逢魔が刻の面
尾暮朔弥
逢魔が刻の面
昼と夜が溶け合い、全ての存在を曖昧にする刻限、人は「逢魔が時」「黄昏時」と呼ぶ。
そんな刻限にまつわるある一つの噂がある。
一人で道を歩いていると、遠くなのか近くなのか分からない距離に一つのぼんやりとした灯りを見つける。
しばらく歩いていると、その灯りは提灯のものであり、そこには一つの出店がある。時間も時間なので、店番をしている人物の顔をはっきりと認識することはできない。
提灯に照らされて見えるのは「面 売ります」と書かれた板と商品らしきお面のみ。
お面は巷で見るようなものではなく、笑っていたり、泣いていたり、怒っていたりと独特の雰囲気を醸し出している。
不気味だが、何故か好奇心の方が勝ち一つお面を手に取る。
すると店番をしている人物が鈴を転がしたような耳に心地の良い声で「貴方に差し上げます。吞み込まれないように」と言うと、すぐに店仕舞いをするべく、広げてあった風呂敷にお面を仕舞い、風呂敷を背負いあげ、提灯を片手に下駄をカラコロ言わせながら夕闇に溶けていった。
「…え?それで終わり?そのお面を買った人はどうなったの?」
「知らないよ。私が聞いた噂はここまでなんだから、その後を強請っても出てこないからね。」
お昼休憩の時間、
「中途半端な終わり方だね。そんな噂が巷で流行ってるなんて不思議」
「所詮、人間は噂が好きなだけで、内容はさほど気にしてないんじゃないかな?意味が分からない噂ほど人の気を惹くものはないだろうし、期待するだけ損だよ、損」
弘子はそうあっけらかんと言い放ったことで、噂話はここで終わり、二人はまた仕事や愚痴についての話に花を咲かせた。
多恵は自分の仕事をすぐに終わらせて、夕方には帰路に着こうとしていた。つい先日まで大きなプロジェクトがあり、夜遅くまで、ひどいときは会社に泊まり込みで働いていた。それほどまでにそのプロジェクトは価値があり、何としてでも成功させたいという気持ちが勝っていた。それが一段落し、少し仕事から離れるべく、今日は早々に仕事を終わらせた、という次第である。仕事自体は好きなため苦ではないが、流石に身体に無理を強いたため、悲鳴を上げていた。家に帰ってから夕ご飯を作る気力も湧かないだろうと見越して、駅で蕎麦を食べ、家までの道のりをゆっくりと歩いていた。
ふと多恵は弘子が話していた噂話と同じくらいの時間になりつつあることに気付いた。さして気に留めていなかったが、やはり気味が悪いことに変わりない。周りを窺うが人は誰もおらず、家まで続く道には自分のみだった。
前をしっかりと見据えて歩いていると、遠くの方にぼんやりとオレンジ色の光が見えた。光はゆらゆらと動いているため、電灯ではないことは分かったが、日は沈みかかっていたため詳しく見ることは出来ない。いずれ歩いていれば分かるだろうと思い暫く歩いていたが、その灯りとの距離は一向に縮まらない。多恵はじわじわと不信感と恐怖に蝕まれていった。あの噂話の状況に酷似していることを頭では理解しているが、認めたくない。人は得体の知れないものに惹かれると弘子は言っていたが、実際にその状況に置かれると、そう呑気なことは言っていられない。早くこの悪夢のような状況から抜け出すべく、ただ一心不乱に歩いていると、灯りとの距離が少し近づいていることに気付いた。もし噂の「御面屋」があったとしても通り過ぎればいいだけの話だと自分に言い聞かせてまた歩みを進めた。
「もうし、そこの人」
自分の鼓動以外の音を耳が捉えた瞬間、心臓が飛び跳ね、体が硬直した。その音を聞き、歩みを止めるまで自分が目を堅く瞑り、冷や汗をかいていたこと事に気が付かなかった。
おもむろに声のする方を見ると、まず目に入ってきたのは赤い提灯と「面 売ります」の一文。提灯の灯りに照らされた下には様々な不気味な面が広がっていた。多恵の視線は地面へと移り、上へ向かっていく。スニーカーやパンプスが普及している現代社会からかけ離れた高脚の下駄に裾をふくらはぎより上にきゅっと上げたもんぺ。落ち着け。最近では普段着で着物や作務衣を着ている人を見かける。もんぺと下駄を身に付けている人だっているはずだ。
足元で止めていた視線を一気に上げた。提灯に照らされた顔は、最初は闇に埋もれていたが、徐々に提灯に照らされている側のみ詳細に見えるようになった。女のようで、男のようにも見える顔。若くも、歳を取っているようにも捉えることが出来る。笠で隠れている上に、夕焼けのせいでどっちつかずに見えるのだろうか。いや、それだけではない。瞬きをする度に印象がころころと変化する。
多恵は不気味な“もの”を前に硬直するより他が無かった。
「面、いらんかね」
心をざわつかせるが、どこか落ち着く、懐かし声音。この人物─お面売りの店主は多恵の方は見ず、笠に隠れた目元は宙を見ているようだった。
店主の言葉に促されるまま、足元に広がった数々の面に視線を落とす。見知った狐やお多福、ひょっとこなどの面は見当たらない。代わりにあるのは、天狗のように鼻が長い面、目の穴の下に幾重にも重なった皮膚が垂れている面、口が耳の辺りまで広がり、がちゃがちゃに並んだ歯が見える面。中には形容し難いものもある。唯一つ言えることは「不気味であり、魅力的でもある」ことだ。この矛盾に多恵は酷く惹かれていた。
「これ…素敵ですね…」
多恵は面を一つ手に取った。目も鼻も口もなく、表面がのっぺりとしている面。面の表面を指でなぞる。どこまでも白く、平らな顔。何もないように見えて、可能性を無限大に秘めている。そんな雰囲気がした。
面を眺めていると、多恵は視線を感じ、店主の方を見た。先ほどまでは全く目が合わなかったが、今は店主が多恵の方を真っ直ぐと見据えていた。視線が交わると多恵は目を離すことが出来なかった。ぎょろぎょろとした漆黒の瞳は全てを吸い込んでいるように思えた。このまま見続けたらこちらも吸い込まれてしまう。多恵は言いようのない不安に襲われ、目を逸らした。
「な、なんでしょうか…?」
店主の方は見ずに、恐る恐る尋ねる。横から衣が擦れる音がして、暗に店主が動いたことを想起させた。今、この得体の知れない、自分を絶えず不安にさせるものはどのような状態にあるのか。面を持つ手に力が入ってしまう。
「お客さん、そんなに面に力を入れると壊れてしまいます。」
「あ、ごめんなさい!」
多恵はすぐさま面を元にあったところに戻し、空いた手を手持無沙汰に、髪の毛に絡ませた。依然として店主の方は見られないため、地面に視線を落とす。すぐにその場を離れれば、多恵を取り巻く不安から逃れることができるにも関わらず、多恵はその場に直立したままだった。先ほど手に取った面のことが頭から離れない。
あの面が ほしい
店主は自分の足元に広がる面を几帳面に並べ直し、元の場所に座り直した。動く気配がないので、多恵は店主の方へ視線を移した。すると、店主は笠の下から覗くように、多恵を見上げていた。視線が交わる。多恵は目を逸らそうとするが、逸らすことが出来ない。身を取り巻く不安の中に、微かな既視感を覚える。胸がざわざわと騒ぎ出す。
「面は、誰しもが持っています。歳を重ねるほど面の数は増えていくのです。世渡り上手は面の切り替えが上手い。世渡り下手は面の切り替えが下手。面の存在に気付くことが難しいのです。そのようなものに対してこの面屋は現れます。ここの面は特別な面。気に入った面が見つかれば、その面を付けるだけで、新たなものになれます。」
店主は突然饒舌になった。目は依然と多恵から逸らすことはない。多恵の瞳の奥を見ている。見透かしている。
「ただ、三つ注意が必要になる。一つ、面をつけ続けてはいけない。二つ、面を得たことを忘れてはならない。そして三つ、面を二度買ってはいけない」
「お客さんは、全ての禁忌を犯した」
店主の言葉が多恵の頭の中で谺する。谺を繰り返し、響き渡り、割れるような痛みが多恵の頭の中を包み込む。痛い。痛い。頭が、割れる。
「面は便利です。しかし、重ねるほどに自分が分からなくなる。お客さんの顔は、どこにあるのでしょう?」
割れるような痛みが無くなり、多恵は息も絶え絶えながら地面に手をつく。身体を包み込んでいた不安感が無くなる代わりに、違和感が湧いてくる。違和感は足元を通り過ぎ、顔に行きつく。多恵はそっと顔に手を当ててみる。多恵は違和感に触れる。先ほどまで顔に凹凸をつけていた目、鼻、口が無くなっている。多恵が手に取った面のように平らになっている。私は、どうやって世界を見ているのだろうか。
御面屋の店主が広げていた風呂敷の、平らな面が置かれていた場所が空になっている。あの面が多恵の顔についているのだろうか。では、今まで“つけていた”顔はどこへ?
多恵は店主の手に何かがあるのに気づき、店主の手元へ視線をずらす。するとそこには、多恵の顔──面があった。
「一度につけられる面は一つまで。お客さんはその面を大層気に入っているようだったので、差し上げます。こちらの面はいただきます。それでは」
店主は風呂敷を畳むと、からんころんと下駄を鳴らしながら夕闇の中へと溶けていった。
後に残された多恵は───
「書類の確認、お願いいたします」
「あ、はい…預かるね……多恵、大丈夫?最近暗いけど…」
「いつも通りです。お気遣いありがとうございます。それでは業務に戻ります。」
多恵はすたすたと自分のデスクへ戻っていく。弘子はその後ろ姿をただ眺めていた。
「藤島さん、なんか雰囲気変わりましたよね」
隣の席の加奈が弘子にひっそりと声をかける。
「雰囲気どころか、性格も一八〇度変わっちゃったみたいだよね。」
「あれ? 弘子さん知らないんですか?」
「え、何を?」
「藤島さんって開発に移動してくる前は内向的だったんですよ」
弘子は加奈の方を訝しげに見た。
「噓でしょ? 多恵はこっちに来た時から明るかったよ?」
「いや、本当ですって。だって私、前は藤島さんと同じ経理にいましたけど、本当に暗かったんですよ。一応笑顔で受け答えはしていましたけど、どこか遠慮がちで、おどおどしてた印象でしたし。寧ろこっちでの藤島さんの姿を見て、びっくりしましたよー。」
「にわかには信じがたいけどなー…こんな短期間で性格や雰囲気まで変わる?まるで多重人格みたい」
弘子は多恵の方をちらっと見た。その時目に飛び込んだ多恵の姿に一瞬息が止まった。しかし、目を逸らすと元の多恵に戻っていた。
「(疲れてるのかな…今日は帰ったらゆっくりしよう)」
弘子は目を揉むと、仕事に戻った。
弘子が見た多恵の顔。目も、鼻も、口もない、のっぺりとした肌のみが広がる顔。
はて、弘子の幻覚だったのだろうか。
逢魔が刻の面 尾暮朔弥 @syunnka_saku39_syuutou
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