第一楽章 催馬楽音維
新しい街、新しい学校、そして新しい自分。音楽から離れる決心をして進学した威風堂高等学校は、まさに自分が望んでいた「何もかもが違う場所」だった。
入学式当日、冷たい風が頬をかすめる。俺は桜の花びらが風に乗って舞い散る様子を見ながら学校に向かって歩いていた。
「よっ! 礼!」
明るい聞きなれた声と共に背中を軽く叩かれ、振り返ると、そこには幼馴染みの竜ケ崎龍蛙が立っていた。
「おはよう、龍蛙」俺は軽く手を挙げて挨拶を返した。
「お前、ずいぶんと気取った顔してるじゃん。入学式だからってそんなに構えることないだろ?」
「気取ってるわけじゃない。今日は入学式だろ、ちょっと考え事をしてただけだ」
「考え事? お前が?」
龍蛙は冗談っぽく笑いながら肩をすくめた。その無邪気な態度に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。こいつと一緒にいると、どうしても昔の自分に引き戻されそうになる。それは心地よい反面、どこか不安でもある。
「あはは、冗談だよ。それで、考え事ってなんだよ? 親友の俺に教えてみそ?」
「どの部活に入るか考えてただけだ」
「あ~部活ね~俺も決めてなかったな」
「帰宅部でもいいが、せっかくなら青春を送ってみたい。なにかアドバイスはあるか?」
「アドバイスねぇ……」
龍蛙はスマホを取り出し、『威風堂高等学校 部活』と検索し始めた。
「ここの学校、運動部が強いらしいぞ! バスケとかサッカーとか結構いい成績を出してるぜ」
「運動部か……」
俺は運動が得意ではない。そして、バスケやサッカーなどの黄球技系は大の苦手だ。
バスケをしていたときは、敵のゴールにシュートしたときには味方のゴールに入っていたし、サッカーボールを蹴れば人の股間に必ず当たってしまう。などのことがあったから苦手だ。
「そういえば、礼は運動系が苦手だったな……ま、まぁ、学校入ってから決めればいいんじゃないか? 部活は色々あったし礼に合う部活も見つかると思うぜ」
「そうだといいが」
校門をくぐると、見慣れない光景が目に飛び込んできた。制服に身を包んだ生徒たちがあちらこちらで笑顔を浮かべて話している。俺にとってはどこか疎外感を感じる場所だが、龍蛙は気にせずにその中に溶け込むように進んでいく。
「俺たちの教室、B組は確か2階だったよな?」龍蛙が地図を見ながら確認してきた。
「そうだな。早く教室に行こう」
俺たちは2階に向かう階段を上がり、廊下を進む。そのときだった。ふと耳に入ってきた音が龍蛙の足を止めた。
何かが聞こえる。楽器の音だ。音的にはトランペットだろうか。
「おい礼! 聞こえたか?」
「聞こえたかって、トランペットの音か?」
「音楽とは無縁の地にトランペットを吹いているやつがいるんだ!」
「意外だな……この学校には吹奏楽部はないって聞いていたんだけどな」
「音がするのは……音楽室だな。ちょっと見に行ってみようぜ!」龍蛙が俺の手を引っ張り、音の方へ歩き出す。
音楽室の前に立つと、扉はほんの少しだけ開いていて、そこからトランペットの音が漏れ聞こえてきた。音色はたどたどしいが、懸命に吹いているような熱意が伝わってくる。
「……誰が吹いてるんだ?」と呟きながら、龍蛙は静かに扉を開けた。
中にいたのは一人の少女だった。黒いボブカットの髪をした彼女が、トランペットを手に持ち、集中した面持ちで吹いていた。
その音色は決して上手いとは言えないが、どこか懐かしさと温かさを感じさせるものだった。俺は彼女の演奏に一瞬、息をのんだ。音楽に背を向けていたはずの俺が、どうしてかその音に心を引き寄せられている。
「おい、礼。どうするよ?」龍蛙が耳元でささやいた。
その声で我に返り、俺は音楽室の扉を閉めようとした。しかし、その瞬間、少女が俺たちに気づいたようで、トランペットを下ろし、こちらをじっと見つめた。
「ごめん、邪魔するつもりはなかったんだ」と俺は言いながら、急いで扉を閉めようとした。
「待って!」少女が俺に向かって声をかけてきた。俺は戸惑いながら扉を少し開け直した。
「君、もしかして……瀬戸名礼くん?」彼女はそう尋ねた。
「どうして俺の名前を……?」俺は驚き、彼女を見つめ返した。
「やっぱり……。中学の吹奏楽コンクールであなたの演奏を見たの。すごく素敵だったから覚えてる。ずっと憧れてたんだ」
「俺に……?」そんなことを言われたのは初めてだった。俺はどう答えていいか分からず、ただ立ち尽くしていた。
少女はにこりと笑って、トランペットを手に取った。
「名前は催馬楽音維。よろしくね、礼くん」
「ああ……よろしく、催馬楽」俺は思わず名前を返していた。
「でも、なんで礼くんは吹奏楽部が無いこの高校にいるの?」
「音楽の才能がないからここに来たんだ」
催馬楽はその言葉に一瞬驚いたようだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「才能がない、なんて……礼くんが自分でそう言うなんて、意外だね。でも、私が見たあの演奏は本物だった。少なくとも私はそう感じたよ」
彼女の言葉に胸がチクリと痛んだ。自分では否定してきたものを、他人が簡単に肯定してくる。俺は言葉を返すことができず、ただ黙って彼女を見つめた。
「ねえ、礼くん。もしまた吹きたくなったら、私と一緒に演奏しない?」
「……」
その誘いに対して、俺はどう答えたらいいのか分からなかった。吹奏楽部のないこの学校で、まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかった。
なんて答えたらいいんだ。
「あーーーー!」
さっきまで無言だった龍蛙が突然大声を上げた。
「どうした?!」
「もうこんな時間だ! 教室にもどるぞ。礼!」
龍蛙に無理やり腕を引っ張られた俺は、そのまま教室へ向かうことになった。廊下を急ぎ足で進む中、頭の中では催馬楽の言葉がぐるぐると回っていた。
『もしまた吹きたくなったら、私と一緒に演奏しない?』
そんな誘いを受けるとは思ってもいなかったし、それにどう返事をしたらいいのか全くわからない。俺は音楽から逃げてきたのに。
「礼、急げ! 入学式が始まっちまうぞ!」龍蛙がせかす声に、俺はハッと我に返る。
「分かった、分かったから引っ張るのはやめてくれ! 自分で走るから!」
結局、催馬楽に何も返事をしないまま、俺たちは教室へと急いだ。
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