第六章 対峙する時が来た

 平穏な日常は突如として破られた。俺がつかの間味わうことができた安らかで光に満ちた生活は、「敵」の襲来によって脆くも終わりを告げた。


 そして、この戦いを号砲として、真なる意味での「霊魂戦争プシコマキア」がついに開幕することになるだろう。


 スキュラが大騒ぎをしながら帰ってきた後、俺は格納庫のΝΣ124型に搭乗して、周囲の状況の確認に出た。


 キルケに請われたからというわけではなかった。敵という言葉を聞いた時には、俺は既に格納庫へ向かって走り出していて、頭脳は次に為すべき行動について考え始めていた。


 まずは偵察だ。襲来する敵の規模は? 装備は? 展開状況は?


 ふと、俺はあのトロイア第四十一都市で白い化け物と戦闘した時のことを思い出していた。


 あの時と比べて、何という運命の変転を味わってきたことだろう。だが、やるべきことは変わらない。


 外部視察装置から見える屋敷正面の平原には、続々と敵が集まりつつあった。雨で視界は悪かったが、歩兵と車両と、それに魔力戦車が整然と隊形を組んでいるのが見えた。


 敵は、間違いなくトロイア共和国軍だ。彼らは一定の線を越えて来ない。


 どうやら、地雷の存在はとっくの昔に露見していたようだ。工兵が来れば半日も経たずに除去されてしまうだろう。


 その時、ヘッドホンからノイズまじりの女性の声が聞こえてきた。それはキルケだった。


「ウーティス、何が見えるかしら?」


 敵襲を受けて取り乱しているものとも思っていたが、その声は案外落ち着いていた。俺は咽喉マイクを押えながら答えた。


「屋敷正面に戦車を伴った歩兵が二百ほど確認できる。後続も来るようだ。地雷原には一歩も踏み込んでいない。どうやらバレているな」

「分かったわ。ついでにお願いするのだけど、他の方向も確認してくれないかしら。たぶんどこもかしこも囲まれていると思うけど。あと、言わずもがななこととは思うけど、こちらから発砲しちゃダメよ」


 俺は機体を移動させた。エンジンと発電機とモーターの耳障りな駆動音に優しい雨風の音が唱和する。


 機体に乗っていなかったのはせいぜい半月ほどのはずなのに、俺は何故かとても懐かしい気持ちになっていた。


 ΝΣは俺の第二の身体のように、よく言うことを聞いてくれている。戦いから一時離れていても、俺の肉体は戦いを決して忘れていなかった。


 周囲の状況も正面と似たようなものだった。一方向だけ、アプロス山脈に面した屋敷裏手には何もいないように思われたが、しかしこれは却ってあからさまに敵の意図を示していた。


 包囲する時は、一点だけあえて薄くしておくものだ。それが戦術的な常識である。きっと、兵が隠れているだろう。


 またヘッドホンが音声を伝えてきた。


「ウーティス、もう良いわ。一度帰ってきてちょうだい。彼ら、すぐには攻めてこないはずよ。それに、あなたには大事な話をしなければならないし……」


 格納庫へΝΣを収めると、俺は待っていてくれたイプシロンと共に屋敷へ向かった。


「スキュラはどうしたんだ?」

「お母様のところへ先に行っています」


 そうか、だからキルケがすぐに俺の機体に通信を繋げることができたのだろう。そう思いつつ、俺は足を早めた。


 イプシロンも無言でついてくる。もう俺たちは傘を差していない。雨でしとどに濡れながら、庭園を抜けて屋敷のエントランスへ入った。


 キルケの書斎に行くと、彼女はいつもの黒いスーツに白衣という姿で、煙草をふかしながら俺たちを待っていた。


 その表情はいささか強張っていて、青ざめているようにも見えた。スキュラの姿はなかった。


「スキュラには正面の道を見てもらっているわ。私の予想通りなら、そろそろ使者が来るはず。それより、あなたたち濡れているじゃない。暖炉で服を乾かしたら?」

「いや、良い。それよりも、いい加減教えてくれ。なんでこんなことになったのかを。大方、予想はついているが」


 彼女は目で俺たちにソファーへかけるように促した。俺とイプシロンが座ると、彼女は部屋の中を歩き回りながら語り始めた。


「……前にアスカニオスは私に言ったわね? 『姉さんはあの時、指導者様に正しいことを言った。それゆえ憎まれている』と。その通り。私は、私が正しいと信じることを言って、そして憎まれたわ。いえ、今も強く憎まれているのね。でなければ、こうして彼らが来ることもなかったはずだし……」


 俺は静かに話を聞いていた。彼女の語りは少々迂遠だったが、それは彼女自身何を話すべきか思考を巡らせているためだと思われた。


 キルケは話を続けた。


「この世には限られた資源しかなくて、それをどう分配して扱っていくかについて常に論争が生じる。あの禿げ頭の最高指導者は、資源と生産手段を国家が一元的に管理することで、経済システムを計画化することを図った。資源に関する論争は、戦争では特に顕著ね。資源をどう使えば敵に大打撃を与えられるか、あるいは敵を痛めつけて交渉の席に着かせられるか、もしくは、敵を再起不能にさせ全滅させられるか。それによって戦略というものが決定される」


 コツコツという、彼女のハイヒールの音が室内に響く。


「開戦当初の共和国の戦略は、海の民に対して妥協なしの徹底抗戦をすることだったわ。沿岸の街を焼き払い、住民を拉致し、財産を略奪した敵に対して、今は一時後退することがあってもそれは捲土重来を期してのことで、いつか必ず反撃する。そのためには国を挙げて新兵器を開発することが急務とされた。私は一研究者としてそれに協力したわ」


 彼女はまた煙草に火を点け、口に咥えたが、途端に酷くむせた。


「お、おえぇええ……Ε-2号、ちょっとこっちにきてちょうだい……やっぱり煙草の吸い過ぎね、禁煙しないと……さて、私は霊魂研究を行う者として、数々の新兵器開発に加わったわ。機械力では海の民に太刀打ちできない共和国では、必然的に魔法と、霊魂を改造した怪物に頼らざるを得なかった。再生兵もね。私は、倫理的な問題を感じつつも、一刻も早くそれらを戦場へ送り届けられるように尽力したわ」


 イプシロンが優しくキルケの背中を擦っている。キルケはやや落ち着きを取り戻したようだった。


「戦争開始から一年が経過した頃、共和国は広大な領土を失っていたけれど、でも怪物たちの研究開発は概ね完了した。私はその功績が認められて、共和国最高戦略会議の科学委員の一人に選出されたの。霊魂研究の第一人者としてね。被差別民である魔女でありながらよ。若き天才と讃えられ、首都の議事堂を歩くと周りから先生、先生と呼びかけられたわ。まあ悪い気はしなかったわね……Ε-2号、もういいわ。あなたも掛けなさい」


 魔女が、被差別民? 内心驚いている俺の前で、キルケはソファーに身を沈めた。心なしか、ぐったりとしているようだった。


「新しい怪物たちは目下訓練中、兵器も改良されて、反撃の目途は立った。では、次にどうするか? 最高戦略会議は今後の方針について議論を重ねたわ。決戦の後に講和するか、それとも海の民を絶滅させるまで戦争を継続するか」


 キルケの視線はどこか遠くを見ている。


「ほどなくして大勢は決して、意見がまとまった。『海の民をこの世界から根絶することが共和国の歴史的使命であり、民族の宿願である。共和国は全力を挙げて、海の民絶滅の手段を構築しなければならない』とね」


 そこまで言うと、はぁ、と彼女は溜息をついた。


「私はね、よせば良いのにそれに反対しちゃったのよ。『戦争というものは異なる政治的信条を持つ集団同士の不可避的な紛争であるにしても、それは戦いが終わった後の更なる発展と相互融和のために行われるべきであって、相手を絶滅させるのは倫理的にも人間の霊魂の望ましい形から見ても相応しくない』とか何とか言っちゃってさ。こともあろうに、最高戦略会議議長でもある、最高指導者様に面と向かってね」


 暖炉の中の薪が爆ぜる音がした。俺は言葉を挟んだ。


「どうしてそんなことを言ったんだ」


 彼女は俺の目を見据えてきっぱりと言った。


「なぜなら、私が魔女だからよ。言ったでしょう? 『魔女はその類まれなる知力と卓越する魔力で人に恵みをもたらし、人間社会を幸福へと導く存在』と。敵か味方かは関係ないの。人類全体の幸せのために私たち魔女は存在しているの……ああ、なんかカッコつけたこと言ったら肩が凝ったわ。Ε-2号、座ったばかりで悪いけど、肩を揉んでくれない?」


 イプシロンに肩を揉ませながら、彼女は話を続けた。


「それに、私には確信があったの。絶滅させずとも、戦争を終わらせることができるとね」


 俺はイプシロンを見ながら言った。


「それは、イプシロンと、イプシロンの魔法に関係しているのか?」


 キルケはゆっくりと頷いた。


「ああ、Ε-2号、もう少し下の方、そう、肩甲骨の間の方をお願い……そうそう、良いわ……ええ、その通りよ。当時私は怪物開発から離れて、独自のプロジェクトを組んでいたわ。人工霊魂を使用した新兵器、エンテレケイアの開発がその目的」


 イプシロンの力が強すぎたのか、キルケは変な声を上げた。


「ぐぇっ。ちょっと、ちょっと! 強すぎ、強すぎよ! もっと優しくして!……ごほん、エンテレケイアは『戦略魔法』のプラットフォームとして計画されたわ。共和国の一般的な兵士の霊魂は劣っている上に濁っていて、単独ではせいぜい火炎放射器程度の火力しか発揮できない。でも『完全』なる霊魂ならば遥かに大規模な魔法を使うことができる。それこそ、戦争を終結させることができるような魔法をね。私はその完全なる霊魂を人工的に製造しようとした。Ε-2号、今度は肩を叩いてちょうだい」


 とんとんとイプシロンは肩を叩き始めた。ほどよくほぐれてきたのか、キルケの表情もだんだん柔らかくなってきた。


「人工霊魂の容れ物となる肉体は完成させることができた。エンテレケイアが乗ることになる機体の試作機も、半分まで完成した。でも、完全なる人工霊魂を合成するのには時間がかかった。まあ、でも、私は天才だから、あと数年すれば問題なくエンテレケイアは完成するだろうと見込みを立てていた。そんな時に最高戦略会議と指導者様が絶滅戦争の方針を決定したのよ」


 キルケは銀色のシガレットケースを白衣から取り出した。


「ねえΕ-2号、もう一本煙草を吸っても良い?」

「ダメです」

「でも吸うわ」


 火を点けて一服する。今度はむせなかった彼女は、淡々と言葉を続けた。


「プロジェクト完遂のためなら、私は面従腹背という卑怯な姿勢をあえて貫くべきだったわ。でも私は言っちゃったのよ。そんなのダメだって。で、結果はプロジェクトの事実上の閉鎖命令。予算のほとんどが下りなくなって、私のスタッフと研究員たちはみんな『テュポーン計画』へ回された。私に残されたのは高いカネをかけて作った、血肉を持ったただの『人形』と、もっと大きな機械仕掛けの人形の二つだけ。それも未完成の。ぐずぐずしていればきっとそれらも没収されていたでしょうね」

「『テュポーン計画』とは?」

「ただの馬鹿でかい怪物を作る計画よ。凶悪で、強力で、大地を焼き、海を割るような、そんな頭の悪い戦略級の怪物。でも、今でも開発は難航しているらしいわ」


 ふっと、彼女は煙を吐き出した。次に周りを見渡すと、戸棚を指さして言った。


「Ε-2号、あれ取って、あれ。お酒」

「昼から飲むのは良くないです」

「良いじゃない、飲まなきゃやってられないわ……委員の身分は剥奪されなかったけど、私の政治的な敗北は明らかだったわ。私は荷物をまとめて、Ε-2号とスキュラを連れて首都を去り、ここに隠棲することにした。わずか半年ほど前の話よ。その頃はアカイア軍に押されている状況で、当局の私に対する追及は激しくなかったわ」


 ここまでの話を聞いて、俺の中に一つの疑問が生まれていた。


「ちょっと待て。エンテレケイアに込めるはずの人工霊魂は未完成だったと言ったな。しかし、イプシロンは今ここにいて動いていて、生きているじゃないか」


 イプシロンが酒を取ってくれないため、キルケはソファーから立ち上がって自分から戸棚に向かうと、ボトルと二つのグラスを取り出した。


 一つになみなみと酒を注ぐとそれを俺に寄越し、もう一つにも注いでから一気に飲み干した。彼女はむせた。


「げほっ、げほっ……そのことについてだけど、実はあまり話したくないのよね。魔女としての敗北というか、一時の気の迷いというか……後悔はしてないけど。とにかく、私は一つの非常手段を使って、エンテレケイアをとりあえず『生きた人形』と呼べるくらいの状態には持っていったわ。だからこそ、この屋敷に連れてくることができたんだけど」


 寄越されたグラスをそのままにして、俺はさらに問いを投げかけた。


「それで、こんなところに引っ込んで大人しくしているあなたに、なぜ軍隊が攻め寄せてくるんだ。あれは、明らかに共和国の正規軍だ。既に政治的に敗北しているあなたをそこまでして抹殺する必要がどこにある。監視をするなりして、ここに閉じ込めておくだけで良いではないか」


 キルケは俺が酒を飲まないのを見て口を尖らせた。


「ちょっと、あなたも飲みなさいよ、一人だけで飲んでいると馬鹿みたいじゃない……最初に言ったでしょう、『資源というものは有限』だって。有限だからこそ、国家はそれを余すところなく管理しないといけないの。フリーの資源があったら困るのよ。放置しておけば誰かに盗られるかもしれないのだから。指導者様はそういったことには病的なまでに敏感なのよ。そして私は目下、そのフリーな資源というわけ。いえ、私ではないわね。このΕ-2号と『アイギス』がフリーなのよ」


 ようやく俺は、事態がここまでに至った経緯が呑み込めた。グラスを傾けながら俺は言葉を発した。


「連中は、あなたを殺してイプシロンを奪うために来たんだな。あなたが『死』や『時間がない』と言っていたのは、こういうことだったんだな。理解できたよ」


 キルケは二杯目を注ぎ、また一気に飲んだ。もう顔が赤くなっている。


「彼らは私が海の民へ亡命すると思っていたのでしょう。未完成でもΕ-2号と『アイギス』には計り知れない価値がある。トロイアの魔法技術の塊ですもの。まあ、これまではスカマンドロス川の敵をやっつけるのに上層部は手一杯で、私のことに構っている余裕がなかったのでしょうけど、戦線が安定したから私の件をさっぱりと始末することにしたんでしょうね。私があなたを捕まえにΕ-2号を連れてあの森まで出向いたのも良くなかったかもしれない。亡命の予行演習とでも思われたのでしょうね」


 独り言のように、彼女は言葉を付け足した。


「これまでにも何人もの『反体制的な』研究者たちが闇から闇へと葬られてきた。最高指導者にしてみれば、私たちの研究内容は欲しいけれど、言うことをきかない研究者は要らないのよ……」


 しばらく沈黙があたりを満たした。キルケはまだ酒を飲んでいる。いつの間にかイプシロンも酒を飲み始めていた。俺も酒を飲んでいる。


 アルコールに助けられて、俺は数日前から思っていたことを口にした。


「なら、どうしてさっさと逃げなかった。そこまで自分の状況が分かっていて、『死』が目前に迫っていることを認識していて、イプシロンに価値があることを分かっていたのなら、屋敷にΝΣを集めたりトーチカを築いたり地雷原を作ったりしないで、身一つだけになって逃げれば良かったじゃないか。俺を回収しにあの森まで行けたくらいだ、スカマンドロス川の戦いの混乱に乗じるとか、機会ならいくらでもあっただろう」


 俺の言葉にキルケはうなだれた。こんなにも覇気のない彼女を見るのは初めてだった。


「……ねえ、人間っていうのはおかしな生き物よね。せっかく神々から他の動物にはない理性を備えた霊魂を与えられておきながら、それに従うことがどうしてもできない。気概の助けがあっても、欲望が邪魔をするからよ。私も、理性の部分ではすぐに逃げないといけないと分かっていたわ。でも、どうしてもこの国を離れたくなかったの」

「なぜだ」


 キルケが顔を上げた時、俺はぎょっとした。彼女の目は赤くなっていた。涙がうっすらと浮かんでいる。


「なんで、なのかしらね。たぶんだけど、私はこの国が好きだったんだと思うわ……理屈では説明できない、愛着のようなものがあったんだと思う。小さい頃は魔女として差別されたりしたけど、大きくなって勉強をしたいと思った時には支援もしてくれたし、研究も思う存分させてくれた。こっそり首都へ行って状況を探ったりしたのも、もしかしたら私を呼び戻す動きがあるんじゃないかと思っていたから」


 彼女は鼻を啜り上げ、そしてまたむせた。即座にイプシロンが傍に寄って背中を撫でる。


「心のどこかで、『私だけは違う、私だけは助かる。きっとこれ以上は酷くならない。いつか国も指導者も私のことを許して、また首都で研究できる日が来る』と思っていたんでしょうね。でもまた心の別の部分では、『私は指導者に睨まれている。きっと私は殺される、この屋敷に軍勢が押し寄せて、Ε-2号もスキュラも連れて行かれる』と感じていた。矛盾する思いが私をここに縛り付けて、日々を無為に過ごさせたのよ。武器を集めてトーチカを作ったのも、『研究を完成させないのは死と同義』と言い訳しながらΕ-2号を完成させようとしたのも、結局全部、私の迷う心を紛らわせるための遊びのようなものだったのよ」


 突然、わっと彼女は叫んで、机に突っ伏した。グラスが撥ね飛ばされて床に落ち、絨毯を酒で濡らした。


「私は小娘と一緒よ! 両親からネグレクトされてお人形遊びをして寂しさを紛らわせている小娘と一緒! なんで現実逃避をしていたのかしら! なんで理性に従わなかったのかしら! 私は、私自身の霊魂の働きをもっと見つめるべきだった!」


 泣いているキルケを、イプシロンが優しく宥めている。


「まだ殺されると決まったわけではありません」


 キルケはさらに泣き声を強めた。


「いいえ、殺されるわ! 奴らのやり口は分かっているもの! 魔女でしかも反体制的な私を生かしておくはずがない! Ε-2号と研究資料の回収さえできれば私の存在なんて必要ではないわ!……」


 俺はそんな彼女を見て、まず憐れみを覚えた。


 国から見捨てられる。それは、エウタナシア作戦で捨て石にされた俺たちと同じだった。国を愛していたのに、国は自分を愛してくれない。そのやるせなさは痛いばかりに理解できた。


 だが、俺は次第に怒りを覚え始めた。俺はソファーから立ち上がって彼女の傍に行くと、肩を掴んで無理やり立たせた。


「泣くな! 泣いても事態はどうにもならない! 泣いて解決するならアカイア軍はスカマンドロス川で敗北しなかった!」


 キルケの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。それでも、年下の男に強い言葉で泣くなと言われて、反発を覚えたようだった。


「な、なによ! 泣いたって良いじゃない! もうどうしようもないのよ! 周りは完全に敵に囲まれた! あいつらはじきに攻めてくる! あなた、あいつらを突破できるとでも言うの!?」

「それはできない」


 俺が見た限り、周囲を囲む敵は一個連隊以上だった。とてもではないが俺のΝΣとイプシロンのアイギスだけで、キルケとスキュラを守りながら突破をするのは無理だ。


 だが……俺は小隊長の言葉を思い出しながら言った。


「生きている限り、俺たちは戦い続けないといけない」


 キルケは泣き腫らした目で俺を見てくる。


「どうして? あなたが兵士だから?」


 小隊長の言葉に続いて、俺の脳裏にあの時のペネロペの言葉が蘇った。


「いや。人間というものは、幸せにならないといけないからだ。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、それを全部忘れてしまうくらい幸せにならないといけない」


 キルケの涙で潤んだ紫水晶の瞳をしっかりと見つめて、俺は言い切った。


「俺たちは運命の操り人形ではない。輝く霊魂を持った、人間だ。人間ならば、幸せになるために戦うべきだ。死を迎える、その最後の瞬間まで」


 彼女は黙って俺の言うところを聞いていた。


 涙を拭うと、床に落ちていたグラスを拾い上げてまた酒を注ごうとし、止めた。


「……まったく、アカイア軍の兵隊人形のくせに立派なことを言うじゃない。そうね、私は幸せにならないといけないわ。今はその幸せの形が見えなくても、幸せになるために戦わないといけない。それが霊魂のためなのだから……もう現実逃避するのは止めましょう」


 俺は口を開いた。


「あなただけじゃない。イプシロンも、スキュラも、みんな幸せにならないといけない」


 キルケはようやく笑ってくれた。手に持っているボトルとグラスをテーブルに置く。


「そうね、私の娘たちのためにも戦わないといけないわ。もちろん、あなたもよ、ウーティス。あなたをここに連れて来たのは私だから、あなたには是非生き残ってもらいたいわ」


 俺の顔にも自然と笑みが浮かんだ。イプシロンを見ると、彼女はいつもどおりの無表情だったが、どことなく顔に気力が宿っている気もする。


 しかし、決意を新たにするのは良いが、何か方策はあるのだろうか。


 俺はキルケに尋ねた。


「敵は大軍だ。だが、無用な損害を恐れてもいるはず。せっかく作ったトーチカと機関銃座、あれを利用して、なおかつ俺とイプシロンがΝΣに乗り遊軍となって防戦に徹すれば、しばらくはもつだろう。他に何か策はないのか」


 キルケはすっかり元通りになっていた。冷静な声で俺の問いに答える。


「あるわ。Ε-2号の魔法よ」

「イプシロンの魔法か」


 俺はイプシロンを見た。そういえば、彼女は戦略魔法のプラットフォームとして生み出されたと先ほど聞いた。


「Ε-2号の霊魂が安定して出力が向上すれば、戦略魔法を行使することができるようになるわ。それさえあれば、この屋敷を囲む敵くらい何でもない。流石に当初の計画どおり一個軍団でも、アカイアの巨大艦船でも無力化することが可能というわけにはいかないだろうけど……」

「それは凄まじいな。どんな魔法なんだ」

「……兵士が戦場に身を置き、戦いに身を投じることができる、その根幹を崩す魔法、といえば良いかしら。単なる大量破壊、大量殺戮の魔法とはまったく異なるものよ」


 キルケはここで詳細を話すつもりはないようだった。俺もそれ以上問いを続けるつもりはなかった。俺はきっぱりと言った。


「そうか。それならばきっと勝てるだろう。それじゃあ、早速俺の霊魂を分けよう」


 俺の提案に対して、キルケは叫んだ。


「馬鹿言わないで! あなたは今日Ε-2号に霊魂を分け与えたばかりでしょう! 回復させないと寿命が縮むわ! 今日と明日は休養に充てて、また明後日にやらないと」


 なんとも悠長なことを口走る彼女に、俺は腰に手をやりつつ言った。


「こんな状況でそんなことにこだわっていられるのか?」


 キルケは俺の胸に人差し指を突き付けながら答えた。


「こだわるわ! 霊魂研究者として、これだけは譲れない。どんな目的があろうとも命を縮めるような術を使うわけにはいかないわ。魔女としての正しさに反するからよ。良い? 正しさというものはいついかなる時でも放棄してはならないの。それに……」


 彼女は俺の肩に手を置いた。


「あなた言ったじゃない。私たちは幸せにならないといけないって。寿命が縮んだら、あなた幸せになれないわよ? Ε-2号とまたデートしたいでしょ?」


 俺は彼女の言葉を受け容れざるを得なかった。さっきは泣き喚いていたが、実は芯の強い人なのだと感じた。それに、俺も彼女の正しさを否定したくはなかった。


 やれるだけのことをやるしかない。そのためには全力を尽くすべきだ。


「分かった。それでは、あと何日もたせれば良い?」


 キルケは即座に答えた。


「二週間。それだけあれば、あなたの霊魂を分け与えて、Ε-2号の出力を向上させるのに何とか足りるはずだわ。食料と水、燃料と弾薬は気にしないで。一ヶ月分は備蓄があるから」

「二週間か……」


 覚悟していたとは言え、その日数は俺の心に重く響いた。一瞬、果たして守り切れるのだろうかと不安な気持ちがよぎった。


 その時、俺はふとポケットに重みを感じた。手を入れてみると、そこにはペネロペの六枚の銀貨が入った袋があった。


「そうだ、占いをしてみよう。俺たちが無事に戦い抜くことができるか」


 俺は六枚の銀貨を投げた。テーブルに小さな銀の円盤が転がる。ヘキサグラムを読み解くことはできないが、何を口にするべきか分かっていた。


 すると、俺が口を開く前に、転がるコインを紅い瞳でじっと見ていたイプシロンがぽつりと言った。


「……私たちは生き残ります。戦い抜いて、生き残ることができます」


 俺は驚いて彼女を見た。それは、俺の言わんとしていることとまったく同じだった。


「イプシロン、なぜ結果を判定することができたんだ? この占いをするには知識と練習が必要なのに……」


 イプシロンは静かに首を左右に振った。


「……分かりません。でも、分かりました」


 そんな俺たち二人を見ながら、キルケが煙草に火を点けて言った。


「なるほどね……まあ、占いがそう言っているなら私たちの未来も明るいものと決まったわ! ちょっと飲み直して、また作戦を立てましょう……」



☆☆☆


 

 二時間後、屋敷を囲んでいる敵から使者が訪れた。


 カーキ色の軍用乗用車が屋敷のエントランス前に止まると、中から威儀を正した共和国の軍人が姿を現した。俺とイプシロンとキルケの三人は、人形たちを従えてそれを迎えた。


 その人物は、黒いマントに純白の軍服を身につけていた。輝く金髪が場違いなまでに美しい。


 それは、アスカニオスだった。彼はスキュラの案内を受けて、エントランスホールへと足を進めてきた。武器を持ってズラリと整列している人形たちにも気圧された様子はまったくない。


 アスカニオスは、以前この屋敷に来た時とはまったく異なり、真剣な面持ちと鋭い眼差しで、俺たちを見渡した。


 そして、腰に提げた革製の書類入れから一枚の紙を取り出し、冷静な、抑制の利いた声で読み上げた。


「まことに遺憾ながら、共和国最高戦略会議は以下のことを決定した。第一に、魔女キルケは本日をもって最高戦略会議科学委員としての身分を剥奪されるものである。第二に、魔女キルケはただちに現住居を引き払い、国家保安委員会に出頭すべし。第三に、魔女キルケはすべての研究資料および資材を引き渡すべし。なお、執行担当者はアイネイアス」


 そこまで一気に読み上げると、アスカニオスは相好を崩した。


「まったく、こんな役目を私に押し付けるとは、父もなかなか厳しい人です。本当は作戦参謀が来るはずだったのですが、父は『お前が一番魔女と話ができるだろう、一人で行ってこい』と。キルケ姉さん、結局逃げなかったのですね。どこまでも真っ直ぐで、頑固な人だ。だからこそ、尊敬できるのですけどね」


 キルケもにこやかな顔をしてそれに答えた。


「なるほど、私を捕縛するのに派遣されたのは、あなたたちアイネイアス将軍の独立戦隊だったのね。たった一人の魔女のためだけに、御大層なことだわ。ねえ、アスカニオス、時間はあるかしら? この前来てくれた時には食事も出さなくて失礼だったと反省したのよ。どう? 話でもしながら、はやめの夕食でも。流石に神酒ネクタル神の食べ物アンブロシアを出すわけにはいかないけれど」


 アスカニオスはその申し出を予想していたのだろう。すぐに承諾した。


「お招きいただき、ありがとうございます。それではご相伴しょうばんに与りましょう。父も姉さんがそのようなお申し出をなさるであろうことを予想しておりましたので、問題はございません」


 俺は二人の会話を聞いて少し驚いた。


 これから攻めてくる相手と、抵抗の構えを見せている人物。その間には殺気が張り詰めていてもおかしくはないのに、彼らは悠然とした態度を崩さない。


 ここで彼は、俺と、俺の隣にいるイプシロンに視線を向けた。


「おお……そうか、あなたが噂の『麗しの姫君』ですね。大層お美しい方だ。はじめまして、私の名前はアスカニオス。将軍アイネイアスの長子です。もしよろしければお美しい方、あなたのお名前をこの愚かな男にお教え願えますか?」


 イプシロンは、感情のない声で、ごく短く答えた。


「はじめまして、アスカニオス様。私はΕ-2号、イプシロンです」

「イプシロン……お姿に相応しい、透明感のあるお名前だ……そして、君。君は、今日はブタの仮面を被っていないのだね。名前を聞かせてくれるかな」


 興味深そうな表情を浮かべる彼に、俺は努めてそっけなく答えた。


「名はウーティス。イタケーのセメイオン」


 アスカニオスは首を傾げた。


「誰でもない(ウーティス)?……そうか、敵に対して名乗る名前はないということかな。それでこそ不撓不屈なるアカイア軍の兵士だ。いや、セメイオンということは、『兵隊人形』と言うべきかな。美しい女性に、強い兵隊人形。これから君たちと食事をするのが楽しみだよ」


 この男、やはり俺がアカイア軍兵士であることを見破っていたようだ。あるいは、俺がΝΣ乗りで、以前工場で戦った張本人であることにも気付いているかもしれない。


 俺たちはアスカニオスを連れて食堂へと向かった。彼の歩みは軽やかで、気おくれした様子はまったく見受けられない。


 食堂のテーブルの上には真っ白なテーブルクロスが敷かれており、すでに前菜やサラダが並べられ、グラスと酒も林立している。


 キルケが葡萄酒の注がれたグラスを手に、静かに言った。


「では、私たちの霊魂のために」


 乾杯の後、食事が始まった。至極和やかな雰囲気だった。会話は主にキルケとアスカニオスとの間でなされた。


 アスカニオスは恐れる様子もなく食事を口に運び、酒を飲んでいる。


「本来ならば、こういった任務は国家保安委員会の特別行動部隊が行うはずなのです。それなのに指導者様は直々に父へ命令を下しました。『魔女を捕え、あらゆる研究資料と資材を回収せよ』と。私もその場に居合わせましたが、あの男、死ぬほど顔面が蒼白でした。どこか体の具合が悪いのかもしれませんね。まあ、こちらの知ったことではありませんが」


 キルケも、もう何杯目になるか分からない杯を空けて、穏やかな口調で答えた。


「体調が悪い……なるほど、それで合点が行ったわ。なぜ指導者様が今まで私たちを放っておいたのに、この期に及んで私の逮捕を急いだのか」


「なぜでしょうか? 私にはわかりかねますが。独裁者特有の気まぐれかと思いました」

「私の作ったΕ-2号の肉体は、それこそ完全なものとなるように設計され、構築されている。いわば、膨大な医学的研究の集大成なのよ。健康問題を抱えた指導者様には、かなり魅力的に見えるでしょうね。それに万一死が避けられなくなったとしても、Ε-2号がいるならば……っと、これ以上は話しすぎになるわね」

「それ以上を話してもらいたかったのですが、まあ良いでしょう」


 キルケは人形に目配せをし、アスカニオスのグラスに酒を注がせた。


「それにしても、どうしてあなたたちの独立戦隊なのかしら。あなたたちは戦場での斬り込み部隊であり、トロイア共和国の最精鋭部隊。私ごときを捕まえるのにあなたたちを投入するのは、まさに『ガチョウを捌くのに牛刀を用いる』ようなものではなくて?」


 アスカニオスは陽気に笑った。


「ハハハ……! だからこそなんですよ。そう、私たちは強力な部隊です。それは敵にとっては厄介でしょうが、実は味方にとっても厄介なのです。特に、旧王家の人間が多数集まって構成されている部隊は……指導者からすれば、いつ反乱を起こしてもおかしくなく、しかもその反乱を成功させる可能性が最も高い」


 キルケは煙草に火を点けた。アスカニオスにも勧めたが、彼はそれを丁重に断った。


「つまり、あなたたちは今回の作戦で忠誠心を試されているわけね。王家との繋がりが強い私をあえて討伐させることによって、政府に対して従順であるかテストしようというわけ。悪辣ね。趣味が悪いわ。ということは……」


 アスカニオスは、見事なまでに作法通りにナイフとフォークを操り、肉を切り分けた。


「ええ、お察しの通りです。私たちは何としてでもこの任務を遂行しなければならない。スカマンドロス川での作戦で戦力を消耗し、本来ならば休養と再編成に時間を充てねばならない状況であっても、また、あなたがどれだけ我が王家にとって大恩のある方で、深く友情を抱いている人であっても、私たちは任務を放棄するわけにはいきません。そうしなければ、あなたの次にターゲットにされるのは、私たち王家でしょうから……」


 彼はしばらく肉を丁寧に咀嚼した。顔には純粋に美味を味わう満足げな表情が浮かんでいる。ナプキンで口を拭うと、彼はまた口を開いた。


「……いかがでしょう。思い切ってこのまま降参するというのは。そうすれば犠牲が出ることはありません。首都までの道中は父と私が責任を持って護送いたしますし、首都に着いた後でも、可能な限りあなたの弁護に当たりますよ。それに、賄賂も効きますしね。国家保安委員会は腐りきっていますが、その分、金による実弾射撃が実に効果的です。無意味に抵抗をして、兵の生命を損なうよりは、遥かに賢明ではないかと思いますが……」


 キルケは静かに彼の語るところを聞いていたが、そこで隣にいたスキュラに何かを耳打ちした。スキュラが部屋から去ると、キルケはまた煙草に火を点けた。


「あなたもそう言っておきながら、本当は分かっているんでしょう? あの禿げ男がどれだけ陰険で、邪悪で、そのくせ小心者で、仔ネズミよりも臆病であることを。私が首都に行ったら、あなたたちはもはや干渉することを許されないでしょう。あなたたちだって、本当は単なる人形に過ぎないのだから。分厚い歴史を持つトロイアを象徴する煌びやかな白磁のお人形さんたち。そして私も、運命に翻弄されるだけの操り人形だった。今日まではね」

「今日まで?」


 アスカニオスが問いを発したその時、スキュラが片腕で抱くようにして、何か黒い、重そうなものを運んできた。


 それは指導者の胸像だった。もう片方の手には大きなハンマーを持っている。スキュラは胸像をテーブルの上に置いた。


 胸像は何かを喋っていた。


「魔女に裁きを! 国内にいる裏切り者共を殲滅することこそ、次なる勝利のための絶対的な条件である。貴重な国の資源を占有し、己が欲望のままに非生産的な活動に耽るあの魔女、キルケを、余は討伐するように命じた。早晩、魔女は首都に連行され、裁きを受けるであろう。国民諸君、忘れてはならないのは、真に重要なのは国家への忠誠ただそれのみであり、それ以外のあらゆる要素は忠誠を下支えするものに過ぎないということだ。魔女キルケは断罪され、究極的な罰を受けることになるであろう。余は魔女を党の名において……」


 キルケはうんざりしたような顔をした。その横で、スキュラがハンマーを振りかぶった。キルケが口を開いた。


「まったく、これで私は名実ともに国家への反逆者というわけね。アスカニオス、あんたへの返答は、今からスキュラが見せてくれるわ。さあ、スキュラ。やっちゃいなさい」

「はい、お母様! オラァッ! 微塵と砕け散りやがれですわ!」


 勢い良く振り下ろされた鋼鉄製のハンマーは、銅でできた胸像を叩き潰し、バラバラにした。その余波を受けて、周りの食器やグラスも粉々に割れてしまった。


 キルケは満足げな顔をし、そして表情を一転させて、アスカニオスに言った。


「これが私の答え。『モローン・ラベ』(来たりて、取れ)よ。私は総力を上げて、あなたたちに抵抗します。命の奪い合いになるでしょう。悲惨な戦いになるでしょう。しかし私はそれを怖れません。私は人形ではなく、輝く霊魂を持つ生きた人間なのだから」


 指導者の胸像の、頭部の破片を弄んでいたアスカニオスは、それを聞いて微笑んだ。


「すごいツルツルだなぁ……ナメクジだってずり落ちそうなくらいの見事な禿げ具合だ……分かりました。それだけの決意を見せていただいたのですから、こちらとしても全力で戦うことにいたしましょう。残念ながら私たちにとって、あなたはもはや敵以外の何ものでもなくなりました」


 アスカニオスは懐中から金の時計を取り出し、盤面を一瞥した。


「もう時刻も遅くなりました。いい加減部隊の連中や父が心配しだすでしょうし、政治委員もうるさくなるでしょうから、これで帰ります。ああ、そうだ。最後に……」


 アスカニオスは俺に向かって歩を進めて来た。そして、真っ直ぐな眼差しで俺を見つめた。


「ウーティス君。あの工場では、実に見事な戦いぶりだったね。私はあれ以来君を探して戦場を駆け回り、あともう少しというところでその機会を逸してしまった。今回、ようやく決着をつけることができそうだ。君と戦うのを楽しみにしているよ」


 やはり俺だと見抜いていたようだ。だが、俺はそれに肯定も否定もしなかった。


「戦いに楽しみなどない。俺が今まで生き抜いてきた戦いは、苦しみと嘆きに満ちていた」


 アスカニオスは軽く頷いた。しかし、次の瞬間には真剣な眼差しで言った。


「君たちが『白い化け物』と呼んでいるあの機体、あれは私の専用機で、『アルバ・ロンガ』という。近接格闘戦専用に開発された機体で、君たちの主力機であるΝΣ124型を倒すためだけに生まれたものだ。完成させ改良を施すのに、大量の資金と技術者を必要とした。私はそれに乗ってここに来るだろう。その時は、是非私と戦ってくれ。だが覚えておくと良い」


 一拍の呼吸を置いて、彼は俺に断言するかのように言った。


「真なる戦士は何らかの意味を見出すため、戦いに臨む。それは戦士としての霊魂が、戦いを通じてのみ成長し、いっそう輝きを増すからだ。どうか君も私と戦う前に、君なりの戦う意味を見出しておきたまえ。君の霊魂のために。もっとも、アカイアの兵隊人形である君に、霊魂などあるかどうか分からないが」


 そう言うと俺から立ち去って、アスカニオスは次にイプシロンに恭しく礼をした。


「お美しい方。あなたを傷つけることになるかもしれない。私はそれが心苦しい。この世を華やかに飾るあなたの美しさが失われることに、私は胸の塞がれる思いがする。ですが、これも任務であり、王家として乗り越えねばならない試練。であるならば、正々堂々と戦うつもりです。あなたもせめて、心残りのないように……」


 イプシロンは無言で頷いた。


 アスカニオスはマントを翻すと、悠々と屋敷から去った。


 数分して、俺たちは自然と集まっていた。キルケがどこか疲労感を顔に滲ませつつ言った。


「あーあ、これでもう後戻りはできないわ。やるしかない。それにしてもアスカニオスが直々にΝΣに乗ってやってくるとは。ウーティス、あなた彼を倒せそう?」

「いや、難しいな。前に戦った時に何とか引き分けに持ち込めたのは、周りにいた味方の歩兵たちと運に助けられたんだ。何か通常ではない手段によらなければ、彼を倒すことは不可能だろう。それほどまでに俺のΝΣ124型と彼の『アルバ・ロンガ』とは、性能が違う」


 俺の言葉を聞いて、キルケとスキュラは黙り込んだ。何かを考えているようだった。ややあって、二人が言葉を発した。


「ウーティス、私の研究を応用して、あなたの戦闘技術を向上させる薬を作れると思うわ。数日待ってちょうだい」

「わたくしもΝΣ124型をできる限りチューンアップしますわ。機動性の向上と、あと両腕部の兵装の強化、アナログコンピューターの調整もしないといけませんわ……はあ、今夜から徹夜ですわね。お肌の美容が……」


 最後に、俺はキルケに確認しておきたいことがあった。


「これからの戦いは紛れもなく殺し合いになるだろう。手加減の余地などない。だが、敵は君たちにとっては同じ祖国の人間だし、アスカニオスもアイネイアスも君とは仲が良い。本当に……その、殺してしまっても良いのか?」


 キルケは頷いた。その瞳には、固い決意と、そこはかとない哀しみの色が秘められていた。彼女は叫ぶように言った。


「ええ、そうよ。手加減は一切無用。私たちを奪おうとする者は、すべて撃破するのよ!」


 時計が深夜を示した頃、外は雷雨になっていた。激しい雨と風の音に時折雷鳴が混ざる。そして、断続的な爆音が響いていた。敵は導爆索どうばくさくを用いて地雷原を切り拓いているようだった。



☆☆☆


 

 翌日は良く晴れた。朝日がアプロス山脈の陰から姿を覗かせた時、いよいよ敵が前進してきた。中型魔力戦車が五両、そのそれぞれに歩兵が十人ばかりついていて、昨日の雨でぬかるんだ平原を悠然と進んでくる。


 俺はキルケに通信を繋げた。


「敵が来た」

「数はどれくらい?」

「戦車が五両。随伴歩兵が五十人ほどだな」

「どう思う? 本格的な攻撃かしら」

「いや、ただの威力偵察だろう。まあもう少し様子を見よう」

「了解」


 幸いなことに、攻撃準備射撃はなかった。どうやら敵は、できるだけ無傷でキルケの研究を確保したいようだった。もし砲兵や魔術兵が撃って来れば、いくら魔女の屋敷とはいえひとたまりもない。


 敵が射程圏内に進入するのと同時に、こちらの対戦車砲が一斉に火を噴いた。


 たちまち敵の魔力戦車一両が被弾して濃い青紫色の煙を噴き上げる。バラバラと脱出する戦車兵たち。しかし、他の敵は怯むことなく前進を続ける。


 俺はその光景をΝΣ124型の展望装置から眺めていた。ここまでは予想通りだった。先ほどキルケには言ったが、おそらくこれは、本格的な攻撃ではない。こちらの火点の位置を特定して、後刻に攻め寄せる主力のために情報を収集しようというのが目的だろう。やはり、威力偵察のようだ。


「人形たちは優秀だな……」


 正確な射撃により、敵の二両目の戦車が擱座した。その数分後、トーチカの周辺に砲弾が落下し始めた。


 やはり、こちらの対戦車砲の配置状況を敵は把握しているようだ。爆発から見るに、それは魔法射撃ではなく、普通の砲兵のようだった。おそらく百五ミリ級の野砲が十門ほどだろう。


 次第に砲撃は激しさを増した。また、白い煙が辺りに立ちこめ始めた。白リンの燃焼によるものだった。どうやら、発煙弾を撃ち始めたらしい。砲撃と煙に妨げられて対戦車砲が射撃を中止したのを見計らって、敵は後退していった。


 俺は再度キルケに無線を繋いだ。


「敵は後退していく。ここまでは想定通りだ。次は航空攻撃がくるぞ」

「爆撃で砲を潰すってわけね。でも大丈夫、ちゃんとこっちには対空砲があるんだから」


 彼女は今、屋敷の書斎にいる。防御力の高い格納庫へ移ってもらうかと思ったが、彼女はそれを拒否した。「ギリギリまであなたのための特別薬を作っていたい」とのことだった。


 イプシロンはまだ出撃していない。今はキルケの傍にいるはずだ。俺もΝΣを後退させることにした。敵機に見つかるわけにはいかない。


 敵の威力偵察が下がっていった二時間後、そろそろ陽が中天に差し掛かる頃に、敵機が来襲した。


 戦場で幾度も聞いたあの忌まわしい爆音をかき鳴らしながら、大型の航空爆弾を抱きかかえた地上襲撃機が九機、地平線の彼方から姿を現した。


 敵機は屋敷の上空を旋回し、目標を確認しているようだった。やがて、約半数の四機を残して、彼らは編隊を単縦に組み直すと、屋敷正面に配置されている二基のトーチカへ向かって一斉に降下を始めた。


 先頭の一機が投弾する直前に、地下から出て来た六基の対空砲が火を噴いた。吐き出される二十五ミリ砲弾のシャワーはバリウム塩が燃焼する緑色の炎を後に靡かせて敵機を包み込む。


 しかし、一機目は怯むことなく爆弾を投下した。続く二機目がたちまち被弾して煙を噴く。だが、それは墜落することなく爆弾を落とし、しかも機体を立て直して、低く飛びながら対空砲の射程外へと逃れて行った。三機目以降も被弾こそあれ撃墜はなく、トーチカは合計十発ほどの爆弾を浴びることになった。


 残った四機も攻撃に参加し、一機が煙を吐いた他は被害を受けることなく、爆弾を落として去っていった。


 俺はΝΣを走らせて被害状況を確認しにいった。攻撃を受けたトーチカ二基は直撃弾を受けて無惨に破壊されていた。


 鉄筋コンクリートで造られているが、航空攻撃には無力である。天蓋を貫通した爆弾は内部で炸裂し、中で砲を操作していた人形たちは残骸を撒き散らし、あるいは燃え尽きてしまっていた。


 全部で十ある対戦車砲のうち、正面に配置されているのは六門。そして、この攻撃で早くも二門が破壊されてしまった。だが、この程度のことで挫けるわけにはいかない。俺たちにはまだΝΣがある。


 その日はそれ以上の攻撃はなかった。キルケは生き残った人形の修復作業に追われ、スキュラは対戦車砲の修理に回った。俺はイプシロンと共にΝΣに乗って周囲を警戒した。


 スキュラは攻撃されたトーチカの復旧が不可能と見ると、手早く利用可能な部品だけを剥ぎ取り、せっせと格納庫へと運んだ。


「予備部品の豊富さが戦力を支えるのですわ。あと十三日間をもたせるだけの部品は確保しておかないと……」

「ありがとう、スキュラ」


 俺が礼を述べると、スキュラは頬を膨らませた。


「礼を言われる筋合いはありませんわ! これはわたくしの戦いでもあるのですから!」


 まったく、彼女の奮闘は素晴らしかった。あのスカマンドロス川での戦いの時も、アカイア軍の整備兵たちはギリギリまで機体に寄り添って作業を続けていたが、その彼らと比べてもスキュラの働きは遜色のないものだった。


 翌日も同じようなことが繰り返された。戦車が前進し、反撃を受けて、砲兵が煙幕を張ってトーチカへ砲弾を送り込む。


 俺は数を減らした対戦車砲の代わりとして出撃することにした。今日はスキュラと無線が繋がっている。スキュラには着弾観測をしてもらうつもりだった。


「さて、お手並み拝見といきますわ。人間、弾を無駄にするんじゃありませんよ」

「そちらこそ、観測をしっかりと頼む」


 俺は十スタディオンという遠距離から敵戦車に対して砲撃した。


「あ、当たった」


 砲撃は初弾から命中し、敵戦車は急に動きを止めた。数秒後、あらゆるハッチから乗員が脱出する。全員が外に出た後、戦車は煙を上げて炎上し始めた。残りの敵戦車は、脱出した戦車兵たちを回収すると、くるりと向きを変えて退却していった。


 スキュラは不満げな声を上げた。


「ちょっと! これじゃもう仕事がないじゃありませんの!? わたくしの出番は!?」

「そのうちまた来るだろう。今日はもう休め」

「まったく、もっと勇敢に突っ込んできなさいよ、トロイアの兵士たち……」


 そして数時間後にまた航空機が飛来し、対空砲の射撃を受けつつ、爆弾を投下していった。


 敵機は俺を探していたようだったが、その頃には俺は格納庫へΝΣを帰還させていた。この日も一基のトーチカが破壊され、人形に若干の損害が出た。


 敵が去った後の夕刻、俺は実験室のベッドに横になっていた。本日で四回目となる霊魂の分与も、まったく問題なく終わった。


 抱き合っている俺たち二人に、キルケは煙草を吸いながら言った。


「あと六回、十二日。敵の攻撃はトーチカに集中していて、屋敷には手をつけていない。この分なら割とあっさりと凌ぎ切ることができるかもしれないわね」


 イプシロンの銀髪を撫でながら、俺は答えた。


「いや、油断しないほうが良い。確かに敵の攻撃は堅実そのものだが、相手はあのアイネイアスだ。奴は非常に合理的な戦い方をするが、あらゆる損害を厭うほどの軟弱さの持ち主というわけでもない。何か大胆なことをしでかすかもしれない。それに、アスカニオスがまだ動いていない」


 キルケは煙を吐き出した。


「確かにアイネイアス将軍は有能な将軍よ。でも彼が『何か大胆なこと』をするとは思えないの。というのも、彼には一つ欠点があるから」

「それはなんだ」

「彼、非常に名誉というものを大事にするの。私のような女性一人を、なりふり構わず捕まえようとするとは思えないわ。そもそも最初にこの屋敷を奇襲すれば容易に私を逮捕できたでしょうに、それをしなかったのは、彼のその性格によるものだし、夜襲もせず、こうして堅実な攻撃を繰り返すのも、私が耐えきれなくなって降伏を申し出るのを待っているからではないかしら」

「なるほどな。確かに一理ある。だが、軍事組織というのは指揮官個人の性格的な欠点を補うために構築されている。やはり油断はしない方がいいと思うが」


 俺の話を聞きつつ、キルケは煙草の灰を落とした。


 そして、「あっ、そういえば」と言うと、机の引き出しを開いて、あるものを俺に差し出した。


 それは巨大な注射器だった。機関砲弾くらいの大きさで、針はあまりにも長く鋭く、太かった。見るだに凶悪な外見をしている。


「これをあなたにあげるわ。それはあなたの霊魂から抽出した、『合成霊魂機能向上薬』よ。アスカニオスと戦う時、どうしても太刀打ちできないと思ったら使いなさい」


 俺はそれを、何か恐ろしいものでも扱うような手つきで受け取った。


「で、使い方は?」


 キルケは俺から顔を背けた。俺は嫌な予感がした。


「胸の真ん中に打ち込むのよ……大丈夫、死ぬほど痛いかもしれないけど死にはしないし、それに見合うだけの効果はあるはず。ΝΣに必ず積んでおくのよ」


 俺が変な顔をしたまま黙っているのを見て、キルケは顔をにやけさせた。


「あら? もしかしてあなた、注射が怖いの?」


 俺は努めて静かに答えた。


「……感謝する。それに、痛みにはいい加減慣れているしな……」


 しかし、と俺は注射器を見ながら思った。これを使うまでもなくアスカニオスが弱ければ良いのだが、と。


 また夜が訪れた。夜襲はなかった。だが、俺たちはそれに備えるために格納庫に寝袋を持ち込んで、そこで休むことにした。


 キルケもここへ来るように誘ったが彼女は動かなかった。出来るだけ研究を纏めたいとのことだった。


 イプシロンは俺の隣に寝袋を敷いて寝ている。それがとても愛おしく感じられた。


 今更ながら、俺は、俺の感情の働きを不思議に思った。


 彼女と出会ってからまだ一ヵ月と経っていない。それなのに、俺は彼女にどうしても惹かれていた。まるで、乾ききった俺の霊魂が、清水を湛えた泉である彼女を求めているように。


 キルケは、俺とイプシロンの霊魂の相性がぴったりだと言った。俺自身の目でそれを確認することはできないが、たぶん、いやきっと、その通りなのだろう。


 俺は彼女を人間にするために、唯一無二の霊魂を分け与えた。彼女は俺の霊魂を宿したまま、このままずっと人間として生きていく。


 俺たちは一緒だ。これから、何が起ころうとも。


 可愛らしい寝息を立てている彼女を見つめていると、スキュラが現れた。彼女はまだ濃緑色の作業つなぎに身を包んでいて、そこら中に油のシミを作っていた。


「まだ休まないのか。本格的な攻撃が始まったら寝ることも難しくなる。今のうちによく寝ておいた方が良い」


 そう言う俺に、スキュラはラチェットレンチを手にしたまま腕を組み、見下ろしながら口を開いた。


「言われなくともそんなことは分かっておりますわ。でも、機体はいつでも完全な状態にしておかなければなりません。お母様の自律人形たちは部品や燃料や弾薬は運ぶことができても、整備という創意と知恵を要求する作業はできませんの。だからわたくしはどんなに疲れていても眠くても、遅くまで働き続ける必要がありますわ」


 薄暗い格納庫の中、照明代わりのアルコールランプが淡い光を発し、燈心がジリジリと音を立てている。俺はスキュラへ機体について質問した。


「俺のΝΣだが、今どういう調整をしている?」


 スキュラは淀みなく答えた。


「相手のΝΣは近接格闘戦向けで機動力に優れる。ということは、その分装甲が薄いはずですわ。一発でも砲弾を当てられれば勝機はあるはずです。そのために火器管制装置と腕部のモーターを調整しておきました。後で確認しておいてください。かなり繊細な動かし方をしなければなりませんが、あなたならばそれも可能でしょう……」


 俺はここで、かねてから実装してもらいたいと思っていた「ある機能」についてスキュラに要求した。それを聞くなり、スキュラは目を吊り上げた。


「バカなことをおっしゃらないで! そのような機能をつけるのはメカニックとしてのプライドに関わりますわ……でも、万が一ということもあるかもしれませんね……」

「大丈夫、使うことはたぶんないだろう。俺だって死ぬつもりはない。それに、キルケからも特殊な薬をもらったし、それを使えば問題なく勝てるはずだ」


 スキュラは溜息をついた。


「はあ……『はずだ』などと確証に乏しいことをおっしゃらないで欲しいですわ……まあ、操縦者の要求に可能な限り応えるのがメカニックの務め。やっておきますわよ、徹夜で」


 会話が途切れた。格納庫の中は痛いほどの静寂に満ちている。


 俺は、前から気になっていたことをスキュラに尋ねることにした。


「なあ、君は共和国軍と戦うことについてどう感じているんだ。君はその言動からして、祖国に対して忠誠心が厚いものだと思っていたが……」


 スキュラはレンチを腰に戻すと、俺の傍に腰を下ろした。そして、いつもにぎやかな彼女としては非常に珍しいことに、ごく静かに口を開いた。


「無論、同胞相撃つことについて何も感じていないわけではありません。わたくしは共和国で生まれて、三十年余りもここで生きてきました。その歳月の分だけ、わたくしは祖国に愛着を覚えています」

「三十年?」


 驚いて声を上げた俺に、スキュラはじろりと視線を返した。


「大きな声を上げないで欲しいですわ。イーちゃんが起きてしまうではないですか。そう、わたくしはお母様よりもイーちゃんよりもあなたよりも年齢を重ねています。その反応から察するに、たぶんあなたはわたくしのことを十代だと思っていたのでしょうが……」


 彼女は一つ溜息をついた。心なしか耳が垂れている。


「確かに、祖国を相手にして戦いたくはありません。アイネイアス将軍や、アスカニオス王子といった王家の方々は、本来ならば首を垂れて忠誠を尽くすべき相手ですし……ですが、わたくしはそれ以上にお母様に恩義を感じておりますの。わたくしに新たな生を授け、仕事を与えてくれたお母様にね。そのためだったら、不眠不休で働き続けるくらい何ということもないですわ。それに、イーちゃんも守ってあげたいし……」


 彼女は立ち上がると、今度はイプシロンの傍へ寄った。銀色の髪を優しく撫でている。


「あなたには想像もつかないでしょうが、イーちゃんはここに来た時泣いてばかりいました。声も立てず、ただ涙を流して。笑わないし、物も言わないし、じっと座って窓の外を見るばかり。まるで、正真正銘の人形のように感じられましたわ。話しかけたり、遊びに連れ出したり、アイギスの動かし方を教えたり、料理を食べさせたりしてあげて、ようやくイーちゃんは泣くのをやめました。でも、無表情なのは変わらず、何にも興味を示さず……」


 撫でるのをやめると、スキュラは赤い目で俺を見つめた。


「悔しいけど、あなたが初めてでしたわ。イーちゃんが自分から何かをするようになったのは。あなたが分かっているかどうか定かではありませんが、あなたが来てからイーちゃんは明らかに変わりました。毎日がとても楽しそうで……」


 彼女は再びレンチを手にした。それで俺の頬をピタピタと叩いてくる。


「良いですこと? あなたは何が何でもイーちゃんを大事にしないといけませんわ。それこそ、命を賭けてでも。さもなければ、わたくしは……」

「どうするんだ?」


 俺が答えると、スキュラはにっこりと笑みを浮かべて言った。


「喰っちまいますわよ、人間」



☆☆☆ 



 だが、その翌日になって状況が急変した。


 その朝格納庫で身を休めていた俺たちは、上空を乱舞する航空機のエンジン音と、それを迎撃する対空砲の激しい射撃音で、まどろみから強制的に現世へと引き戻された。


 音だけで、今までとは異なった、切迫した事態が起こっていることが分かった。俺は寝袋から飛び起きると、即座にΝΣへと駆け寄った。


 俺に前後して、イプシロンも起きた。寝袋から出てきた彼女は、体にピッタリと合った黒い操縦服を着ていた。前日からそのままだったのだ。


 彼女もアイギスへと駆け寄り、軽やかな動きで機体を攀じ登るとハッチを開けて、操縦室の中へ姿を消した。


 俺も機体のエンジンをスタートさせつつ、スキュラに叫んだ。


「何か様子がおかしい! キルケを格納庫へ連れてきてくれ!」

「分かりましたわ! 車を出します!」


 小さな体を揺らしてスキュラが走っていくのを見ているうちに、エンジンが規定の回転数へと達した。発電機に接続し、大電流が各部のモーターへと流れていく。


 機体が目覚めていくのと同様に、俺の神経も興奮の度を高めた。右手には七十五ミリの主砲、燃料と弾薬は満載。肉体にも機体にも、戦意は全身に漲っている。


 アイギスは既に起動を完了していた。手には槍を持っている。


 そうだ、彼女と一緒ならば何も怖くはない。どんな敵が来ても、必ず退けることができるはずだ。


「行こう、イプシロン!」

「はい、ウーティス様」


 半地下の格納庫から地上へ出ると、空は多数の敵機に埋め尽くされていた。これまでは十機程度の数しか飛んでこなかったのに、今日は軽くその三倍以上はいる。


 敵機は急降下と急上昇を繰り返し、盛んに地上へ銃爆撃を加えている。


 俺はこの時、対空砲の音がしなくなっていることに気が付いた。どうやら弾切れか、あるいはすべて破壊されてしまったらしい。


 その瞬間、俺は敵の意図をすべて理解した。俺は咽喉マイクを押さえて叫んだ。


「みんな! 奴らは空から来るぞ!」


 スキュラの声がヘッドホンから響いてくる。


「そりゃ見たら分かりますわ! 現在敵機はすべての防御施設を念入りに攻撃中! きっと本格的な地上攻撃の前触れですわ!」

「そうじゃない! あいつらの目的は最初から対空砲を潰すことだったんだ!」


 屋敷の対空砲は通常時には地下に隠されており、敵機が来襲した時だけ地上へ出て射撃する仕組みになっていた。


 それゆえ、航空偵察では存在が露見していなかったのだろう。初日に悠々と攻撃してきたのがそのことを証明している。


 今回は、その厄介な対空砲を破壊するための攻撃だった。多数の攻撃機を繰り出し、一編隊はトーチカを破壊する。


 そして、それを防ぐために地上へ出てくる対空砲を別の編隊が攻撃する。こうして俺たちの対空火網を壊滅させたのだ。


 では、その次に出てくるのは? 間違いない。空挺降下だ。


 アイネイアス将軍が、以前スカマンドロス川の橋頭堡攻撃で用いた戦法。彼らは前の戦いで戦力を消耗してしまったとアスカニオスは言っていた。それゆえ、俺は空挺作戦の実施は不可能だろうと思っていたのだ。


 いや、そう信じようとしていた。なんとしてでも作戦を遂行しようとする、彼らの戦意の高さをあえて深く考えないようにしていた。それをされると一巻の終わりだったからだ。


 その時、ヘッドホンから大きな声が聞こえた。それはキルケだった。


「今スキュラに連れられて車に乗ったんだけど、大きな飛行機が五機飛んでくるわ! あれ何だったかしら……そう! あれは輸送機よ! 一体どうしてここへ輸送機を……」

「早く格納庫へ逃げ込め! 敵が落下傘降下してくるぞ!」


 俺はそう返しつつ、操縦室のハッチを開けて空を見上げた。


 敵機が乱舞する空へ、きっちりと翼を並べた大型輸送機が五機、まっしぐらに向かっているのが確認できた。


 この七十五ミリ砲では対空射撃ができない。俺は歯噛みした。脅威が無くなった今、彼らはあたかも演習のように降下を開始するだろう。


 それどころか、敵機がついに俺たちを発見して、盛んに銃撃を加えてくるようになった。俺はイプシロンに言った。


「屋敷の陰に入るんだ! そうすれば少しは身を隠せる」

「了解しました」


 時間にして十分も経っていない。俺たちが屋敷に近寄り、地上すれすれに突っ込んでくる敵機へ頭部の機関銃で気休め程度の応射を加えている間に、五機の輸送機は上空に到達した。


 四機が後部のハッチを開けると、無数の落下傘を空にばら撒き始める。降下兵と武装コンテナを吊るした破壊と死をもたらす白い花々。ゆうに一個中隊はいるだろう。


 一般的な歩兵と比べて軽武装だが、屋敷内部を制圧するには充分な兵力だ。中を迷路のようにする魔法がかかっているとはいえ、それに何の意味があるだろう。早めにキルケを避難させたのは良かったが、これで実験室は使えなくなった。


 つまり、俺からイプシロンへの霊魂分与はできなくなってしまったのだ。


 四機が続々と兵士を降下させているのに対して、中央の一機は何もしなかった。


 訝しんでいると、それは機首をぐっと下げて庭園の上空三十メートルへと降下し、その時になって初めて後部ハッチを開放した。


 中から出て来たのは、巨大な人影だった。落下傘もつけていない。案外ゆっくりとした速度で落ちてくるように見えたが、それはその大きさゆえの錯覚だった。


 数秒後に人影は植木を圧し潰し石畳を叩き割って、大地へと落下した。


 猛烈な砂煙が巻き起こり、続いて爆撃にも劣らない轟音が聞こえた。機体の脚部を伝わって地響きが感じられる。


 濛々もうもうたる煙が晴れた時、そこに立っていたのは、ある意味で懐かしい顔だった。


「あれは、ポリュペモスか」


 あの橋頭堡で、俺が榴散弾で目を潰してやった巨人がそこに佇んでいた。


 かつて不気味な赤い単眼が輝いていた顔面にはゴテゴテと装甲板が打ち付けられており、全身に軽合金製の鎧を身に纏っている。手にはハンマー、腰には大型の拳銃のようなものを提げている。


 巨人は醜悪な声も高らかに、名乗りを上げようとした。


「俺はアイネイアス将軍閣下の部下の一人、剛毅不屈なる巨人のポリュペモス! 不埒なる魔女よ、とっとと降伏しろ! さもなければ……」


 俺は彼が言い終るのを待つまでもなく、七十五ミリ砲から榴弾を発射した。


 不意打ちを狙ったのだが、巨人はどうやって見ているのか、俺の砲撃を巨体に見合わぬ軽やかな身のこなしで避けてしまった。


 やはり容易な相手ではない。俺はイプシロンに言った。


「イプシロン、奴の相手は俺がやる。君は格納庫へ行って、キルケとスキュラを守れ。歩兵が来ているかもしれない」


 だが、返ってきた言葉は意外なものだった。


「いえ、私もウーティス様と一緒に戦います。お姉様が一緒ですからお母様はしばらく無事なはずです」


 俺は数秒間思案した。俺たちの状況は? 巨人を無力化するための方法は? 時間的猶予はどれくらいある?


 そして、結論を出した。


「よし、なら一緒に戦おう。イプシロン、君は接近戦を挑んで奴を引き付けてくれ。俺に作戦がある。奴を『例の場所』に誘導しよう」

「了解しました」


 たった一言の「例の場所」だけで、イプシロンは俺の意図をはっきりと理解してくれたようだった。


 彼女は銀の槍を構え、シルバーピンクの機体を日光で輝かせて、一直線に巨人へ挑みかかって行った。


 それを見るや、身の丈五メートル程もある巨人は吼えた。


「機械仕掛けの人形如きがトロイアの誇りである俺を倒せると思うな! 前回は不覚を取ったが、今度は負けん!」


 巨人とイプシロンは激しく戦い始めた。


 イプシロンは優美にして洗練された動きで槍を振るい、薙ぎ、突き、対して巨人はその凶暴性をそのまま表したかのような豪快な一撃を見舞う。両者共に一歩も譲らない。俺はその間に距離を取った。


 幸い、上空から敵機はあらかた消えていた。残っている機もトーチカを攻撃しているようだ。爆弾が降ってこないのはありがたかったが、俺たちにはあまり時間がない。

 イプシロンは着実に槍で巨人にダメージを与えているが、巨人の生命力と回復力は尋常なものではなく、離れたところから見ている俺でも、直前にイプシロンが負わせた傷が見る見るうちに塞がっていくのが確認できた。


「見たか、この肉体を! この金剛不壊なる霊魂の容れ物を! 川で手傷を負わせられて以来、俺は幾度かの改造手術の痛みに耐えたのだ! 貴様の軟弱な槍で俺を傷つけることはできん!」


 おめき叫ぶ巨人のハンマーの一撃が空を切り、その隙をついてイプシロンの槍が彼の右肩をしたたかに打った。


 巨人がよろめいたその時、俺は怒鳴った。


「跳べ!」


 直後、彼女はアイギスを思いっきり跳躍させた。


 俺はそれと同時に、巨人の背中に向けて主砲から砲弾を発射した。


 今度は榴弾ではなく、徹甲弾である。砲口初速毎秒七百五十メートルで放たれる砲弾は、巨人の鎧くらいならば簡単に貫通できる威力がある。


 だが、巨人は身を屈めてそれを回避した。まるで後ろにも目がついているかのように。


 その時、俺は気付いた。本当に目がついている! 


 巨人の後頭部から、蜘蛛のように小さな無数の目が怪しい輝きを放っていた。


「貴様らがそういう卑怯なことをしてくるのは予想していたぞ! そして貴様、貴様は! 川で俺の目を潰した奴だな! 霊魂の匂いがそう告げているぞ! 槍使いは後回しだ! まずはお前から殺してやる!」


 跳躍を終えて地面に着地したイプシロンが攻撃するのを巨人は軽くいなすと、彼は体の向きを変えて猛然と俺の方へ走り出した。


 俺は迷うことなく逃げ出した。


 逃げつつも、俺は庭園の中央からある場所へと向かっていた。一分も経たずにそこに辿り着くと、俺は巨人へ向き直り、主砲を構えた。


 巨人は俺が観念したと思ったのだろう、勝ち誇ったように叫ぶ。


「大人しくしていろ、卑劣なるアカイア兵! 今、冥界送りにしてやる!」


 巨人が正面二十メートルの距離に入ったその時、俺は肩部の投射機から四発の発煙弾を発射した。


 発煙弾は弧を描いて巨人の眼前に飛んで行くと爆発し、たちまちのうちに濃い乳白色の煙を展開した。


 予期せぬ展開だったのだろう、巨人は一瞬足を止め、大声を上げた。


「悪あがきか! だがお前の位置は分かるぞ! 霊魂の匂いで分かる!」


 そう言って彼は煙の中から飛び出そうとした。その刹那の隙をついて、彼の背後にイプシロンが機体の最高速力をもって駆け寄り、背中の鎧の中心部に槍を突き立てた。


 槍は装甲を貫通したらしい。鋭い痛みに襲われているのだろう、巨人が呻くように叫ぶ。


「ぐぁああああっ! よくもぉおおおおっ!」


 それに構わず、イプシロンはなおも行動をやめない。


 槍を掴んだまま機体を前進させ、彼女は巨人をある一点へと押し込み始めた。巨人は踏ん張っているが、ジリジリと動いている。煙幕を抜け、地面に跡を残しつつ、一機と一人は移動を続ける。


 花壇が踏み潰された。イプシロンが赤いバラを愛でていた、あの花壇だった。


 奇妙な攻防は数分も続かなかった。ついに、目標の地点へ巨人が到達した。


 俺は通信機越しにイプシロンへ言った。


「そこだ! 下がれ、イプシロン!」


 イプシロンはひねるようにして槍を引き抜くと、勢い良く後方へ跳んだ。


 俺は巨人に主砲を撃った。巨人は前と同じく身を傾けてそれを避けようとしたが、俺の狙いは奴自身ではなかった。


 猛烈な爆発が巨人の足元で起こった。破壊の魔手は業火と黒煙を纏い、破滅的な爆風と破片の雨を巨人に下から叩きつけた。


「グォオオオオッ!!」


 身の毛もよだつような、痛みに苦悶する巨人の声が聞こえる。それを聞きながら、俺はすべてが目論見通りに進んだことに内心胸を撫で下ろしていた。


 俺の作戦はシンプルそのものだった。


 巨人を不発弾の地点へと誘導し、俺がそれへ向かって砲弾を放つ。航空爆弾に充填されている炸薬は、七十五ミリ砲のそれとは比べ物にならないくらい多い。さしもの巨人も大ダメージを免れなかった。


 煙が晴れたその場所に、巨人は倒れていた。その両脚は、二本とも膝の辺りから半ば千切れかけている。鎧の各所に穴が開き、その中から真っ赤な体液が流れ出ていた。


 巨人の血の色も人間と同じなのか。俺は戦闘の最中だというのにそんな益体もないことを思ってしまった。


 しかし巨人は、まだ息があった。


 腰に提げた大型の拳銃へ手をやると、のろのろとした動きではあったがそれをイプシロンの方へ向ける。


「一人では……死なねぇ……」


 それを見て、俺は主砲を地面に投げ捨てると機体を跳躍させた。背部に装備したものを空中で構えると、着地の勢いそのままに巨人の胸へ向かって突き刺した。


 それは刺突爆雷だった。先端に装着された成形炸薬弾が即座に爆発し、強力なメタルジェットを巨人の心臓へ叩きつける。


 ぽっかりと大穴が開いたその瞬間、巨人は拳銃の狙いをイプシロンから外し、上空に向けてから引き金を引いた。


 緑色の信号弾が勢い良く上昇していく。信号拳銃だったのだ。


 俺はそれに構わず巨人を見ていた。


 彼はもう動かない。両脚は使い物にならなくなり、胸には焼け焦げた大穴。装甲板の小さな隙間から見える赤い単眼は光を失っている。


「行こう、イプシロン。格納庫へ行ってキルケたちを守るんだ」

「はい」


 その直後、俺の機体は突然動きを止められた。


 はっとして下を見ると、巨人の手が俺のΝΣの右脚部を掴んでいた。


 ゴロゴロという、巨人の断末魔の喘鳴が聞こえてくる。奴は弱々しい、それでいて勝ち誇ったような声を上げた。


「つ、掴んだぞ……アカイアの人形……」

「ウーティス様!」


 イプシロンの叫ぶ声がした次の瞬間、強い衝撃が襲い、俺の機体は倒れた。


 周りで複数の爆発が起きている。破片が操縦室に飛び込み、装甲板を留めていたリベットがはじけ飛んで金属音を立てて跳ねまわる。俺の軍服は切り裂かれ、全身の至る所から出血した。


 強い振動で俺は一時的に朦朧としていたが、ようやく状況に気が付いた。


 イプシロンが俺の機体を突き飛ばして覆い被さり、砲撃から身を守ってくれたのだ!


「ウーティス様! ウーティス様! お怪我はございませんか!?」


 イプシロンの叫ぶ声がヘッドホンから聞こえる。


 彼女がこれほど大きな声を出すのを聞くのは初めてだなと思いつつ、俺は本能のままに機体を動かし、そして答えた。


「大丈夫だ、イプシロン! 少し負傷したが、問題なくΝΣも俺の体も動く。それより、君の方こそ大丈夫か!?」


 俺は機体を起こし、傍らに立っているアイギスに目を向けた。装甲のところどころが凹み、醜い傷跡が残っているが、貫通孔は見当たらない。


 イプシロンはいつも通りの冷静さを取り戻し、しっかりした声で返答してくれた。


「私に怪我はまったくありません。オリハルコン合金装甲が守ってくれました。でも、駆動系に損害が発生しました。これ以上の戦闘行動は不可能です……」


 巨人が最期に放ったのは砲兵隊への合図だった。自分ごと弾幕射撃をしろという、一種の自爆攻撃。


 俺はその意図を読み切れなかった。そのために俺は、イプシロンに守られる結果となってしまった。


「……やってくれたな……!」


 俺がイプシロンを守るはずだったのに! 悔しさに俺は歯噛みした。


 一方、俺を掴んでいた巨人は、今度こそバラバラになった。そのたくましい四肢はすべて千切れ飛び、胴体からは真っ赤な内臓を零れさせている。


 少し離れたところに、奴の頭部は転がっていた。その口の端は満足げに歪んでいた。もう、今度こそ、奴は動くまい。


「一度体勢を立て直す。イプシロン、俺は君を格納庫へ連れていく。そこで修理を受けるんだ。スキュラなら迅速に直してくれるだろう」

「了解しました」


 俺の方にイプシロンは機体を向けた。だが、突然彼女は槍を構え直すと、一直線に俺に向かって穂先を繰り出した。


 穂先は、しかし俺には当たらなかった。


「グェエエエエッ!!」


 背後を見ると、そこには口蓋から延髄まで槍で刺し貫かれた、巨人の頭部があった。首だけで動き、俺の機体に背後から一撃しようとしていたらしい。


 イプシロンは、巨人の頭部が刺さったままの槍を遠くへ投げた。これでもう、奴は俺に危害を加えることはないだろう。


 異常なまでの戦意と、不死性を持った怪物、巨人ポリュペモス。だが俺たちは勝ったのだ。


 だが、その余韻に浸っている暇などなかった。


 ヘッドホンから聞こえてくる、ノイズ混じりの音声が、俺の神経を極度に昂らせた。


「……戦う意味は見つけたか、アカイアの兵隊人形、勇敢なるΝΣ乗り、誰でもない者よ」


 付近にしつこく垂れこめていた弾幕射撃の爆煙が晴れると、庭園の中央部の噴水に、純白の機体が存在を誇示するかのように屹立していた。


 右手には剣、左手には丸い盾。淡雪のような儚さと獣のような獰猛さを合わせ持った機体が、そこにいた。


「私は戦い、勝利する。戦う者としての霊魂が、それを望んでいるからだ。さあ君も、霊魂をかけて戦いたまえ……」



☆☆☆



「アスカニオス……来たか」


 俺の呟きが彼の無線機にも伝わったらしい。アスカニオスは、朗々たる声で宣言するように言った。


「神々に感謝しなければならないな。こうして私と君との間で、再戦の場を持つことができたのだから……」


 ことわざに「オッサの上にペリオンを積む一難去ってまた一難」という。だが、これは一難というにはいささか重い。おそらくこれが最後の、決定的な戦いになるだろう。


 対峙する時が来たのだ。


 彼を退けない限り、俺たちに勝ち目はない。俺はイプシロンに言った。


「イプシロン、すぐにこの場から離れるんだ。俺はこれから、アスカニオスを倒す。君は早く格納庫へ行け」

「ウーティス様……でも、私は……」


 俺は彼女を安心させるために、強いて優しい声音で言った。


「大丈夫だ。俺は必ず勝つ。また君と一緒に、花の中を歩きたいから。人間になった君と一緒に、また花を眺めたいから。さあ、行ってくれるね?」


 数秒間の沈黙の後、イプシロンはただ一言だけ答えた。


「ウーティス様、どうかご無事で……」


 脚を引きずるようにして、イプシロンとアイギスはその場を離れていった。アスカニオスはそれを追わなかった。


 彼女が視界から消えると、アスカニオスは俺に話しかけた。


「さあ、始めようか。早くしないと歩兵たちが介入してくる。あの工場の時のようになってしまっては興ざめだ」


 俺は地面に置かれていた主砲を再度持ち上げて装備すると、口を開いた。


「無論だ。さあ、かかってこい、『白い化け物』」


 俺と彼との距離はおよそ三十メートル。主砲を撃つには近すぎる。


 俺は先に動き、後方に跳躍して第一射を放った。弾種は徹甲弾。直撃すれば撃破可能だろうが、アスカニオスの「アルバ・ロンガ」はこともなげにそれを回避した。


 非常に動体視力に優れている。それは優れた戦士の証だ。続けて主砲を撃ちながら、俺は彼があの工場の戦い以来、さらに腕を上げているのを悟った。


 動きに無駄がなくなり、機体の制御に余分なエネルギーを費やしていない。機体を傾け、あるいは一歩分跳ぶだけで、すべての弾を回避している。


 やはり通常の砲撃では彼に有効打を与えるのは困難だ。


 俺は弾種を切り替えた。以前スカマンドロス川にて用いたことがある、榴散弾だ。これならば彼が回避しても、何発かの散弾が命中するはずだ。


 俺が射撃すると、アルバ・ロンガはそれまでとまったく同じ動きで砲弾を回避しようとし、そして散弾を浴びた。


 しかし、思った通りとでも言おうか、機体にさしたるダメージはないようだった。


 散弾は確かに彼の機体を打ったが、白い装甲は紫色の反射を見せて、弾をすべて弾き返してしまった。やはり散弾では貫通力に乏しく、効果がないようだ。


「どうした、その程度なのか? それでは怪物たちは倒せても、このアルバ・ロンガの装甲を貫いて、私を倒すことはできんぞ」


 そう言ってアスカニオスは距離を詰めてくる。驚くべきほどの瞬発力で、一気に間合いが半分近く狭まってしまった。


 俺は焦らず機体を動かし、さらに砲撃を続けた。榴散弾を撃ち続け、次第に彼がそれを避けようともしなくなった時に、俺は徹甲弾を装填して発射した。彼の思考の虚を衝こうとしたのだ。


 だが、俺は次の瞬間、驚愕した。


 アルバ・ロンガは動きを止めて俺に正対すると、高速で飛来する徹甲弾に向かって、鋭い剣の一閃を放ったのだ。


 両断された砲弾は彼の機体を避けるようにして後方へ飛び去ると、何もない空間で爆発した。


「驚いただろう。だが、私にとっては児戯にも等しい。榴散弾と徹甲弾とでは弾道の軌跡も飛翔速度も異なる。見分けるのは容易いのだ。太古の時代、優れた英雄や戦士たちは、雨と降り注ぐ矢玉すらも、剣と槍を振り回すことによって完全に防いだという。武練の極みに達したものにとって、音速に近い速度で飛来する砲弾を切断するなど、さして困難ではない」


 アスカニオスの冷静な、しかしどことなく高揚した声が聞こえてくる。


「しかしウーティスよ、君の射撃の腕は素晴らしい。弾種の切り替えという戦法は私が相手でなければ功を奏したであろう。それに免じて、もう一つ君に技を見せてやろう……」


 そう言うと、アルバ・ロンガは剣を上段に振りかぶった。


 距離はまだ充分に離れている。彼の剣が俺に届くことはない。しかし、何か嫌な予感を覚えた俺は、咄嗟に機体を動かし、回避行動を取らせようとした。


 その直後、彼の機体が紫色に光り輝くと同時に、剣が振り下ろされた。俺は目を見張った。


 何かがこちらへ向かって、砲弾よりも速いスピードで驀進してくる。それは大地と空間を切り裂き、そして瞬時に俺の機体の左手首を切断した。


 飛ぶ斬撃。そうとしか言いようがなかった。


 ヘッドホンからアスカニオスの声が聞こえてくる。


「よくぞ躱したな。大抵のΝΣ乗りならばこれで操縦席を一刀両断されるものなのだが……これこそ我がトロイア共和国の魔法工学の精緻、試製魔力式サイフォス1型だ……」


 戦闘中に随分と口が回るものだ、と俺は毒づいた。だが、それは問題の解決にはならない。


 俺は、間合いさえ保っておけば、こちらの攻撃が当たることはないにせよ、向こうから一撃をもらうことはないと踏んでいた。それが甘い考えだったことを俺は思い知った。


「まだまだいくぞ!」


 アルバ・ロンガは再度剣を振り上げると、今度は連続的に、まるで演武をするかのように、剣を振り回して無数の斬撃を俺に見舞い始めた。俺はそれを避けるのに精一杯で、応射など思いもよらなかった。


 たまりかねた俺は、最後に残っていた二発の発煙弾を発射して、大きく距離を取った。


 標的を見失ったためか暴風のような斬撃は止んだが、アスカニオスの声は続いている。


「どうした、仕切り直しがしたいのか。それとも逃げるのか。いや、そうではあるまい。君はその煙幕の中で考えているはずだ。どうやって斬撃をかいくぐって私に砲撃をしようかと。よろしい、待ってやろう。どうか考え抜いて、私を驚かせてくれ」


 彼の言うとおり、俺は思考を巡らせていた。


 射撃をしようと距離を取れば斬撃が飛んでくる。距離を詰めればあっという間に直接剣で切り裂かれる。それならば、と格闘戦に持ち込もうとしても、敵が一切油断をしていない以上、自殺行為にしかならない。


 その時だった。ヘッドホンから聞き慣れた女性の声がした。それはキルケだった。


「どう、そちらの状況は? 私たちは何とか無事よ。Ε-2号とアイギスも収容したわ」


 俺は思わず彼女に訊いていた。


「イプシロンに怪我はないか? 俺を庇って砲弾を浴びてしまった」


 キルケは乾いた笑い声を漏らした。俺が真っ先にイプシロンを気遣っているのがおかしかったらしい。


「大丈夫よ、傷一つ負ってないわ。今はスキュラと一緒に格納庫に接近してくる敵兵に対処している……ねえウーティス、随分と息を切らしているじゃない。苦戦中なの? それほどまでにアスカニオスは強い?」

「ああ、強いな。機体の性能差もあるが、アスカニオスは実に優れた操縦者だ」


 俺が素直にそう答えたことに、キルケは事態が切迫していることをすぐに悟ったらしい。


「じゃああれを使いなさいよ。あなたに渡したでっかい注射器。あれならきっと役に立つわ。ていうか、まだ使ってないの? やっぱり注射が嫌い?」

「あれか……分かった。使ってみる。あと、注射は嫌いではない」


 俺は座席下に収容しておいた合成霊魂機能向上薬が充填された注射器を取り出した。胸をはだけさせ、針先を皮膚に食い込ませる。鋭い痛みに、一瞬だけ躊躇したが、次の瞬間には思い切り突き刺し、中身を押し込んだ。


 黄金色の薬剤が俺の体内に注入されるにつれて、俺はある種の温もりに包まれた。感覚器官が異様なまでに鋭敏になっていく。


 視覚、聴覚、思考力、すべてがクリアーになり、どこまでも拡がっていきつつも一点に収束するかのような、不思議としか言いようのないほどの精神の変容だった。


「どう? すごい効き目でしょ? 理性、気概、欲望……霊魂のすべての機能を一時的に増幅する薬理作用。今のあなたなら伝説の半神半人の英雄たちと同じくらいの能力を発揮できるはずよ。あとそれ、あなたの霊魂から作ったと言ったけど、ごめんね。実はそれ、Ε-2号の霊魂から抽出して作ったの。それを言ったら、あなた断りそうだったから……それで敵の動きを完全に捕捉することが可能だわ」


 イプシロンの霊魂か。そうか、この温もりは確かに彼女のものだと感じられる。


 彼女と一緒ならば、きっと俺は勝てる。


 ちょうど、煙幕が晴れた。そこにはアルバ・ロンガが剣を構えていた。煙幕から出て来た瞬間に、俺に斬撃を放とうというらしい。敵は剣を振り下ろした。


 俺は、放たれた斬撃を完璧に目で追っていた。機体は自然と最適な動きを取り、斬撃を紙一重で回避することに成功した。


「なに? これを避けただと? 必中だったはずだが」


 困惑したようなアスカニオスの声が聞こえる。


 俺はそれを聞き届けることなく、主砲を放った。鋭くなった視力は、アルバ・ロンガが砲弾を回避する動きの「秘密」を暴いていた。


 彼は砲弾が放たれてから回避していたのではなく、俺の主砲の向きを見て、予測を立てて一瞬だけ先に動いていたのだ。恐るべきほどの戦闘センスと、繊細で大胆な操縦技術があってこその技だった。


 だが、それが分かれば、俺には対処が可能だった。砲口を向けた後、射撃のタイミングを一拍ずらす。こういった射撃は本来ならば到底不可能なほど繊細な火器管制が要求されるが、スキュラによって調整された機体と、霊魂の機能が高まった今の俺ならばできる。


 アスカニオスの動きがとてもスローに見える。敵の未来位置を予測し、連続して三発の砲弾を放つ。


 二発目までは回避されたが、最後の砲弾は盾に命中し、腕から吹き飛ばした。


「ぐおっ! 当ててきたな……! なんという変貌だ。魔法でも使ったのか……?」


 形勢は逆転した、と俺は判断した。手を休めず、俺は砲撃を続けた。


 アスカニオスは状況の変化を悟ったのだろう、斬撃を飛ばすのを止めて回避と、砲弾の切断に専念し始めた。だが、次第に砲弾の軌跡は彼を捉えつつある。


 そしてついに、俺の徹甲弾はアルバ・ロンガの機体中心部に直撃した。


 しかし、砲弾は音を立てて空中に弾き飛ばされた。着弾した白い装甲には紫色の波紋が拡がっている。あり得ない光景に、俺は目を見開いた。


「馬鹿な、そんなはずはない……!」


 喉奥から絞り出すような俺の声を聞き、アスカニオスは荒い呼吸を隠しもせずに答えた。


「ふふふ……驚いたか。私のアルバ・ロンガがこれまで抱えていた弱点の一つは、機動性を追求するあまり防御力が疎かになっていたことだった。特に工場での戦いで君にダメージを負わせられた時に、それを痛感したよ。だから私は機体を改造した。砲弾の一発や二発では撃破できないほどに、防御力を高めるように。これこそが魔力反応装甲。徹甲弾程度ならば問題はない……」


 そう言うと、彼は斬撃を放った。それと同時に俺は主砲を撃った。俺の腕の中の主砲が斬撃によって両断されるのと、砲弾が彼の剣を叩き折るのは、ほぼ同時だった。


「これで互いに武装はなくなったな……さて、どうする?」


 挑発するかのようなアスカニオスの言葉を聞いて、俺の戦意はさらに高まった。


「いや、まだだ。まだやれる」


 俺は機体を最高速力で前進させると、アルバ・ロンガに向かって体当たりの勢いで突き進んだ。アルバ・ロンガも俺とまったく同じ動きをしている。考えは同じらしい。


 武器がなくなれば、後は殴り合いしかない。徒手空拳の、白兵戦だ。


 俺は右腕を振りかぶると、奴に向かってパンチを繰り出した。それは機体の頭部に命中したが、敵の魔力反応装甲は衝撃を緩和した。


 アルバ・ロンガもまた俺の機体に、さながらボディーブローのように拳を撃ち込んできた。それは機体の中で最も厚く装甲が張られている操縦室前面に命中した。


 アルバ・ロンガは徒手格闘戦を考慮していなかったためか、その拳の威力は小さかったが、それでも俺の受けたダメージは大きかった。


 はがれた装甲の破片とリベットが飛び回り、弾け飛んだ部品が俺を打った。新たな傷から血が噴出した。


 俺たちはしばらく無言で拳の撃ち合いを続けた。無数の打撃、漏れ出るオイル、千切れたモーター。ややあって、息を切らしたように、俺たちは距離を取った。


「なかなかやるではないか……」

「お前もな。タフな奴だ……」


 アルバ・ロンガは外見上、まったく傷ついていないように見える。しかし、動きは明らかに弱々しくなっていた。


 一方、俺の機体はすでに各部の破損が著しく、あともう四回か五回の撃ち合いをすれば破壊されてしまうものと思われた。


 その時だった。俺の耳になんとも心地良い声音が聞こえて来た。イプシロンだ。


「ウーティス様。状況はいかがですか? 私はそろそろ救援にむかえそうです」


 増幅された霊魂の機能のせいか、俺の精神は非常に高揚していた。


「イプシロン、今はパンクラチオンの真っ最中だよ。互いに良いパンチを見舞っているんだが、どうにも俺の方が先にダウンしそうだ。敵は魔力反応装甲を持っていてね……」


 軽口混じりに答える俺に、イプシロンは冷静な、耳に心地よい声を発した。


「魔力反応装甲……それならば、敵は魔力炉を使用しているのでしょう。魔力炉で生み出されたエネルギーが機体と兵装、それから反応装甲の駆動に使われているのです。ですから、何らかの方法で敵の魔力炉にダメージを与えることができれば……」

「いや、それは難しいな。その魔力炉は敵の機体の一番奥深くに内蔵されているようで、外からダメージを与えることはできない……いや、待てよ……」


 俺の脳裏に、閃くものがあった。敵の動きは顕著に鈍くなっている。つまりエネルギー供給が上手くいっていないのだ。これは、反応装甲を連続使用したせいで魔力炉に負荷が掛かっている証拠ではないか。


 もし、一度に反応装甲へ大量の打撃を加えてエネルギー消費量を激増させ、魔力炉を機能不全に追い込むことができれば……?


 それならば、あの手段が使えるはずだ。最後の、たった一つ残された非常手段が。


「ありがとう、イプシロン。おかげで突破口が見えた」

「ウーティス様、今からそちらへ参ります。どうかそれまで頑張ってください」


 イプシロンとの通信が終わると、アスカニオスが俺に話しかけてきた。尊大な口調はいつの間にか砕けたものとなっていて、彼の疲労が感じられた。


「もう少しカッコいい戦いをしたいと思っていたんだけどなぁ。やっぱり実戦は違うものだね。でもウーティス君。そろそろ戦いもおしまいだ。次の一撃で勝負が決まる」

「ああ、そのようだな」


 答えつつ、俺はあるものを探していた。ありがたいことに、それは思ったよりも近くに転がっていた。


 俺はそれを右手で持ち上げると、機体背部の兵装ラックに格納した。


「準備はできた。さあ、やろうか」


 俺がそう言うと、アスカニオスは戦意を漲らせた声を上げた。


「何を拾ったか知らないが、今更そんなものはなんの役にも立たないぞ! さあ、いくぞ! アカイアのΝΣ乗り!」


 俺たちは互いに突進し、そしてパンチを繰り出した。だが、俺はパンチをわざと外れさせ、アルバ・ロンガに体当たりをし、そのまま組みついた。


 目算が狂った敵のパンチは俺の機体の左腕を粉砕したが、それは大した問題ではない。


 俺はアルバ・ロンガに抱きついたまま離れない。アスカニオスは困惑していた。


「なんだ!? 何をするつもりだ!」


 彼がそう叫んでいる間に、俺は足払いをかけて、敵を地面に倒した。そしてそのまま機体をのしかからせると、先ほど背中に格納した武器を取り出し、宙に向けた。


 俺が先ほど拾ったのは、巨人が使っていた信号拳銃だった。俺はそれを発射した。緑色の信号弾はヘビが水面を泳ぐような軌跡を描いて、天高く昇っていった。


 アスカニオスの焦ったような声が聞こえる。


「弾幕射撃の要請!? 馬鹿な、自分もろとも私を倒すつもりか!? だが、私にはまだ反応装甲がある……!」

「そうだろうな。だから、これが必要なんだ」


 そう言うと、俺は計器盤の左端にある、強化アクリル樹脂でカバーされた赤いボタンを叩き押した。


 そして操縦席のハッチを開けると、出血と疲労でボロボロになった体を這い出させ、力なく地面に落ちた。


 ヘッドホンからはまだアスカニオスの声が聞こえてくる。


「何をするつもりだ、操縦席から出るなんて、勝負は終わっていないぞ……!」


 時間は二十秒しかない。それよりも早く弾幕射撃が来る可能性もある。


 俺は力の限りその場から走って離れようとしたが、それは単なる歩みのように、遅々としたものだった。


 肉体は疲労していても、感覚は研ぎ澄まされたままだった。俺の聴覚は、無数の何かが空中を飛来してくる音響を捉えた。


 戦闘によって穿たれた地面の大穴に、俺は最後の力を使って飛び込んだ。


 次の瞬間、俺のΝΣが爆発した。弾薬庫に仕掛けられた自爆装置は、スキュラに頼んで爆薬量を二倍にしてあった。それが残っていた弾薬を誘爆させ、燃料タンクをも破壊し、壮大な紅蓮の火炎と爆発を巻き起こした。


 アルバ・ロンガは、しかしそれに耐えた。だが、反応装甲の証である紫色の魔力光は、もはや掠れてほとんど目にできないほどになっていた。


 弾幕射撃が、彼にトドメを刺した。降り注いだ敵の砲撃は、正確にアルバ・ロンガと、もはや残骸になってしまった俺のΝΣに直撃し、破壊の嵐を現出させた。


 砲撃は二分ほど続いた。あまりその場から離れていなかったが、俺は奇跡的に無傷だった。


 俺は、戦いの前にイプシロンが言っていたことを思い出していた。あの占いを読み解いた、彼女の言葉を。


「……私たちは生き残ります。戦い抜いて、生き残ることができます」


 そうだ。その言葉を信じていたから、俺は自爆を決断することができた。捨て身の攻撃ではあったが、死を覚悟してはいなかった。


 俺にはイプシロンがいる。この戦いの間も、いつもイプシロンがそばにいてくれた。


 俺は心臓をおさえた。ここに、彼女の霊魂が宿っている。


 その時、呻き声が聞こえた気がした。


 見ると、アルバ・ロンガは未だに原型を保っていた。だが、混合濃縮エーテル液が不完全燃焼する青黒い煙を機体各部から噴出させている。どうやら、魔力炉が過負荷の末に崩壊したようだった。


 機体のハッチが開くと、中から傷ついたアスカニオスが脱出してきた。


 彼の純白の軍服は血で真っ赤になっていたが、その目は生気を宿している。よろよろと、今にも倒れそうな足取りで、彼は俺の方へ向かってきた。腰には細剣を帯びていた。


 俺は腰の拳銃を抜くと、彼に向けた。彼は無言で剣を鞘から抜き、じっと俺を見た。荒廃した屋敷の庭園を、一陣の風が吹き抜ける。その瞬間、俺は拳銃を下げていた。


「撃たないのか? 自爆攻撃をする君なら、躊躇なく撃つと思っていたが」


 そう訊く彼に対し、俺の口は自然と動いていた。


「アスカニオス、戦う意味を見つけたかと俺に訊いたな。お前のおかげで、俺は大事なことに気付けたよ。感謝する」


 これまで俺は、一体の兵隊人形として、命令されるままに戦ってきた。そこに俺の意志はなかった。俺があの作戦で強要された自己犠牲と死は、究極的には無意味なものだった。


 だが、今なら俺は、自己を捧げるということについて答えを出せるかもしれない。それは破れかぶれの、自暴自棄的な行為ではない。


 たった一つしかない霊魂を、それなくして生きていくことができないものに捧げる。


 それが人形ではなく、人間にしかなし得ない、真の意味での自己犠牲なのだろう。


 イプシロン。戦いが終わった今、彼女がとても愛おしく感じられる。


 そうだ、俺はもう、人間に戻りつつあるのだ。


 彼女がいなければ、俺は生きられないだろう。彼女のために、俺はすべてを捧げられる。血も、肉体も、そして霊魂すらも。


 懐かしい駆動音が響いてきた。そこに来たのは、一機のΝΣ124型だった。格納庫にあった別の機体だろう。操縦席のハッチが開くと、イプシロンが顔を出した。


「ウーティス様……! ご無事で良かった、本当に……さあ、格納庫へ」


 イプシロンはすぐに右手で俺を掬い上げた。それでも、俺はまだアスカニオスを見ていた。


 彼もまた、俺を見つめていた。そして、幾ばくかの苦渋と、それ以上の晴れやかさを表情に浮かべて、俺に言った。


「ウーティス君、今回は私の負けだ。私は幸せだ。君のような好敵手に出会うことができたのだから……さあ、行くが良い。戦いはまだ終わっていないぞ……」


 イプシロンは全速力で機体を走らせ始めた。空いている左手も俺に添えている。


 俺は激しく揺さぶられながらも、一種の満足感を覚えていた。戦いを終えてこのような気分になるとは、薬のせいか、それとも別の要因によるものか……


 かなりの負傷だったが痛みは感じなかった。数分後に機体は格納庫に到着した。周りに敵はいない。


 霞みつつある視界を上げると、そこにはスキュラがいた。彼女は例の怪物の姿になっていた。腰の六つの犬の首は唸り声を上げ、魚の下半身はヒレをビチビチと動かしている。両腕で重機関銃を抱えており、上半身には何重にも弾帯を巻きつけていた。


「入って! 早く!」


 その時、敵空挺兵が群がり寄ってきた。


「オラオラー! 近寄ってくる奴らはこうですわー!」


 スキュラはそれを掃射した。彼女の援護の元、俺たちは格納庫へ入った。


 スキュラが続いて入ると、音を立ててシャッターが閉じられた。


「敵兵が接近しておりましたが、わたくしと人形たちで追い払いました。人形は全滅しましたけど……それよりも酷い負傷ですわ。はやくお母様に治療してもらいましょう……」



☆☆☆


 

 俺が目を覚ました時には、もう夜になっていた。


 横を見ると、イプシロンが跪いて俺の汗を拭ってくれていた。綺麗な紅い目には涙が浮かんでいる。


「ありがとう、イプシロン」


 そう言うと、彼女は安心したように頷いた。


「お目覚めかしら? 無事……とは言い難いけど、とにかく生還してくれて良かったわ。ええ、本当に良かった……」


 声がした方を向くと、そこにはキルケがいた。床に直に座ってあぐらをかき、足の間に大きな酒瓶を置いている。その横にはスキュラがいて、彼女も酒瓶を抱えていた。


「もうね、飲まなきゃやってられないのですわ。あーあ」

「そうそう、もう飲まないとやってられないというか何というか」


 どうやら酒盛りをしていたらしい。これほどみじめな酒盛りがあるのだろうかと思っていると、外から声が響いてきた。


 拡声器で増幅されたその声に、俺は聞き覚えがあった。


「……魔女キルケとその部下たちよ! 私はトロイア共和国軍のアイネイアスである。諸君らは勇敢に戦った。私は諸君らの武勇を嘉するものである。私の名において身の安全は保証する。諸君らは完全に包囲された! もはや逃げることはできない。これ以上の戦いは無益である。明朝、武器を持たずに格納庫を出よ! 決して諸君らを傷つけはしない。私の責任において首都へ無事に護送するであろう……」


 キルケが酒瓶を持ち上げ、中身をラッパ飲みした。少し咳き込むと、俺の血で汚れた白衣からシガレットケースを取り出し、煙草を咥えて火を点けた。


「さっきからピーガーピーガーうるさいのよね……そりゃアイネイアス将軍は私たちを傷つけないかもしれないけど、首都に行ったら死よ、死」

「それにしてもなんで敵は一気に突入してこないのでしょう。もうわたくしたちには戦う力は残されていないのに」

「さあね。空挺降下までぶちかましておきながらこの期に及んで体面を保とうとしているのか、あるいは自爆とかを恐れているんじゃないかしら。ウーティスがアスカニオスにやったみたいな自爆をされたら、私はともかく、回収対象であるΕ-2号もアイギスも吹っ飛んでしまうし。そんなことしないのにね。あーあ」

「万策尽きましたわね。イーちゃん、ウーティスも目が覚めたことですし、あなたもこっちに来て一緒にお酒を飲みましょう」


 俺は半身を起こし、口を開いた。声が掠れているのが自分でも分かった。


「本当に、もうどうしようもないのか。まだ方法は残っているじゃないか」


 イプシロンが俺の背中を擦り始めた。キルケは酔眼をこちらに向けた。


「何が残っているのよ? アラライ(万歳)突撃とか?」

「いや、そうじゃない。イプシロンだ。彼女に魔法を使ってもらえば一発逆転だろう?」


 俺の言葉にキルケは首を左右に振った。


「それは無理よ。結局、Ε-2号の霊魂が規定の出力に達する前に奴らが来てしまった。本当に、作戦負けね。プロの軍人には敵わないわ」

「いや、それは大丈夫だ。俺の霊魂を分ければ良い。あなたの魔法を使えば、この場でもイプシロンに霊魂を分与することは可能なはずだ」


 キルケは叫んだ。


「馬鹿言わないで! そんなことをしたらあなたの寿命が縮むじゃない! それに前にも言ったでしょう、そんな術を使うのは魔女としての正しさに反するって……」

「キルケ」


 初めて彼女のことを名前で呼ぶと、キルケは驚いたような顔をした。俺は言葉を続けた。


「キルケ。正しさというものは美しい。それは、正しさを信じているあなたを見れば分かる。だが、正しさのために人が死ぬようなことがあってはならないとも、俺は思う。この戦争で、多くの人間が自分の正しさを信じ、相手の正しさを否定するために殺し合いをしている」


 痛みを堪えて俺は体の向きを変えると、真正面から彼女と向き合った。


「あなたは自分の正しさを信じながら死にたいのかもしれない。それは俺にも良く分かる。俺の仲間たちも、俺の小隊長も、きっと最後まで正しさを信じたまま死んだのだと思う。俺も死ぬ時は、自分の信じる正しさを保ったまま死にたい。それでも……」


 俺は言った。


「俺はまだ死にたくない。あなたを死なせたくない。それに、イプシロンもスキュラも死なせたくない。生きたいんだ。たとえ寿命が減って、この戦いの後にほんの僅かしか人生を送ることができなくなっても、俺は生きたい。そのためならどんな手段でも構わない。なにもかも捧げても構わない。俺は幸せになりたいんだ」


 俺は叫んだ。


「俺はイプシロンと一緒に、幸せになりたい! 誰かに操られるだけの人形ではなく、一人の人間として、イプシロンと一緒に幸せになりたいんだ! 理屈じゃない、俺の霊魂がそう求めているんだ!」


 沈黙があたりを包んだ。誰も口を開かない。外からの声も止んでいた。


 ややあって、キルケが声を上げた。


「あちっ! あつ、あっち!」


 見ると、彼女が指に挟んでいた煙草が燃え尽きようとしていた。彼女は煙草を大慌てで投げ捨てた。


「ふふ……ははは」


 その様子がどうにもおかしくて、俺は笑ってしまった。


「お、お母様……ぷっ、ぷぷ、ぷふふ」


 俺につられて、スキュラも笑い始めた。


「ちょっと二人とも、何を笑っているのよ……ふ、ふふふ、アハハハ」


 当の本人のキルケも、渋い顔を転じて笑っている。


 イプシロンは表情を変えないが、何となく明るい雰囲気が伝わってくる。


 ひとしきり笑った後、キルケは軽く首を振りつつ口を開いた。


「分かったわ、分かった。実を言うとね、私も生きたいのよ。生きて研究を続けたいし、スキュラとΕ-2号と一緒にまたお酒を飲んだり、料理を楽しんだりしたいわ。あなたもよ。あなたの輝く霊魂をもっと研究したい。良いでしょう、今、この時だけは、正しさに反することをします。術を行使しましょう」

「早速やろう。夜明けまで時間がない。それで、俺は何をすれば良い?」


 キルケは答えた。


「あなたにやってもらうことは二つだけよ。一つ、私が呪文を唱えている間、あなたの愛するΕ-2号を抱いていて。もう一つ、私が呪文を唱え終わったら、Ε-2号の口にキスをしてちょうだい。それで霊魂の分与がなされるわ」

「キス?」


 思いがけぬ言葉に声を上げる俺に、キルケはニヤリと笑みを浮かべた。


「舌を入れちゃうくらい、熱烈なものよ。そうじゃないと意味がないわ。前に言ったかしら? 霊魂には『息』という意味も含まれているって。息が出てくるその器官と器官を重ね合わせることで、霊魂は自在に双方を行き来するわ」


 俺はぽりぽりと頭をかいた。


「まあ、了解した。初めてだから上手くいくか分からんが、全力を尽くすよ」

「安心しなさい、Ε-2号だって初めてよ。それに初めてのほうが却って情熱的なキスができるものよ、たぶん。さあ、抱き合って」


 キルケに促されて俺は立ち上がると、イプシロンと向き合った。彼女は黒の操縦服に身を包んだままだった。真紅の瞳で真っ直ぐに俺を見つめている。


「イプシロン、良いかい?」

「ウーティス様」


 彼女は自分から俺に抱きついた。俺も彼女を抱きしめた。スキュラが声を上げる。


「あー、良いなぁ。わたくしも後でイーちゃんに抱きしめてもらおうっと」


 キルケが厳かに言った。


「それでは、これより霊魂分与の術式を発動します」


 続けて、彼女の口から聞き慣れた呪文が唱えられる。


「……女神プシュケーよ、汝傾聴して我に答えたまえ

願わくは我が霊魂を守り給え

同胞の霊魂を守り給え

我ら汝を敬う者なればなり

汝の被造物たる霊魂を悦ばせたまえ

我らの霊魂は汝を仰ぎ望む……」


 キルケの体から紫色の魔力の波動が放出され、それが俺たち二人を暖かく包み込む。


 呪文が終わったその瞬間、俺は目を瞑り、イプシロンと唇を重ね合わせた。

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