第5話

「色々、頑張らないとな」

 と、彼は言った。華穂が、歩くのをやめたので、彼も足を止めて「頑張ってからだな」

「何が?」

 華穂は尚も笑って肩をひくひくさせながら、「何の話し?」

「何もかもの話し」 

 と、宏彦がちょっと格好を付けて、歩き出そうとすると、後ろから華穂が、

「中村君!」

 何やら深刻な、悲痛ですらある発音、今どうしても言わなければならないことがある、というような声色で宏彦に呼び掛けたものだから宏彦は、もしや? と期待感に一気に血が滾るのを感じつつ、

「え?」

 慎重に振り返った。

「私の家、ここなんだよね」

「あはぁ。そうだったんだ。そうかそうか。じゃあ、ここで」

「うん。また暇があったら遊ぼうね。今日は楽しかった、ありがとう」

「僕も。俺も楽しかった。じゃあ、また、ということで」

 じゃあね、と華穂は手を振って、アパートの車庫を横切り、建物の二階へ行くための階段を上りながらもう一度、今度は無言で手を振って消えた。

 宏彦は深く息を吸って、ゆっくり吐いて、電灯もまばらな夜の道を再び歩き出した。ぶるぶる、と震えが来た。見上げると半月にうっすら雲がかかっていた。

 これが一ヶ月前のことである。

 つまりこの一ヶ月後に宏彦はその口腔に緑色のビー玉を含んで、華穂のアパートを訪れることになるわけなのだが、この一ヶ月の間、二人は一度も接触をしていない。つまり宏彦と華穂のやり取りはこれで全て説明してしまったことになる。だがこれでは全然充分ではない。これだけでは、彼が何故華穂にビー玉をプレゼントすることを思い付いたのか、の説明としては足りない。だからここからは、「デート」の後の、宏彦の思考の動きを説明する必要がある。

 まず、「デート」の後、丸三日間宏彦は、比喩ではなく熱を出した。39℃の高熱にうなされながらほとんど眠り続け、ずっと華穂の夢を見、たまに目覚めるとうわごとのように神だ、神だと呟いた。

 四日目の朝、熱は引いたが、相変わらず華穂の表情や言葉が彼の頭を占拠し続けた。ネットゲームなど下らな過ぎてやる気も起きず、ベッドに横になったままひたすら華穂のことを思い起こして過ごしたが、その夜、彼はがばとベッドに上体を起こし、次のように呟いた。

「ていうか、これで終わり?」

 彼は何となく、この後もまた華穂と会うという風に具体的にではなく、思っていたが、冷静に考えてみると、もう華穂と会う機会はないのではないか、ということに気が付いたのである。

 次に会う約束などしていない。恐らく華穂の内部では、久しぶりに級友と出会ったので、一日楽しく過ごしました。楽しかったです。ということで、一段落着いているのだ。電話番号も知らない。恐らく華穂は携帯電話というものを持っている筈だが、聞いていないし、宏彦は携帯など持っていない。自宅に固定電話は設置されているが華穂に教えてはいないから、向こうからかかって来ることも有り得ない。連絡の取りようがない。

 幸い彼は華穂のアパートを知っている。部屋番までは知らないが、表札を探すかあるいは郵便受けの名前を探せば恐らく華穂の部屋を知ることができるだろう。

「そうか。俺がまた彼女と会うためには、俺が彼女の部屋に直接出向くしかないわけか……」

 それは非常に難しい、勇気の要ることであるように思われた。彼は具体的にその場面を想像してみただけで動悸が激しくなるのを感じた。

「だってそんなことしたら、確実に『気があるのかな』と思われるよ……」

 宏彦は、とてもではないが、気さくな、何でもない感じを装って、彼女の部屋を訪れることはできないだろうと思った。

「では、もう会わない、のだろうか。俺が積極的に動かぬ限り、そういうことに、なる……。それは、嫌だな……しかし、もし部屋を訪ねるとして、それは一体どういうスタンスで? 『別にあなたのことを好きとかそういうわけではないのですけど、一緒にいて楽しいので、しかも今日暇だったので来ちゃいました』というスタンス? それとも、『僕は人との出会いを大切にする人間でありまして、だからあなたとあの日、偶然出会ったことも大切にしたいと思っていまして、それでこうしてまた遊びに来たんです、他意はないんです他意は』というスタンス? でもそれもなんかあれだしな……そもそも目つきでばれてそうだしな、既に感づかれてる可能性も高いしさ……行けないよ……やっぱし行けないよ……じゃあもう会わないって事? それは嫌だけど……」

 彼はこのようなことを十日近く考え続け、いい加減思考の堂々巡りに嫌気が刺して来、いらいらが頂点に達したのが「デート」の日から二週間後の事。

「ところで俺は、彼女とどうなりたいわけ? 何を俺は望んでいるの?」

 ふと呟いてみたのだったが、それは今、充分考えるに値することであるように思われた。彼は一旦落ち着いて、自分が華穂に何を求めているのか、を考えることにした。

 まず、彼が華穂のことを好きであることは間違いがないように思われた。だが恋人になって欲しいのかと言えば、そうでもない気がした。

「もちろん彼女が恋人になってくれたら俺は狂喜するだろう。だが、それは多分無理だと思うし、別にそれはなんか、求めてない、と思う。俺に惚れてなどくれなくていい、いや、はっきりと、惚れて欲しくないと俺は思う。何せ神だ。もったいない。惚れてなどくれなくていい、……ただ……」

 ただ……の後がどうしても言葉にならなかった。ただ……ただ……。

 彼には相談相手がいなかった。誰かに相談したくてしたくて溜まらなかった。自分はどうしたいのか、彼女とどうなりたいのか。

 一週間ただ……の後に続く何かを探し続けたが見付からず、眠れず、だんだん彼は狂って来る。

「ただ……俺が死ぬ時に、高笑いしながらでいいから、見ていて欲しい」

「ただ……俺が何か努力をする時に、応援などしてくれなくていいから、努力しているのを知って欲しい」

「ただ……俺が……違う……やっぱりわからん」

だがどうしてもこの気持ちを、華穂に伝えたいと思った。よく言葉にはならないこの気持ちと、言葉にできずにとても辛いのだという気持ちと、とにかく分かって欲しいのですという気持ち、とにかく何かお話ししていたいのですという気持ち……。

 言葉以外で、伝えるしかないように思えて来た。何かに思いを込めようと思った。「それがプレゼントというものだ。気持ちを伝えるため、贈る、物質、プレゼント。何かを彼女にプレゼントしよう、そうだ、それなら口実にもなる、わざわざ彼女の部屋を訪れるための口実、プレゼントしたいものがあって来ました、これは至って自然な口実だ、プレゼントしたいものがあるなら部屋を訪れて当然だ、訪れる以外にない、そうしよう、何か上げよう、帽子のお返しだと言ったっていい、何か上げよう。

 「上げるからには何か素敵なものを上げたい。だが俺には自分の金がない。それに高額なものが素敵なものであるわけでもないのは当然だ」

 彼は部屋に一つだけ落ちていたビー玉に目を付けた。何で緑色のビー玉が一個だけ落ちているのか彼は知らなかった。「そんなことはどうでもいい。このビー玉にはこれから意味を与えるのだから。これからありとあらゆる意味と意図とを俺がこれに注ぎ込むのだから、それ以前のビー玉になど、いかなるエピソードも不要だ」

 彼は落ちていたビー玉を無造作に拾い、ぎゅっと握り締めて、

「染み込め染み込め」

 と念じた。手の中のビー玉の感触がつるつるではなく、何かかさかさしている気がした。掌を開いてビー玉を見ると、ほこりがびっしり付いているのだった。

「汚い汚い」

 と呟いて、ビー玉をぽんと口の中に入れ、

「取れろ取れろ」

 と舌でほこりを嘗め取った。口からビー玉を取り出して、再び左手に握り締め、

「染み込め染み込め」

 と念じた。けれども何だかうまく行かない。染み込んで行っていない感じがする。こんなものを渡しても何の意味もない。

「さっき一回口に入れたのに。俺は何てばかなんだ。口の方が何となく染み込む感じがするのに何でわざわざ出したんだ。言葉にしたい何かを染み込ますのに何で手なものか。言葉にしたい何かなら口に決まってるのに」

 彼はもう一度ビー玉を口の中に入れ、舌と上顎で思い切り締め付け、

「染み込め染み込め、色々染み込め、全部染み込め、言葉にならない何もかも、もしかしたら言葉にもなるのかも知れないけど俺の頭では表せない何もかも、染み込め染み込め、全部全部染み込め。そして俺はただ、このビー玉を、俺の彼女に対する思いとか、彼女に対するもの以外の思いとか、思い以外の俺の何かとか、何もかも染み込ませたこのビー玉を、どうか持っていて下さいと彼女に頼もう。どうかどうか捨てないで下さいと頼もう。それくらいなら俺にも言える。なんかよく分からないんですけど、ただ一つ言えるのはこれをどうしてもあなたに持っていてもらいたいということなのですと言おう。少なくともこれの方が、『好きです』なんて言葉よりも一億倍この感じを伝えることができるだろう。だから染み込め。しっかり染み込め」

 この時から彼は昼も夜もなく、ビー玉を嘗め続け、一週間後の夕方近く、

「染み込んだ! 染み込んだぞ!」

 そのように、呂律の悪い発音で叫ぶと、もちろんせっかく染み込ませたものが流れ出てしまわないように、ビー玉は口に入れたまま、家を飛び出た。睡眠不足のためふらふらではあるが、妙に目をぎらつかせながら、つつじの花壇の斜め裏、華穂のアパートを目指した。

 というわけである。これが、宏彦が華穂の部屋で、口からビー玉を吐き出すことを決意するに至る過程である。

……ところで、……これは言わずもがなの事なのかも知れないが、彼が言葉にできないと考えた部分が何であるか。言ってしまえば、何のことはない。彼は人とのつながりが欲しかったのだ。もっとざっくばらんに言ってしまえば、友達が欲しかったのだ。

 七年もの間、彼は一人っ切りで生きて来た。父や母と話しをすることはあったが、必要最低限の言葉で、できる限り感情も隠して話した。後ろめたさが先に立ち、迷惑をかけているという申し訳なさ、期待にはとても添えない人間になってしまったことに対する申し訳なさと、屈折した反感、そういったものが邪魔をして、決して素直な言葉を発することがなかった。人間同士の会話ができなかった。だからこの世界で、誰一人、宏彦の本当の気持ちを知っている人はいなかった。ただ彼は誰かに自分を知って欲しかった。人間は一人ではやはりだめなようだ。喜びも悲しみも、向上心も腹痛も、誰かに知ってもらって初めて自分のものとなる。それなのに彼には自分を悪意に満ちてであれ、好意を抱いてであれ、知っていてくれる人が一人もいなかった。彼の起こす何事か、彼の考える何事かについて、判断を下してくれる人がいなかった。だから彼の思考も行為も全て放射状に散って行き、跳ね返ってくることがない、彼の元に返ってくることがない。自分の思考や行為が、事実考えられたとか、事実行われたとかいう実感を彼は抱けない。叫んでも、それを反射してくれるものがない。彼が光っても、光らなくても、いずれにせよその光を受ける何者かがいなければ彼はその光を認識できない。

 だから友達が欲しかったのだ。彼の言葉に反応してくれる友達、彼の動きに目を背けるか、反吐を吐くか、とにかく彼がここにいるということを知ってくれ、それを彼自身に、「お前はいるな」と教えてくれる友達。

 無人島にいるとする。そしてある時、その島に他人というものが漂流して来た時のことを想像すれば、……。それが人間でさえあれば、何としても貴方は彼に解釈されたいと願う筈だ。貴方が歌えば彼はそれに聞き惚れたり、苦虫をかみつぶしたような顔をしたりしてくれる。貴方が泣いてもしかり、怒ってもしかり、踊ってもしかり。

 彼の場合、この気持ちと、単純な性欲とがこんぐらがってしまって、わけの分からないことになってしまっているのだが、整理すれば、「宏彦は華穂に対して欲情しており、また友達にもなって欲しいと思っている」ということだ。多分それだけのことだ。それを一緒くたにしているから、「神だ……」なんてことになる。だが華穂は神でも何でもない。ただ宏彦は華穂に、およそ一人の人間が、他人に望みうる全てのことを一気に望んでいるだけなのだ。他に誰も知らないから。華穂しか知らないから。

 ――だから彼が、ほんのちょっとバイトでも初めて、そこの人間とそれ程深くなくてもいいから交流を持てば、華穂に対する思いは「恋」とか「欲情」とかいうカテゴリーに簡単に当てはめることのできるものだと気付けたに違いない。

 だが彼は焦り過ぎた。

 既に彼は意を決して行ってしまったのだ。西の端の部屋、茜射す203号室において、

「手を、……出してもらえますか」

「え? 手?」

「はい、手を……。渡したいものが、あるんです」

 華穂は恐る恐る、左手を彼の方へ伸ばしかけたが、彼がその手を取ろうとすると、すっと手を引っ込め、

「なに? どうしたの? 何か変じゃない?」

 と言った。華穂は笑おうとしているようだが、頬は引きつっている。「ねえ、汗、すごいよ?」

「ごめん。変かも知れない。汗、ごめんね。でも、手を出して下さい……。どうしても渡したいものがあって……」

「……何? 何をくれるの?……」

「……言葉では無理なんです。言葉では……、だから染み込ませたんです、必死に。お願いします。できる限り説明はしたいと思ってます。でもきっと言葉じゃ無理なんです……だからまず手を出して下さい……」

 華穂は恐る恐る手を差し伸べて来た。手の、甲を上にして。宏彦はその手を丁寧な仕草で掴み、裏返した。つまり、手の平を上に向けさせた。そうしてその手の下に、自分の両手を添え、ゆっくりと首をうつむけ、口が華穂の掌の真上になるように調節した。

「何?」

華穂は努力して明るい声を意識したような発音で言ったが、宏彦には聞こえない。宏彦は華穂の掌の上で俯いたままきつく目を閉じ、小刻みに呼吸し、きっと伝われ、ゆっくりと口を開いた、とろり。緑色のビー玉が、彼の唇から華穂の掌に、糸をひいて落下した。その瞬間宏彦は、添えた自分の両手から、華穂の手がもの凄い勢いで引かれるのを感じた。

「何すんのよ! 汚い!」

 ビー玉が華穂の掌に乗った瞬間に、彼女が反射的に手を引っ込めたため、ビー玉は絨毯の上に落ちた。唾液にまみれたビー玉は無惨にも絨毯のほこりを一杯に付着させながらしばらく転がって、やがて音もなく止まった。

 宏彦は唖然としてその様子を見ていた。

「ほんとに何してんのよ気持ち悪い! 出て行って!」

 宏彦は、説明しなければ、と考えた。彼女は、何か誤解しているようだ……。

「ふざけないでよ! 何をする気だったの? 出て行け! 早く! 早く!」

 まず何を言うのだっけ。何からまず、説明するのだっけ。ああ、何も言えないから、説明できないから、ビー玉にそれを託したのだっけ。でもビー玉はもうほこりにまみれて、死んでしまった、何もかも、詰め込んだのに、あんな所に転がって、あんなに白くなっちゃって……

 その悲しみを、華穂に伝えたいと思い、彼女の方を見ると、見たことのない人が、鬼のように顔を真っ赤にして、額にぶくぶくと血管を浮き立たせ、左手を執拗に絨毯に擦りつけながら、何かを叫んでいる。呆然としてその鬼を見ていると、鬼はやはり叫び続けながら立ち上がり、宏彦の右肩を思い切り突き飛ばした。出て行けと言っていることが、やっと分かったので、宏彦が立ち上がると、鬼は彼の身体を乱暴に、玄関の方に押しやりながらドアを開け、玄関に揃えて脱いだ彼の靴を思い切り蹴って外に出した。宏彦が靴を追って、玄関を潜ったと同時にドアが思い切り閉められ、中から、変態、勘違いしやがって! という声が聞こえた。

 宏彦は靴を手に抱え、階段を下り、下りきった所で靴を履こうとした。夕日に頬を照らされながら右の靴を履き終え、左の紐を結ぼうとしていると、首が痒くなったので首を掻いて、伝わらなかった、と呟いた。   


おわり

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ビー玉に注入してるつもりの存在意義は確固たるエトセトラ 天丘 歩太郎 @amaokasyouin

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