第4話

 やがて二人は駅前に着き、昼食を食べようということになったのだが「何食べようか」と華穂が言って、宏彦は少なからず困惑した。こういった場合、何を食べるのが適切なのか、ファーストフードで良いのか、それとも小洒落た店で食べるべきなのか、だが宏彦は小洒落た店は愚かファーストフード店すらろくに知らない。七年も外に出なかったのだから当然だ。マックという存在は知っていたが、あまりに風情がないのではないか、面白味に欠けるのではないか、と考え過ぎ、何とも言えないでいると、華穂が「鳥、食べたいかも」と言ったので、ケンタッキーになった。

 宏彦は華穂に付いて自動ドアを通りながら、うまく注文できるだろうかと不安だったが、華穂が慣れた様子で、6ピースのパックを頼んで分ける方向で良いかと提案し、宏彦がよく分からないまま頷くと、「飲み物何がいい?」と華穂が聞き、「コーラ」と答えると、注文も華穂がやってくれた。宏彦は自分の情けなさに歯噛みした。何としても社会復帰したいと切実に思った。

 しかし土曜の午後の、親子連れ、恋人達、友達同士のグループなどでほぼ満席状態の店内の雰囲気は、耐えず宏彦を圧迫した。人通りのない道ですらびくびくしてしまう宏彦である。実を言うと店に入る前から、街を楽しげに、あるいは普通に行き来する人々の目が自分を嘲笑しているような気がして苦しかった。子供が泣き叫び高校生が笑いさんざめき、店員はがさつな態度で椅子とテーブルを所定の位置に戻す。鳥を食いちぎり咀嚼する人々、人前でものを喰うことに何の疑問も抱かない、幸福な人々、いつ彼らが自分に気付き、迫害してくるかも知れぬと宏彦は怯えた。

 だから窓際に一列に並んだ座席に、窮屈に華穂と二人並んで座っても気が気でなく、食欲も湧かず、できるだけ俯いていた。ここでもまた彼は大量の汗をかき、テーブルに置かれたナプキンで額を拭わなければならなかった。

 それでも、鳥をむしって手を油だらけにしている華穂の言葉には精一杯の努力で相槌を打ち続けていた。首が震えるのを必死に堪えて。……にも拘わらず、

「……大丈夫?」

 華穂が言った。 

「……何が?」

「何か……挙動不審ていうか……」

「……実は腹が、痛くて」

 宏彦は席を立ち、トイレに向かった。幸いトイレは個室になっていて、鍵をかければ誰も入って来られないつくりになっていた。彼は便器の脇にうずくまり、左手で右手を覆い懇親の力で締め付けつつ、初めのうち静かに震えていたが、やがてくうう、と呻いてから次のように言った。

「俺は今日を楽しみにしていた。彼女と会うのを楽しみにしていた。何故なら俺は彼女のことが好きだからだ。だから会うのが楽しみだった。ほんの少し話して別れるんだろうかと思ったが彼女は、彼女の方から、駅に行こうと言ってくれた。もちろん彼女は俺のことなど何とも思っていはしまい。それでもいい。ただ今日一日を俺などのために裂く気でいるというだけで俺は嬉しいのだ。せっかく彼女が、哀れな俺のために時間を裂いてくれたのだ。なのに俺は知り合いの目を恐れ、全くの他人の目すら恐れ、びくびくと震え、俯いて、今日と言う日を楽しめない。もしかしたら彼女は嫌々付き合ってくれているのかも知れない、いやきっとそうだろう。俺のような醜い、何の魅力もない人間と誰が好んで一緒にいたいと思うだろう? それにも拘わらず彼女はそのやさしさから、俺を邪険には扱わず、楽しいふりをして、俺に付き合ってくれている。何と慈悲深いことだ。今後二度と俺は女性と街を歩くことなどあるまい。二度としゃべることもないかも知れない。今日は人生でたった一度きりの思い出となる日であるべきだ。それなのに俺は恐れている。誰かが嘲笑しているのではないかと、誰かがいきなり殴りつけて来るのではないかと首を震わせ、うつむいて、怯えている……

 どうする……

 帰る?

 ……帰らない。帰るものか。後何時間か彼女は付き合ってくれるつもりでいるだろう。例え嫌々だとしても、嫌々だとしたら尚更、俺は今日という日を大事にする必要がある。楽しむ必要がある。彼女と話しをするのだ。絶対に自分からは裏切りたくない。彼女が付き合ってくれる限り俺は帰りたくない。……

 ……

 でも人が恐い……首が震えてしまうんだ……不安でフライドチキンを食べられない……」

 彼の目には涙が浮かんでいた。

 が、ふと。

 ふと、としか言いようがない。悔しさのために全身を硬直させてうめいていた彼は、ふと、その硬直を解き、ちょっとほうけたのかとさえ思える顔つきをして、

「五回殴ろう」

 と呟いた。特に何かのきっかけがあってそう思ったのではない筈だ。トイレの中には穏やかなBGMしか流れておらず、人を勇気づける種類の会画が飾られていたわけでもない。だからこれは全く彼の内部で起きた変化だとしか言いようがないのだが、

「五回殴ろう、もし、今日俺を少しでも馬鹿にする人間がいたら五回殴ろう、今日俺にほんの少しでもちょっかいを出す人間がいたら五回殴ろう。俺の弱々しい拳では何らの痛みも敵に与ええることはできないかも知れない。五回どころか一回も殴れずに、俺の方が殺される可能性は高い、それでも俺は五回目が当たるまではこの細い拳をふるい続けよう、その後のことは考えない、とにかく嘲笑された瞬間に俺はその他の全ての感性、感覚を完全にカットして機械になるのだ、ただ五回殴ることだけを志す機械、壊れるまでひたすら五回殴るためだけに設定された解除パスも解除キーもない機械、自動的に五回殴る機械。五回殴る、五回殴る。全く壊れてしまわぬ限り五回殴る」

 彼はゆっくりと立ち上がり今、挑むようにトイレのドアを開け、店内を睥睨した。さっきまで、得体の知れない恐怖の対象だった人々が、今はただそれぞれの相手と話したりふざけ合ったりしているだけの、真の、他人だった。

一瞬、恐らく高校生くらいの青年と目が合った。

――ん? 馬鹿にすんのか? え? 早速馬鹿にするのか? それならそれでもいいぞ? だがお前は、俺を殺すか、五回殴られるか、どちらかを選ぶ覚悟はできているんだろうな? 俺はいつでも機械になる準備はできているんだよ!

 宏彦は心の中で呟きながら、青年の事をじっと見続けた。青年は、すぐに宏彦から目を逸らし、というか、実は初めから宏彦を見ているつもりなどなかったのだろうが、同じく高校生くらいであろう連れの女と話し始めた。

「何だ、違うのか、気を付けないと危ないぞ!」

 心の中で呟いて、宏彦は威勢の良い歩行で華穂の元へ戻った。

「すっきりしたんだね」

 先ほどまでとは打って変わった顔つきの宏彦を見て華穂が笑った。

「うん……」

 一瞬、別にうんこしてたわけじゃないけどね、と言いそうになったが踏み止まって、「指針さえ、決まれば」と宏彦は言った。

 これの、何がそれ程華穂に取って面白かったのか、華穂は飲み込みかけていたアイスティーを口から吹き出して、その一部が宏彦の手の甲に飛んだ。宏彦は、そのしぶきが付着した箇所を中心に、全身に喜悦の、二万匹のアリが這い回るのを感じ、震えそうになるのを防ぐために自分も一緒になって笑った。大きな声を出して笑った。

 この後二人は、たまたまデパートで行われていたガラス細工展を見に行った。ガラスで作られたコップや皿、電灯、単なる置物などが展示されており、正直、宏彦は格別興味が湧かないのだったが、華穂はしきりに綺麗だ、幻想的だ、色とりどりだと言って目を輝かせた。宏彦も、ただ華穂とそういうことをしていることが嬉しかったので一緒になって透明だ、つややかだ、グラデュエーションだとガラス細工を批評した。楽しかった。

 しかし華穂が、「うわ〜いいな〜このグラス〜」とか「このお皿欲しいな〜」とか言うたびに、宏彦は自分がそれを買って上げると言い出しても良いものなのか悩んでいた。……恋人同士でもあるまいし、それは変なのかな、でも少なくとも素敵だと思っているものをプレゼントして上げると言われても嫌な気はしないと思うけど、というか別に恋人同士じゃなくてもこういう場合ごくごく軽い感じを装って「買って上げるよ」って言っちゃえばいいんじゃないかな、いやしかしやっぱり「何を恋人みたいなこと言ってるんだ」とか思われるのかな、「もしかしてこいつわたしのこと好きなのかな」とか思われたら困るし……いや、困るのか? 事実俺は好きなのだからそう思われても困ることはないよな……じゃあ、買って上げるって言っちゃおうかな……俺はこの人のことが好きなのだから、「わたしのこと好きなのかな」って思われても問題ないわけなのだから……しかしということは逆に言うと「買って上げる」と言うことは、イコール告白するってこと? え、いや、まだそんな心の準備はできていないよ、さすがにそんな、とやはり奥手に考え過ぎてしまっているうち、結局言い出せず、会場を出てしまった。

 それから二人は取り留めもないことをしゃべりながら(宏彦は主に聞き役だった)、そろそろ夕方になってくる街を歩いた。その時も、アクセサリーを売っている露店、古着屋などにおいて、華穂は二、三の商品を手にとっては目を輝かせ、素敵だ、欲しい、と言うのだったが、その都度宏彦は、その商品が桁違いに高額である場合を除き、もう喉元まで「買って上げようか?」という言葉が出て来るのだったが、やはりガラス細工展の時と同じような奥手な思考のために、出掛かった言葉を飲み込んだ。

 それに――と彼は思った。買って上げる、と言っても、俺の持っている金は、俺の金ではない。これは親の金だ。小遣いだ。こんな金で何が「買って上げる」なものか。買って上げるなんて言えるのは、多少なりとも自分で働いて稼いだ金を持っている人間だけ、だよな……。

 滴の形をしたイヤリングを手に取ってうっとり眺めている華穂の横顔が夕日に照る。それを見ながら、宏彦は切なかった。自分の金と言える金が一円もないことが切なかった。そもそも華穂は恐らく宏彦に何かをもらっても宏彦が期待するような意味で喜びはしないだろうということが切なかった。きっと華穂が楽しそうにしているのは、単に誰かと一緒にいる場合いつでも楽しく過ごそうと心懸けているだけのことなのだろう、別に宏彦といることは、彼女にとって特別な意味はないのだろう、それは重々分かっているつもりなのに、心の片隅で、「もしかしたらこの人は俺に多少なりとも好意を抱いてくれているのかな」と思ってしまっている自分が切なかった。

「疲れた?」

 少し長く黙ってしまっていた宏彦に、華穂が言った。

「いや、そんなことないよ」

「ごめんね、何か、私の興味のある所ばっかり寄って」

「全然……」

「何か、買って上げようと思うんだけど」

「はあ?」

「この前給料日だったし。中村君ニートだから何か買って上げるよ。記念というわけでもないけど」

「……。……」

 宏彦は、構図を整理する時間が欲しかった。考える時間が欲しかった。宏彦に何かを買って上げると申し出た華穂の思惑について。そのタイミングが今であったことについて。「中村君ニートだから何か買って上げるよ」について。「記念というわけでもないけど」について。

が、それは彼に取ってなかなか複雑な構図であるように思われ、簡単にはまとまらず、結局よく分からないまま、帽子を買ってもらった。1時間以上かけて華穂が選んだのは、ノッポさんがかぶっていたような、緑色の帽子だった。

 マルイを出ると日は完全に落ちていて、気温も急に冷えたように思われた。二人は屋台でクレープを買って(これを宏彦は、「せめて」と思い華穂におごった)、それを食べながらゆっくり、帰ることにした。

 宏彦は華穂と並んで歩きながら、だんだん別れる時が近付いて来るにつれ、何か言うべきことがある気がしてならなかった。だがそれをどのような言葉にすれば華穂に分かってもらえるのか分からないし、その前に彼自身その気持ちを把握し切れてはいなかった。

 駅を離れてほんの少し歩いただけでもはや電灯もまばらな、閑散とした雰囲気の道になった。やがて華穂は、クレープを食べ終わると、べたべたになった手をティッシュで拭いてから、さっき買った緑色の帽子を宏彦の頭にかぶせ、

「うん、やっぱりよく似合うわ」

 と言った。宏彦は何とか自分の気持ちをうまく彼女に伝えられないかと考え、しかしうまく行かず、少し黙っていた。何を俺は言いたいのだろう? 

 もしこの気持ちをストレートに表現するとすれば、それは嘔吐という形が近いだろうと思われた。けれどもおうえ、おうえ、と激しく嘔吐して見せた後で、やはりその嘔吐について膨大な数の言葉を尽くして説明しなければ、華穂には伝わらないだろう。嘔吐して、その後に、どんな言葉も出て来ず、ただ吐いただけで終わる、という事態は絶対に避けなければならない。

 彼は諦めて、

「ありがとう」

 と言った。それがあまりにも重々しい発音だったから、

「おおげさ!」

 と言って、華穂は激しく笑った。その様子は、あまりにも明らかに、宏彦の華穂に対する思いと、華穂の宏彦に対する思いとの差を表しているように感じられたが、何故か彼は、わざとではなく、彼女と一緒に声を上げて笑うことができた。

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