文学とジェンダー

 皆さんは、小説や詩を書くとき、視点人物の性別をどのように決めていますか?


 私は性自認が女性なので、自分の体験から何かを書こうとすると、視点人物は女性になりやすい。しかし、かつていちど視点人物を「小学生の男の子」に設定して、詩を書いたことがある(公開しておりません)。するとどうだろうか。なんだかのびのび書ける。精神的な負担が少ない。なぜか。

 読者からの性的な視線を想定する必要がなくなったからだ。女性であればほとんどの人が、幼い頃から、痴漢や露出狂の被害に遭う。ネットの広告には、顔は幼いのに巨乳の女の子の絵がバンバン出てくる。主体を男の子にすれば、そんなことを思い出さずに創作できるのだと気づいた。もちろん、幼い男の子の性被害も多いので、以上述べたことは、私の主観的感想である。

 日本はジェンダーギャップ指数が著しく低い国だ。そしてそれは創作にも影響を与えているであろう。男性は性的に欲望する側で、女性は欲望される側、といった無意識の固定観念がないだろうか。当然そうじゃない作品もたくさんあるだろうが、私は、自分が女性を描くとき、その女性性を嫌悪したくなるときがある。

 また、これまで述べてきた中でLGBTQ+の人たちが抜け落ちてしまっていることも自覚している。男女二元論ではない捉え方が必要なのは言うまでもない。


 世のジェンダーバイアスに対する、文学の可能性と限界を考えずにはいられない。

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化石のとれそうな場所で 森本ヴィオラ @morimoto_viola

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