第7話 真相


 私はまた、橋の上にいた。

 雲が多すぎて夕陽は見えない。夕暮れ時になってもマジックアワーは訪れなかった。


 さてこれからどうしよう。警察に行って井上さんに話をつけようか、家に帰ってから友人に相談しようか。


 実家に帰ってしまうのも手だ。職場にはしばらく有給休暇をもらいたいな。


 こんな優柔不断な性格だから、島田もどこぞの女に走ったのだろうか。私はぼんやりと死んでしまった元恋人の軽薄そうな顔を思い浮かべた。


 浮気相手の名前はユミちゃんって言ったっけ。どんな女の子なんだろう。何も知らないや。私よりかわいかったら、なんかむかつくな。でもきっと、かわいいんだろうな。


 そういえば、島田の身に起こったことを、ユミちゃんは知っているのだろうか。


 知らなかったら、今頃どんな気持ちで島田からの連絡を待っているんだろうな。

 私は取り留めもないことをずっと考えていた。結論が出ないことを考えていたかったのかもしれない。


 しかし、島田のことを考えながらも、頭の片隅では「あの人」がここに来ると、確かに予感めいたものを感じていた。


 そして案の定、「あの人」はやってきた。心底驚いた顔で、

「佐藤さん、どうしてここに——」

 などという。


「ここにいれば会える気がして」


 少しだけ強く風が吹く。

 彼は眉を八の字にして、困惑とも悲しみともとれる表情になった。

 私は言った。


「ねぇ奥田君、なんで島田を殺したの?」


     ※


 どれだけ沈黙が流れたのだろう。

 何分も経って、ようやく彼が発した言葉は「どうしてわかったんですか」だった。


「ずいぶんと呆気なく認めるのね」

「長くは逃げられないだろうと思っていたので」

 彼は寂し気に微笑んだ。


「――考えてみれば簡単な話なのよ」私は少しずつ言葉を選んで話し始めた。「君は、私に、親切すぎた」


 見ず知らずの女が川を見つめて泣いている。そんな見るからに厄介ごとなのにわざわざ首を突っ込み、話を聞き、家まで送る。そんな都合のいい話があるものか。昨日の私はそのことにまったく気付けていなかった。


「奥田君は、最初から自分のアリバイを私に証明させるために私に近づいたのよね」

 彼は黙っていた。

 沈黙が、何よりの「答え」だった。


 私は意を決して続ける。


「仕事が終わった後、私と一緒にアパートに来たということにすれば、アリバイが作れるって考えたのよね」

「とっさに思いついたにしては、いい作戦だったと思いませんか?」

「少なくとも私はまんまと騙されたよ」胸がチクリと痛む。「昨日、一緒にアパートに帰ってきたとき、君はすでにバスルームで何が起きているのか知っていた。当たり前よね、自分で殺したんだもん。――二人で死体を発見した時、奥田君はすぐに死体に近づいて脈を取ったじゃない? 本当、何のためらいもなく」


 あの時は別段不思議には思わなかった。なんて行動力のある人だ、と感心すらしていたほどだ。


「でもさ、普通、ああいうときって、倒れている人に声をかけるよね。まずは大きな声で呼びかけるよね。『大丈夫ですか?』とかさ」

 奥田君はアア……と記憶を探るように宙を見つめた。いつの間にか八の字眉は消えていた。どこか晴れ晴れとした表情にも見える。


「なんであの時、君はすぐに死体に駆け寄ったのか。今ならわかるよ。一つは、声をかけても無駄なこと——アイツがすでに死んでいることがわかっていたから。そしてもう一つは——」

「僕がスペアキーを隠し持っていたから?」


 私の言葉を遮るように奥田君は言った。

 私は頷く。


「奥田君は島田を殺害した後、彼の持っていた部屋のスペアキーを奪って、部屋を出た。あの部屋が密室だったのは、ただ単に君がカギを閉めていったからだったんでしょ? どうして私がすぐに部屋に戻らないことが分かったのか――それは知らないけど、結果、私はまだ橋の上で川を眺めながらたそがれていた。そしてこの橋の上で何食わぬ顔で私に近づき、一緒に犯行現場に戻ってきた。君は、バスルームで島田の脈を確かめるフリをしながら、スペアキーを彼の衣服に滑り込ませた——こっそりと、私の目を盗んで」


「すごい、佐藤さん。本物の名探偵みたいだ」奥田君は心底感心したように首を縦に揺らした。「あの時はハラハラしました。佐藤さん、島田さんのこと凝視してたから——。だから佐藤さんより早く死体に近づいて、死角を作る必要があったんです」

「すごいのは奥田君の方だよ。ずっと、私の前で演技していたんだもんね」


 周囲が少しずつ薄暗くなってきた。

 電車を利用すれば、この橋の上から自宅アパートまで十五分もあれば着く。殺害に十五分かかったと仮定して、往復しても一時間弱。私が橋の上で物思いに耽っていた時間もおよそ一時間と少し。


 計算上、犯行は可能なのだ。


「僕、ずっと島田さんに復讐する方法を考えていたんですよ」

「復讐?」

「はい。島田さんの浮気相手――ユミは、僕の彼女だった人なんです」


 え——私は絶句した。


「もちろんユミは自分が浮気相手だなんて知りませんでした。島田さんと付き合うために僕と別れたユミは、ある日、自分が『彼女』ではなくただの『浮気相手』だったと知りました。そのショックと後悔の念から、先月ユミは投身自殺をはかりました。――一時的に一命は取り留めましたが、いつ意識が戻るとも分からない状態。僕は、ユミをこんな風にしたヤツが許せませんでした」


 内容と裏腹に、淡々と喋る奥田君の声は冷たく、まるで人間的な感情を失ってしまったようだった。それがかえって、怒りの強さを物語っているように感じて、身体の芯が寒くなった。


「興信所に調べてもらった結果、島田さんのことはすぐに分かりました。もちろん、交際相手の佐藤さんのこともです。だからあの日、バイト先の橋の上でお二人が喧嘩しているのを見た時、強い運命のようなものを感じたんです。僕は慌てて逃げだした島田さんを追いかけました。電車に乗ってまっすぐ向かった先が、自宅の高円寺ではなく、佐藤さんのアパートだったのには驚きましたが——。僕は彼が部屋に入っていくのを確認した後、後を追ってドアを引きました」


 島田は私の部屋に侵入したが、カギをかけてはいなかったようだ。


「島田さんは突然玄関を上がってきた僕に驚いたようでしたが、僕がユミの名前を出すと半笑いで——そう、あの人、笑ったんです——こう言いました。『俺は悪くない。あの女が勝手に勘違いしただけだ』って」

「あの男、よくもいけしゃあしゃあと……」

 思わず口に出したが、二の句が継げなかった。そんな男を好きになってしまったのは、ほかでもないこの私なのだ。


「そこからは佐藤さんの推理通りです。僕は彼をバスルームまで追いつめて殺害し、警察の捜査の目くらましのためにベランダのカギを開け、玄関の入り口を施錠してから橋の上に戻ってきました。そして、橋の上で今にも飛び込みそうなあなたを見つけて——」

「利用するために声をかけてきたのね」

「はい。すいませんでした」奥田君は深々と頭を下げた。「正直、これからどうしようか全然考えていなかったんです。とにかくここに戻って来て考えようと思って――。橋の上で空を眺める佐藤さんを見つけた時、運が、天が、僕に味方しているように思っちゃったんです」


 すべてが偶然。偶然が折り重なって、事件が起き、謎が生まれた。計画なんてない。全くの偶然。急ごしらえの密室と、アリバイトリック。


「ねぇ奥田君、モスグリーンのエプロン――。あの格好のまま島田を尾行していたの?」

「アア、あれは、あの時間まで仕事していたと思わせるために着替えたんです」

 だろうな、とは予想していた。


『純喫茶ブリッジ』の営業時間は十七時半まで。さらに昨日は店長の都合で営業時間を短縮していた。そこから閉店作業をしていたにしては、彼が現れた時間は遅すぎた。

 とっくに、店の締め作業は終わっていたのだ。


「これからどうするの?」

「警察に行こうかと思います。もう逃げる必要もないので」

「逃げる必要――って、どういうこと?」

「今朝、ユミが亡くなりました」


 私は息を飲んだ。奥田君の声は少しだけ震えていた。


「そんな——」

「僕がトリックを仕掛けたのは、ユミに自分のせいで僕が殺人を犯したって思ってほしくなかったからです。彼女に罪悪感を抱いてほしくはなかった。――でも、もう彼女はいません。僕が捕まっても、何も問題はない」


 言葉がなかった。

 何といえばいいのか分からなかった。


 二人の間に少しだけ冷たく湿った風が通り抜けた。微かに濡れたコンクリートの匂いもする。もしかしたら雨が近づいているのかもしれない。

「あ、そうだ。佐藤さん」ふと思いついたように彼は言った。「結局どうして僕が犯人だって分かったんですか? 自分でいうのもおかしな話ですが——昨日は、あんなに僕のことを信用してくれていたじゃないですか」

「アア、それね」私は記憶を手繰り寄せながら言った。「昨日奥田君、言ったの。『大家さんに頼んでカギ交換してもらったらどうですか?』って」

「――あッ」

 彼はここで初めて焦ったような顔になった。


「ウチには大家さんがいるって、なんで知ってるの? 令和のこの時代に、管理人でも、管理会社でもなく、『大家さん』って言った——つまり私の家を知っているってことでしょう?」


 奥田君の眉は、再び困ったように八の字を描いていた。


     ※


 後日談。


 事件が解決して数日たったある日、私は隣の家に住む安井章に部屋の前でぱったり遭遇した。私は心の中でだが犯人扱いしてしまった後ろめたさもあり、

「例の件ではお騒がせしました」

 と頭を下げた。事件のことは新聞などでも報道されたし、この隣人にも知られているのは間違いないと考えたからである。


 安井はビン底のような眼鏡の奥からジロリと私の顔を一瞥し、言った。


「パトカーの中に一緒にいたあの若い男が犯人だったのだろう」


「えッ」

 私は驚きのあまり勢いよく顔を上げた。

「あの夜だ。俺は自分の部屋の窓から駐車場を見ていた」


 確かにあの日、パトカーの周囲には野次馬がいたし、視線もあった。見られていたとしてもおかしくはない。

 しかし――

「どうして彼が犯人だって——?」


 安井は言った。

「あんなに近くにいて気が付かなかったのか? あの若い男、駐車場でホッとした顔をしていたぞ。まるで、計画通りに事が運んで一息ついたかのようにな。あれは疲れや憔悴ではなく、安堵だ。これから警察の取り調べを受けようって人間の顔じゃなかった」


 そうだっただろうか。必死に思い出そうとしてみる――が、思い出せなかった。


「――でも、まさかそれだけのことで?」

「アア、それだけだ。では、失礼する」

 安井はこともなげにそう言うと、そそくさとどこかへ行ってしまった。

 私はしばらく呆気に取られていた。


 相変わらず、謎の多い男である。釈然とはしないが、世の中にはどんなに考えても分からないことが存在するのだ。きっとあの男のことは永久に理解ができないだろうし、したいわけでもない。


 謎は謎のままでも悪くはない。そういうものだし、それでいいのだ、きっと。


 私は空を見上げた。

 東京の空は狭い。

 田舎へ一度帰ることにしよう。私は思った。事件のことで母にも心配をかけたし。顔を見せて、少し安心させてあげよう。落ち着いたらこのアパートからも引っ越して、新しい街で、また新しく生活を始めてみよう。


 私には心の整理をする時間が必要だ。そう思った。ゆっくり、ゆっくり、これからのことを考えていけばいい。


 今はまだ難しい。しかし、島田というロクデナシに振り回された二年間ともこれでお別れだ。神田川の川底に沈んでいったアイフォンとともに。



                                   了

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別れの色はモスグリーン 小寺無人 @kodera_nobel_

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