬間、涙で視界がぼやけた。ぼやけた視界は次第にまた色を変え、今度は暗い室内へと移った。


 そこは湯気で満たされていた。俺は薔薇の花が浮かんだ、温かい湯に浸かっている。


 見ると、先ほどの男が立っていた。上半身が包帯で覆われている。俺は男に声を掛けた。


「ウーティス様?」


 俺が湯から立ち上がると、男の顔が一気に赤くなった。それでも俺を呆然と見続けている。


 俺はくしゃみを一つすると、また湯に戻り、男に問いかけた。


「ウーティス様も、どうぞこちらへ……」


 それからは、目まぐるしく光景が入れ替わった。


 男に寄り添って寝る俺。ベッドに横になり、口にマスクを掛けられる俺。書斎で女性の肩を揉んでいる俺。酒を飲んでいる俺。


 いつも俺の傍には、男がいた。ウーティスと俺が呼ぶ男が。


 ああ。ようやく、俺ではない本来の俺は気付いた。


 これは、イプシロンの記憶だ。キルケが言っていたが、濾過器を通さないで霊魂を分与すると、記憶の混濁が起きるらしい。きっと、それが今起こっているのだ。


 突然、またイプシロンの見ているものが切り替わった。


 彼女はどこか白い清潔な室内にいて、ベッドに横になっている。彼女は起き上がって、銀貨六枚をもてあそんでいる。銀貨を投げる。ヘキサグラムを見る。声を出す。


「……大丈夫。きっとまた会えるわ、ウーティスに。いえ、私はウーティスに会わなければならない。でも、私に残された時間は少ない。そのための方法は、どうやったら……」


 その声に、俺は聞き覚えがあった。しかし、どうしても誰であるかが分からない。


 俺が懸命に思い出そうとしていると、部屋の扉が開いて女性が入ってきた。黒いスーツに白衣。美しく艶のある長い髪。彼女は微笑みながら言った。


「また占いをしていたの? あなたは本当に占いが好きね。そうだ、私にもその銀貨占いを教えてくれないかしら」


 イプシロンは、イプシロンではない声で答えた。


「キルケ、あなたは魔女なのに占いも知らないの? トロイアの魔女は私たちの想像する魔女とはだいぶ違うみたいね。良いわ、教えてあげる。でも私は厳しい先生よ、覚悟してね」

「厳しい先生、望むところよ。さあ、私に未知なる世界を教えてちょうだい」

「未知なる世界……そうだ。なら、占いと交換というわけじゃないけど、私に霊魂について教えてくれないかしら? 私、今、すごく霊魂に興味があるの……良い?」

「もちろん。でも、私も厳しい先生だから覚悟してね……」


 また光景が変わる。


 先ほどと同じように、イプシロンはベッドに横になっている。口には人工呼吸器がつけられていて、全身に管が繋がれている。イプシロンは頭すら動かすことができないようだった。


 彼女は魔石ラジオに耳を傾けている。


「……党中央委員会の声明によると、我が軍は海の民の熾烈なる攻勢に柔軟に対応し、戦線を整理することに成功しました。軍は第四十一都市を要塞として戦力を集中し、海の民への激烈なる反撃を計画しております。アイネイアス将軍は放送局の質問に対し、『聖なるスカマンドロス川を敵軍に渡らせるわけにはいかない。我が軍は死力を尽くして第四十一都市を砦として敵を食い止めるであろう』と答えました……」


 扉が開く。入ってきたのは、またあの黒髪の女性、キルケだった。


「あら、起きていたの? でも、敵国の無味乾燥なラジオ放送なんて聞いても面白くないんじゃないかしら」


 イプシロンは僅かに首を揺らした。キルケは笑いながら口を開いた。


「そうだ、ラジオの代わりに私が占いをしてあげましょう。私も最近上達してきたのよ。研究のヒントなんか占いで得ちゃったりしてね。そうね、何を占おうかしら……」


 ぐんと吸い込まれるような感覚がした。


 イプシロンと、イプシロンの記憶を見ている俺は、闇の深淵の奥底を突き抜けて、また急上昇し、何度も急加速と急減速を繰り返しながら、どこか遠い所へ辿り着いた。


 そこは見覚えのある場所だった。木製の遊具、けばけばしい電飾、子どもたちの歓声、居並ぶ食べ物の屋台。


 イプシロンは遊園地にいた。こころなしか視界が低くなっている。彼女は固く腕組みをしていて、走り去っていく男の子たちを眺めている。


「俺と一緒に遊ばないか?」


 声がした方へ視線を向けると、そこには暗緑色のシャツに、黒い半ズボンを着た男の子がいた。短く刈り込まれた黒髪、細身の体。でも目つきが年齢不相応に鋭い。怖い、という気持ちが湧き起こる。


 だが、男の子はこちらのそんな気持ちも知らないで、なおもぶっきらぼうに言葉を投げかけてくる。


「どうなんだ? 早くしないと一日が終わるぞ」


 ついて行っても良い。でも、占いによると私が今日遊ぶ人は「誰でもない」はずだし……口からしどろもどろに言葉が出てくる。


 男の子は組んでいた腕を強引に振りほどいて、手を取って言った。


「ほら、ついてきてくれ。どのみち今日は二人一組で行動しなければならないのだから……」


 それを聞いて、胸が熱くなるのを感じた。どくどくと、心臓が高鳴っている。それに戸惑ってしまって、男の子の手を払いのけようとした。しかし、男の子は放さない……


 いつの間にか、目の前で、男の子は今にも崩れ出してしまいそうな顔をしていた。イプシロンは、男の子に言った。


「だから、その時が来るまで、一緒にいさせて。私、人間に戻ったあなたを、見てみたいから……」


 優しい人。素直で、兵士なのに憎しみから遠い人。この人が人間に戻れるなら、なんでもしてあげたい。自分の命だって、惜しくはない……そんな思いが胸を満たした。


 ΝΣが最大出力を発揮する時に立てるような、甲高い機械音が耳を貫いた。


 イプシロンと俺は、また別の風景の中を歩いていた。視界はまた高くなっている。


 暗い街中、蹄の音を立てて四輪馬車が傍らの車道を走っていく。誰かと寄り添いながら歩いている。


 筋肉質な固くて太い腕にしがみつくようにして、空気に溶け込ませるように言葉を紡いだ。


「ウーティス、幸せになってね。あなたは輝く霊魂を持った人間なんだから、たくさん苦しんで、それ以上にたくさん幸せになってね。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、それを全部忘れちゃうくらい、たくさん幸せになってね……」


 一瞬の暗転の後、イプシロンは暗い一室にいた。彼女は床に崩れ落ちて、泣いていた。


「ウーティス、私、やっぱり生きたい……あなたと一緒に生きて、あなたと一緒に幸せになりたいよ……人間に戻ったあなたと一緒に……もっと生きたい……でも、死を超越する方法なんて、この世のどこにもない……」



☆☆☆



「そこまでよ!」


 女性が強い口調で叫ぶ声に、俺の意識は現世へと無理やり帰還させられた。


 俺の腕の中にはイプシロンがいて、ぴったりと瞼を閉じている。俺が目を覚ましてから数秒もせずに、彼女もまた目を開けた。


 蒼い瞳が俺を見ている。それは、ペネロペの目とまったく同じだった。イプシロンとは対照的な、晴れ渡る夏空のような蒼さを湛えている。


 清水が岩の割れ目から湧きだすように、彼女の目に涙が溢れてきた。イプシロンは消え入りそうな声で言った。


「ウーティス……私、また、あなたと一緒に……」


 その一言だけを言うと、彼女は沈黙した。次第に、彼女の蒼い目が濃さを増し、真紅へと色を変えていく。


 元の瞳に戻ると、イプシロンは目を閉じて、ぐったりと体から力を抜いた。


 俺は、崩れ落ちそうになる彼女を支えると、今度は横抱きにして抱き上げた。


 イプシロンを抱きながら、俺はキルケの方を見やった。彼女は静かに頷いた。


「ウーティス、ご苦労様。術は成功したわ。あなたの霊魂は余すところなくΕ-2号の中へ注ぎこまれたわ。今は気を失っているけど、もう大丈夫。目覚めた時には、魔法を行使できるようになっているはずよ。それはそうと、その表情。あなた、見たのね? Ε-2号の霊魂の記憶を。Ε-2号本人ですら知らない、霊魂の深奥に隠された記憶を」


 俺はそれに答えようとしたが、その途端に急に全身から力が抜けるのを感じた。辛うじてイプシロンを落としてしまうのは避けられたが、床に片膝をついてしまった。


 スキュラが駆け寄ってきて、俺の手からイプシロンを受け取る。


「あなた、休んだ方が良いですわ。顔色がとても悪いし、それに髪も真っ白になっちゃって……イーちゃんはわたくしが横にしておきますから、お母様と続きをお話ししなさい」


 スキュラはイプシロンを寝袋の上にそっと横たわらせた。イプシロンは安らかな寝息を立てている。


 俺がキルケの傍にふらつく足で近寄ると、彼女は床へ腰を下ろし、あぐらを組んだ。酒のボトルを手に取ると、まず自分でラッパ飲みし、次に俺へ突き出した。


「ほら、飲みなさい。気付け薬ってやつよ。本当はすぐにでも休んでもらいたいところだけど、事情を説明してあげないとあなた眠れないでしょう?」

「ああ」


 ひんやりとしたボトルを口にあてがい、俺は酒を喉へと流し込む。妙にボトルが重く感じられた。


 俺が飲み終えるのを見てから、キルケは言った。


「さて、まずあなたの方から訊きたいことは?」


 俺はしばらく黙った。本当に口にすべきことなのか、なぜか躊躇いが生まれていた。


 しかしそれも数十秒の間に消え失せて、俺は一つの問いを口にしていた。


「イプシロンは……いや、彼女は、ペネロペなのか?」


 だが、彼女は俺が十五歳の頃に死んでしまって、遺体は海洋へと旅立ったはずだ。


 混乱する俺を余所に、キルケは俺から酒瓶を受け取ると、また酒を煽った。口をぐいっと拭うと、シガレットケースからタバコを取り出す。


「最後の一本になっちゃったわね。まあ良いわ。あなたの問いに対する答えだけど、それは『ナイイエス』でもあり、『オーヒノー』でもある。Ε-2号の霊魂の中核には、あなたの知っているペネロペその人の霊魂があるわ。それに私が合成した数種類の人工霊魂が組み合わさっている」

「それは、ペネロペには違いないのではないか?」


 俺の疑問に、彼女は静かに首を横に振った。


「いいえ、違うのよ。ペネロペは死んでしまったの。今のΕ-2号は、ペネロペの霊魂を持ちつつも、ペネロペとはまったく別の存在。ペネロペは死んで、Ε-2号として生まれ変わった、と言えば分かるかしら」


 黙り込んでしまった俺に、キルケは優しい目を向けて語り続けた。


「ペネロペと出会ったのは、もう二年前になるかしら。あなたたち海の民がトロイアの大地を踏んだ、その直後の頃よ。私の元へ一人の女の子が送られてきた。女の子は海の民の小国イタケー出身で、重い心臓病を患っていた上に、多臓器不全まで併発していた。私のところに来た時には、もう共和国に来てから一年以上が経っていた。イタケーの政治幹部である父親は、海の民の医療技術では娘の病気を治せないのを知って、密かに敵国であるトロイアへ娘を送ったの。先進的な医療技術を有するトロイアなら、きっと治すことができるはずと信じて……」


 煙草を深く吸い、俺の顔に煙がかからないように吐き出すと、彼女はまた話し始めた。


「でも、治療は難航したわ。ペネロペの病気は先天性のもので、代替となる臓器を作成するには技術的にも時間がかかった。そうこうしているうちに戦争が勃発して、彼女の治療は打ち切られたの。敵国の人間へ資源を使うわけにはいかないということでね。政治的な人質とするという意見もあったみたいだけど、それも退けられてしまった」

「なぜあなたのところへ、ペネロペは送られたんだ」


 キルケは床に煙草を押し付けて、火を揉み消した。


「研究資料としてよ。霊魂研究に役立たせるための。トロイア人と比べて、海の民の霊魂は純度が高い。質が格段に良いのよ。わけてもペネロペの霊魂は非常に良いものだった。そう、あなたと同じくらいにね。同じ海の民と比べても、これ以上はないと言えるほどだった」


 当時のことを思い出すように、彼女は遠い目をした。


「ペネロペはとても良い子だったわ。病気にめげずに毎日を一生懸命に生きていて、占いが上手な子だった。名前は言わなかったんだけど、大好きだった男の子がいたみたいで、私にしょっちゅうその話をしてくれたわ。初めは単なる研究資料だと思って、いえ、強いてそう思い込もうとしながら接していた私も、だんだん彼女の明るさに感化されていった。私たちは友達になったわ。研究の合間を縫って私は彼女の病室を訪ねて霊魂の話をしてあげた。彼女は私に占いについて教えてくれた。本当に楽しい日々だったわ」


 脚の間に置いた酒のボトルを持ち上げると、また彼女は中身を飲もうとし、もう残っていないことに気付いて、手をやって遠くの方へ転がしてしまった。


「彼女の病気は次第に悪化していった。そのうち、寝たきりになってしまったわ。私もその頃科学委員に任命されて、仕事に忙殺されていた。それで、あの日が来たのよ。私が反体制的な主張を指導者にぶつけて、首都から追い出されてしまったその日が」


 彼女は、スキュラが飲んでいたボトルへ手を伸ばした。


「失意のどん底にあった私は、ふとペネロペに会いに行こうと思ったの。彼女に会うと、どんなに荒んだ気持ちでも浄化してもらえる。それに、占いでも『今日はペネロペに会わなければならない』と出ていたしね。病室に行くと、彼女は珍しく起きていたわ。聡い彼女は、私の表情を見て何かを察したのね。目線で机を指し示したの。その引き出しの中に、手紙が入っていたわ。まだ彼女が寝たきりになる前に書いた手紙だと思う」

「何が書いてあったんだ」


 キルケは酒をラッパ飲みすると、俺にボトルを押し付けた。


「ほら、遠慮せずに飲みなさい。彼女は、意のままにならない手を懸命に動かして書いたのでしょうね。手紙には短くこう書いてあったわ。『死を超えてまで、私の霊魂は願う。生まれ変わっても、また誰でもない人と会いたい』とね。私にはその時、『誰でもない人』の意味が分からなかった。でも、彼女が生まれ変わりたいと望んでいるのは分かったわ。私の研究成果を応用すれば、ペネロペの霊魂を新たな肉体に移すことは可能だった。でも、私は躊躇した。人工霊魂ならばいざ知らず、人間の霊魂を好きに弄んでも良いのか。それは怪物を生み出すのとまったく同じではないか、ってね……」


 俺もボトルを傾けた。手が震えるのは疲労のせいだけではあるまい。


 彼女は言葉を続けた。


「迷いながら病室を後にして、私は帰ったわ。その深夜、親しくしているスタッフから電話が入ったの。ペネロペが亡くなったって。その瞬間、私は駆け出していたわ。自分でも説明できない思いに掻き立てられて……すぐに彼女の病室に辿り着くと、ベッドに横たわっている彼女の遺体に魔法をかけて、まだ肉体に留まっていた彼女の霊魂を回収したの。黄金に光り輝く彼女の霊魂は、肉体が死しても未だにこの世に踏みとどまっていた。まるで、私が来るのを待っていたように」


 彼女は白衣のポケットをまさぐると、シガレットケースを取り出し、もう一本も残っていないことを思い出して、それを向こうへ投げ捨ててしまった。


 甲高い金属音が鳴り響いた。音が止むと、キルケは口を開いた。


「……後は、ペネロペの霊魂を核にして、私が合成した人工霊魂と戦略魔法行使のための術式を組み込んだ。それをエンテレケイア・アルファ2型という容器に入れた。そして、スキュラも連れて、この世に生まれたばかりのΕ-2号と一緒にここへ来たのよ」


 キルケは、ふぅと溜息をついた。


「それにしても、なんて偶然なのかしら。私が森で回収したあなたが、ペネロペの言う『誰でもない人』その人だったなんて。思えば、あの森へ行けと示したのもペネロペが教えてくれた占いだったわね。だったら、あれは偶然ではなくて、ペネロペとあなたの二人の魂が互いに空間を超えて求め合った、必然的な結果だったのかもしれないわ……」


 しばらくの沈黙の後、彼女は俺の目を見つめ、意を決したように言った。


「これで話はおしまい。前に『非常手段』と言った意味、分かったでしょう? 私は自分の研究を継続するために、あなたが愛したペネロペを利用した。ガッカリしたでしょう?」

「いや」


 俺は首を左右に振った。その時俺の中で怒涛のように波打っていたのは、高揚感とも歓喜とも似ている、曰く形容しがたい昂ぶりだった。


「ありがとう、キルケ。ペネロペの霊魂をこの世に留めてくれて。ペネロペの願いを聞いてくれて。それだけで、俺はまた生きていくことができる。イプシロンと一緒に、幸せになるために戦い続けることができるよ」


 長い間忘れ果てていた温かい感情が、俺の目から零れ落ちているのが分かった。


「俺は今まで、イプシロンを人間にするために自分の霊魂を分けているのだと思っていた。セメイオンの兵隊人形に過ぎないこの俺が、イプシロンを人間にする。そんなことが本当に可能なのかと思っていた。だが、それは俺の思い違いだった」


 キルケはじっと俺を見つめている。


「俺は、俺の霊魂を分けることで、逆に俺自身が人間になっていったんだ。俺は、イプシロンのおかげで、ついに人間に戻ることができた。ペネロペは、かつて俺を人間に戻してくれようとした。彼女は、イプシロンとして生まれ変わってまで、俺をまた人間に戻してくれようとしていたんだ。彼女の霊魂はその願いを覚えていて、戦場で死のうとしていた俺を引き寄せたんだろう」


 自然と、俺の顔に笑みが浮かんだ。


「今、俺は死を超越したペネロペの願いを知った。その強さを知った。だから、はっきりと言えるよ。俺はもう人形ではなく、一人の人間なのだと……」


 視界は涙で濡れて曖昧になっていて、もう目前のキルケの顔すら見えない。それでも、彼女が涙ぐんでいるのがはっきりと分かった。


「ウーティス……あなた、笑えたのね。それに、涙まで流している。とても美しいわ、あなたの霊魂と同じくらい……」


 突然、俺は意識が遠のくのを感じた。とうの昔に疲労のピークを超えていたらしい。


「俺は寝る。すまないが、イプシロンの傍に寝かせてくれ。頼む」

「分かったわ。ねえスキュラ、ちょっとウーティスを運んでくれないかしら……」


 キルケの言葉は最後まで聞こえなかった。


 俺は、生まれて初めて覚える充足感に満ち満ちて、深い眠りに落ちた。



☆☆☆


 

 朝が来た。指薔薇色の暁の女神が世界を支配する理に従って、恥じらいながらしずしずとこの世へ姿を現す。


 この格納庫からは見えないが、アプロス山脈の山の端は美しい緋色を纏っているだろう。


「Ε-2号、準備は良いかしら?」

「いつでも大丈夫です、お母様」


 キルケの言葉に、アイギスのハッチから顔を出したイプシロンが答える。


 いつも通りの無表情だが、その顔は神々しいばかりに輝いていて、強い自信と充溢する気力を帯びている。


「イーちゃん、しっかりとお願いね! イーちゃんなら楽勝よ!」

「はい、お姉様」


 スキュラに返事をした後、イプシロンは俺へと目を転じた。


 見つめ合う俺たちに、それ以上の言葉はいらなかった。彼女はハッチを閉じて、アイギスの中へ姿を消した。


「ちょっと、何か言ってあげても良かったのではなくて?」


 肘で脇腹を突いてくるスキュラに、俺は微笑みながら言った。


「霊魂で繋がれた仲だ。言葉は必要ない」


 スキュラは軽く鼻を鳴らした。彼女の目の下には徹夜の作業のせいで大きな隈ができていた。だが犬耳は上機嫌そうにピコピコと動いている。


「なんともまあ、良い顔をしておりますこと」


 アイギスが一連の起動シークエンスを終えて、直立したちょうどその時だった。外から拡声器の声が響いてきた。将軍のものとは違う、粗野な声だった。


「時間だ! ただちに格納庫のシャッターを開けて出てこい! 武器は手にするな! もし武器を持っていたら銃撃する!」


 スキュラが操作盤へと手を伸ばしながら、ごく軽い口調で言った。


「はいはい、そんなバカみたいに大きな声を出さなくても、今開けてさしあげますわ。ほら、ボタンをポチっとな、レバーをガシャっとな」


 駆動音と共に、鋼鉄製のシャッターが徐々に上へと格納されていく。完全に開ききったのを見計らって、キルケが魔法を用いて声を外へ届けた。


「どうぞ、中へいらして下さい。私たちはお待ちしておりますわ」


 ざわめきは聞こえてこなかった。だが、予想外の魔女の言葉に困惑しているのであろうことは容易に推測できた。


「どうする? 奴らが一気に突入してきて、俺たちを捕縛するようなことをしたら」

「大丈夫よ。アイネイアス将軍は絶対にそんなことをしないわ。彼は威儀を正して私の前に来るはず。そこがねらい目なのよ。賭けではあるけど、勝率の高い賭けよ」


 十分ほど経ってから拡声器が響いた。


「良いだろう! アイネイアス将軍が自らそこへ行く! 待っていろ!」


 そして、ぞろぞろと一隊の兵士たちが格納庫へなだれ込んできた。


 緊張した面持ちをして、着剣した小銃や黒い軍用魔術杖を構えている。直立しているアイギスを見るや、兵士たちは警戒して取り囲み、油断のない目つきで武器を向けた。


 その兵士たちを掻き分けるようにして、真ん中を一人の長身の男が歩いてきた。


 逆光を背負い、黒いマントを羽織っていて、煌びやかな軍服に身を包んだ彼はまさに威風堂々といったところだった。


 端整な顔立ちに金髪のその男こそ、アイネイアス将軍に間違いなかった。俺たちを拘束しようと駆け出した兵士たちを、彼は手で制した。


 キルケは小声で俺に言った。


「ねっ? 言ったとおりでしょ?」


 驚いたことに、将軍の後ろにはアスカニオスがいた。顔色が悪く、右腕を三角巾で吊っており、白い軍服は血と泥で汚れていたが、凛として煌びやかな雰囲気は父親にも劣らない。


 だが、彼は黙っていた。黙って俺を見つめていた。


 アスカニオスの隣に、陰険な顔をした男が立っているのに俺は気づいた。男は右腕に緑色の腕章を巻き、政治委員の制服を身に纏っていた。


 アイネイアス将軍は低く渋い、よく通る声で言った。


「魔女キルケよ。半月ほど前に森でお会いして以来ですな。あの時からなんという運命の変転、ご同情申し上げます。それにしても見事なる勇戦敢闘ぶり、まことに感嘆の念を深くしております。我が戦隊は全力を上げてお屋敷を攻撃しましたが、これほどまでの苦戦を強いられるとはまったく予想外でした。愛する兵士たちを失い、頼みとする巨人は討たれ、我が息子も乗機を撃破され、重傷を負いました。ですが、そのことに関して私はまったく恨みに思ってはおりません。どうぞこちらへ来てください。貴女と貴女の部下は、私が責任を持って首都へ送り届けましょう」


 キルケはにっこりと笑みを浮かべた。将軍も笑みを返した。


 彼女は胸を張って答えた。


「高名なる共和国の英雄にして旧王家の正当なる後継者であるアイネイアス将軍にご厚情を賜り、まことに恐縮ですわ。そこで一つ、私からお礼を差し上げたく思います」


 彼女は短く叫んだ。


「Ε-2号、やってちょうだい!」

「はい!」


 その瞬間、アイギスが眩いばかりの白い光を放って輝き始めた。


 太陽の光よりも強く月光よりも冷たいその光は、瞬く間に格納庫全体を包み込んだ。さらに光は範囲を拡げて、遠くへ遠くへと腕を伸ばしていく。


「う、撃てぇ!」


 兵士たちが一斉に銃と魔法を乱射する。


 しかし、豪雨のごとく放たれた弾丸と魔力弾は一つとしてアイギスの機体に到達しなかった。見えない壁に阻まれたように空中で静止すると、推進力を失って、バラバラと音を立てて落下し、あるいは雲散霧消する。


 キルケが歌うように呟く。


「神話によると、父なる神ゼウスは灰色の瞳輝く姫神アテナに一つの武具を与えた。その名はアイギス。アイギスは無敵の盾としてありとあらゆる邪悪と災厄を払いのける力を持っていた。あと、もう一つ力があって、それは……」


 見る間に、事態が一変した。


 アイネイアス将軍は顔面を蒼白にし、口の端から唾液を垂らしつつ、満身をわななかせながら床に片膝をついた。アスカニオスも蹲っている。政治委員の男も、他の兵士たちもまったく同じようになって、一斉に崩れ落ちた。


「その力は、敵対者に恐怖を呼び起こす。霊魂の奥底に干渉して、心身を凍り付かせる恐怖をもたらすのよ。神々がまだ世界を支配していた頃に人間に染み付いた、絶対的超越者に対する根源的恐怖をね」


 ひゅっ、と音がした。ひゅっ、ひゅっ、と、また同じような音が続く。それは、兵士たちの喉から声にならない悲鳴が絞り出されたものだった。


「恐れを忘れ、死の予感を押し殺して初めて兵士たちは戦場に立てる。その恐怖を、強制的に引き起こす。これがΕ-2号の魔法。戦わずして敵から完全に戦意を奪う、『フォボス恐怖』よ」


 恐慌。戦場でどれだけ過酷な目に遭っても決して共和国の兵士たちが覚えることがなかった原始的な感情が、一瞬にして彼らの中に蔓延した。


 ついに、アイネイアス将軍が叫び出した。


「ヒッ、ヒィッ、ヒィイイイッ!!」


 彼は足を縺れさせながら立ち上がると、背中を見せて逃げ出し始めた。


 政治委員の男が、それに続いた。


「アッ、アアフッ、ホゲェエエエエエッ!!」


 兵士たちの全員が彼に続いた。彼らは銃と杖を放り出し、装備を投げ捨てて、あたかも格納庫が魔物の巣窟であるかのように、脇目も振らずに逃走を開始した。


「うわっ、すごい効果……我ながら惚れ惚れする威力ね……って、あら?」


 だが、周りの者たちが逃げたにもかかわらず、アスカニオスだけはその場になんとか留まっていた。彼は、恐怖で歪みそうになる顔に強いて笑顔を浮かべて、俺たちに話しかけた。


「まったく、姉さんはとんでもないものを作り上げたなぁ……この恐怖心、この叫び出したくなるような精神的恐慌、どんなに優れた戦士でも耐えられないだろうね。これだけの魔法なら、あの禿げた指導者にも何とか言い訳が立つよ。私たちに落ち度はなかったとね。政治委員という証人もいるし」


 キルケは微笑みながら答えた。


「アスカニオス、あなたも大したものね。とっくに逃げ出していてもおかしくないのに」


 アスカニオスはふらつきながらも、話すことをやめない。


「……姉さん。私たちの戦隊を退けた姉さんは、指導者にとって今や最大の敵になった。これから姉さんは、政府から追われ続けることになると思う。姉さんの持つ力はいまや絶大なものとなったけれど、はたして国家そのものを敵に回して生きていけるか……心配だ、とても」


 キルケは笑い声を上げた。


「あらまあ、心配してもらえるなんて。ありがとう。でも、それは要らない心配でもあるわ。今の私には、もっと強い、別の力があるから」

「それは何ですか?」


 キルケは穏やかな視線をアスカニオスに向けて、きっぱりと答えた。


「希望よ。明るい未来を精一杯生きるという希望が今、私の霊魂をきらめかせている。さあアスカニオス、もう行きなさい。これ以上はあなたの体に障るわ。お父さんによろしくね」

「はい、姉さん。ではこれで失礼します」


 アスカニオスは頷くと、俺を見て口を開いた。


「ウーティス君、君もどうか元気で。再戦の機会を楽しみにしているよ」


 そして、強い決意を込めて、最後に一言を付け足した。


「次は絶対に負けない」


 そう言うと、アスカニオスは限界を迎えたのだろう、表情を強張らせるとこちらに背を向けて、全速力で走り去った。


 俺は、そんなアスカニオスを見て、何か温かい感情を覚えた。


 それに名前をつけるなら、たぶん、友情が最も近い言葉かもしれない。昨日は殺し合いをしていたのに。


 去りゆくアスカニオスを眺めながら、俺はキルケに尋ねていた。


「この魔法だが、効果範囲はどれくらいあるんだ?」


 俺の問いに、キルケはにやりと笑って答えた。


「計画では半径百二十五スタディア。一つの戦区、一つの都市を丸ごと恐慌状態にすることが可能よ。でもこの様子を見るともっと遠くへ効力が及んでいそうね。少なくとも、ここを囲んでいた敵の全員が、今は恐怖に駆られて走り出しているでしょうね」

「効果の持続時間は?」


 キルケは、アイネイアス将軍が逃げ去る時に落としていった何かを拾い上げた。豪華な意匠の金無垢のシガレットケースだった。


 彼女はそれを開けると、中からシガレットを一本取り出し、火を点けて悠然と一服した。


「ふう……流石は将軍ね、良い煙草だわ。持続時間は二週間よ。首都に逃げ帰ってお家のベッドに飛び込んでも、彼らから恐怖の感情が消え去るのにはなお時間がかかる」


 その時、アイギスの発動機がボンボンという異音を立てた。背面の排気孔から、混合濃縮エーテル液が不完全燃焼する、赤い煙が盛んに噴出している。


 スキュラが慌てたように叫んだ。


「イーちゃん!? 大丈夫!?」


 イプシロンがハッチを開けて顔を出した。


「動力部機能不全。魔力炉に想定以上の負荷がかかったようです」


 彼女の淡々とした報告に、キルケが頷いた。


「まあ、試作機にしては良くもった方だわ。スキュラが丹精込めて作り上げた甲斐があったわね。もう良いわ、Ε-2号。出てらっしゃい」


 機体から出てくるイプシロンを尻目に、キルケは俺に言った。


「さあ、私たちも逃げましょう」

「逃げよう。でも、どこへ?」


 俺が問うと、キルケは晴れやかな笑顔を浮かべた。


「もちろん、幸せを探せる場所よ!」



☆☆☆


 

 数時間後、俺たちは車に揺られて街道を西へと走っていた。


 運転しているのはスキュラだ。助手席にはキルケがいて、俺とイプシロンは後部座席に座っている。


 俺はイプシロンに膝枕をしてもらっていた。


 体にはやわらかな薄紅色の織布がかかっている。イプシロンが機織り機で作ったものだ。彼女は俺の頭を優しく撫でている。


 突然、キルケがいかにも残念そうな口調で言った。


「あーあ! やむを得ないことだったとはいえ、あれを残してきたのは心残りだわ!」

「研究資料のことか?」


 俺がそう言うと、彼女はダッシュボードを握り拳でトントンと軽く叩いた。


「馬鹿言ってもらっちゃ困るわ。研究資料なんてなくても、私は私の研究をすべて記憶している。生まれ変わっても覚えているくらい、霊魂に刻み込んでいるのだから。そうじゃなくてね、書斎の戸棚に入れておいた蒸留酒のコレクションよ。あれ、今では手に入らない年代物もたくさんあったのよね……」


 スキュラがハンドルをポンポンと手で打つ。


「わたくしはせっかくのΝΣコレクションがパーになりましたわ。アイギスも捨ててこざるを得なかったし……」

「お姉様、ごめんなさい」


 あの後、アイギスはどうしても動かなかった。


 イプシロンの魔法をアシストするための人形は、任務を完遂してから機能を停止してしまったのだった。


 俺たちは弾薬庫からありったけの爆薬を持ち出して、アイギスを格納庫ごと爆破処分した。


「謝ることなんかないわ、イーちゃん! わたくしだって機械には詳しいんですもの、お母様ほどではないけど、一から機体を作り直すくらいどうってことはないですわ」

「ちょっと、お金はどうするのよ。そのためのお金は」

「そんなのお母様が調達すれば良いでしょう! これから行くところにはお母様の熱心な協力者がいるんでしょう? その人に頼めば一発ですわ!」

「まったく、他人事みたいに言っちゃってまあ……」


 二人の会話を聞きながら、俺はイプシロンに言った。


「新しい場所で、キルケは新しい酒のコレクションを、スキュラは新しい機体を。じゃあイプシロン、君は何をしたい?」


 イプシロンは、無表情の上に微かに笑みを浮かべている。


「ウーティス様と、新しい記憶を見つけたいです」


 俺も笑い返して、こう言った。


「じゃあその手始めに、二人で占いをしてみようか。俺たちがこれからどうなるか。俺がコインを投げるから、二人でその結果を同時に口に出そう、良いね?」


 俺は狭い車内で、六枚のコインを次々と投げた。


 いつもならば、その結果であるヘキサグラムについて正確に解釈することはできないが、今だけははっきりとそれが読み取れた。


「これは……」


 俺は、イプシロンを見た。彼女の真紅の瞳が、喜びに輝いている。


 イプシロンは、俺の言おうとしたこととまったく同じことを口にした。


「ウーティス様は今後も幾多の困難に見舞われますが、最終的に長寿に恵まれ、愛する人と家族になり、たくさんの幸せを得られることでしょう」


 俺は、それに言葉を足した。


「その愛する人というのは、イプシロン、君のことだね。でも、本当にそんなに幸せに満ちた、素晴らしい人生が待っているのかな?」


 イプシロンは、ここで初めてにっこりと笑ってくれた。


 それは春の日の光のように穏やかで、幸せに満ちた笑顔だった。


「もちろんです。だって、これからはずっと、ウーティス様には私がいて、私にはウーティス様がいるのですから」




 一つの戦いが終わった。失ったものもあったが、得たもののほうが遥かに大きい。


 これから俺は人形ではなく、人間として生きていく。愛するイプシロンと共に。


 これからも俺たちは戦い続けるだろう。イプシロンと一緒に幸せになるために、俺と彼女の霊魂を、ますます輝かせるために。


 俺たちの霊魂戦争プシコマキアが、これから始まるのだ!


(『人形たちの霊魂戦争——プシコマキア』おわり)

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人形たちの霊魂戦争——プシコマキア ほいれんで・くー @Heulende_Kuh

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