第6話 偶然


 そこからどういう経路をたどって走ってきたのかは覚えていない。

 気付いたらあの橋の上にいた。


 生きている島田と相対した最後の場所である。


 しまった、と思った。手元にアイフォンはない。安井のこと、そして密室ができた理由のこと、家を出る前に警察に知らせておくべきだったか。


 どちらにせよ外に飛び出してしまった以上、警察に電話をする手段は公衆電話しかない。少し気持ちを落ち着かせてから、周囲を見渡すがそれらしいものはなかった。さすが令和の時代だ。


 早く井上に知らせなければ、と思う反面、本当に決めつけてしまってもいいのか、という思いもあった。橋の欄干に手をかけて少し考える。


 昨日と変わらぬ同じ川面。二十四時間前までは、私はあの男をぶっ殺そうとまで考えていた。実際、彼は殺された——らしい。まだ信じられないが、警察の捜査によれば、島田は殺人事件の被害者ということになる。


 もしあれが他殺体なのだとしたら、犯人は安井以外考えられない。部屋のスペアキーは島田が持っていたはずだし、昨夜の井上さんの話によれば島田は合鍵を所持していた。玄関から逃走したのであれば、部屋のカギを閉めることは不可能のはずだ。

 実際には施錠はされたままだったのだから、犯人はベランダから逃走したに違いないのだ。それができるのは隣人の安井だけのはずだ。


(あの男がどうして——)


 動機だけはピンとこなかった。しかし、理屈で考えれば考えるほど、安井以外に島田を殺せた人間はいないように思う。

 だけど。

(奥田君は、この話をどう考えるだろう)

 すごく興味がわいてきた。


 昨夜の出来事が脳内にフラッシュバックする。奥田君は、まるで小説やドラマの中の名探偵のように論理的に行動していたように思う。あまり推理小説を読まない私でもそう感じた。

(ひょっとして奥田君なら、私とは違う脱出方法が思いつくかもしれない!)


 私は橋を渡った先にある『純喫茶ブリッジ』へと足を向けた。


 店の外からではうまく中の様子は見えない。私は入り口のドアを押した。カラン、と鈴の音が鳴って、奥から「いらっしゃいませ!」という女性の声が聞こえた。


 期待していた奥田君は現れなかった。白いブラウスにモスグリーンのエプロンをかけたウェイトレスーが近寄って来て、カウンター席に案内してくれる。カウンターの向こうには店長と思しき背の高い男性が珈琲ミルを回している。レトロで小ぢんまりとした雰囲気の良いお店だな、と来るたびに思う。

 以前、ここの珈琲が飲みたくて何度か足を運んだことがあった。その時も感じのいい女性店員が案内をしてくれたとうっすら記憶している。そのとき奥田君がいたかどうか——思い出せなかった。

 私はいつものようにブレンド珈琲を注文する。


(今日は奥田君は不在なのかな——)


 やはり店内を見渡しても彼の姿は見えない。

 私は思い切ってカップに珈琲を注ぎ終えた男性店長に声をかけてみた。


「あ、あの、すいません」店長はこちらに顔を向けた。「ここで働いている——奥田って子はいませんか?」

「アア、君は奥田君の知り合い?」

「そうです」

「実はね、今日は急遽来られなくなってね」

「えっ」

「体調が悪いって話なんだけど、彼が欠勤なんて珍しくてね。僕たちのほうが彼の状況を知りたいくらいなんだよ」

「そうそう、トモ君が休むなんてめったにないんですよー」

 女性店員が空のカップを片付けながら会話に割って入ってきた。色白だけど健康そうな、可愛らしい子である。


 私は昨日彼と一緒にいたことや事件のことを話そうか迷った。しかし、そうなると奥田君にも迷惑がかかる心配がある。


「真面目なんですね、奥田さん」

「今時珍しいよ、彼みたいな青年はね」

「トモ君が休むなんてよっぽどだと思いますよー。お姉さんはどういう知り合い何ですかー?」

「あ、えっと、友達です」


 昨日知り合ったばかりとはさすがに言いにくい。

「そうなんですねー」この子は語尾を伸ばす癖があるようだ。「私昨日も彼と一緒だったんですけどー、私が帰った後も残って頑張ってたみたいでー」

「昨日までは元気そうだったんだけどね。僕も用があったから閉店時間を早めて、締めの作業は全部奥田君に任せていたんだが——」

 店長と女子店員は顔を見合わせて「うーん」と首を傾げた。


 確かに昨日、『閉店時刻だから締めの業務をしていた』と言っていた。おそらく一人で店に残って作業をしていたのだろう。


「もしトモ君に連絡が取れるようだったら、早く良くなって帰って来てね! って同僚が言ってたよーって伝えておいてくださいねー」

 女性店員が言う。私だって連絡したいが——ここで彼らに連絡先を聞くのはまずいだろう。無難に私は「はい」と答えることにした。


 結局奥田君には会えずじまいのようだ。私は肩を落として珈琲に口をつけた。


(おいしいな——)

 昨日あんなことがあったのに、私はこんなに落ち着いていられている。ここが店内だという安心感もあるのだろう。警察に連絡するのは珈琲を飲んで一息ついてからでもいいだろうと思った。


(私ごときが思いつくことだ。きっと警察もすぐにたどり着く)

 ゆらゆらと立ち昇る湯気を眺めながら、私は少しずつ昨日のことを思い出している。


(現実じゃないみたい)

 しかし今の私にはこれが何よりの現実だ。


(昨日、本当に奥田君に会えてよかった)

 一人だったら、きっと私はもっと取り乱して、何もできなかっただろう。こんなに落ち着いた気持ちで珈琲を楽しむことも出来なかったに違いない。


(今日会えなさそうなのは残念だけど)

 それは心残りだ。私の推理を、奥田君にも聞いてもらいたかった。


(橋の上で、また会えたりはしないかな)

 思えば、彼の住所を私は知らない。ここから近くに住んでいるのだろうか。偶然会えたらいいのに。

 偶然に——


(偶然?)

 その時、頭の片隅に微かな『引っ掛かり』のようなものを感じた。


(何だろう。この感覚)

 急速に昨日の『音』が脳内で自動再生されていく。


 島田の引きつった声、川の音、道を走る車の音、コンビニの入店音、カギが開く音、シャワーの音、奥田君の心配そうな声、パトカーのサイレン、井上さんの声、大家さんの声。


 どうしたというのだ。

 一体何に引っ掛かっているんだ私は。


 私は耳をふさいだ。耳をふさいで目を閉じた。思い出せ、私。そして考えるんだ——。珈琲を飲んでクリアになった思考は、ぼんやりとした引っ掛かりを徐々に明確なものにしていった。


 輪郭が線となって形が露わになっていく。


(まさか——)


 もしかして私は、とても大事なことを見落としていたのかもしれない。

 昨日の帰り道。私は確かに——


 背筋が凍りそうな感覚が私を通り過ぎて行った。

 どんどん事件の輪郭がはっきりとしてくる。そして見えてくれば見えてくるほど、私は恐ろしくなっていった。行き場のない恐怖。にわかには信じられない。しかし、考えれば考えるほど、明確に浮かび上がってくる事実があった。


 私は慌てて店内を見回して、あるものを探した。

 どこかにあるはずだ。飲食店だもの。どこかに。絶対。


 それはすぐに見つかった。私の予想通り——恐れていた通り——のものが見つかって、私は心臓が凍り付いたようだった。


 喫茶店の入り口近くのメッセージボードに、『純喫茶ブリッジ』の営業時間が書かれている。

 そこにはこうあった。


『 9:30 ~ 17:30 (L.O. 16:30) 』

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