そして、彼は在るべき場所へ

 厳かなまでの声で告げられた言葉に、詩織は目を瞬き。祥也は、唇を噛みしめた。

 どういうこと、と問いたいけれど言葉が紡げない。

 奏は、自分が祥也であると言った。それは一体どういう意味なのか。

 祥也は祥也としてここに居る。奏は、奏としてそこに居る。

 二人が同一の存在という意味がわからなくて。それなのに、何故か不思議と言葉は詩織の心に静かに馴染んで行っている。

 困惑した詩織は、視線だけで祥也の様子を伺った。

 そして、目を見張った。

 祥也の顔には、戸惑いも躊躇いも無かった。けして逃げることなく相手と対峙しようという意思だけがある。

 奏が自分にとって何であるのかを理解した上で、向き合おうとしている。

 真っ直ぐな眼差しが交錯し、やがて。奏は静かに答えとなる続きの言葉を紡ぎ始める。


「正しく言えば、先の世の貴方……深山彰俊から欠けた一部。伝えられなかった言葉と、果たせなかった約束への想い」


 欠けた一部。

 その言葉に、詩織は弾かれたように小さく叫びかけた。

 自分には決定的な『何か』が欠けているから誰にも応えることが出来ない。応えたくない。だからこそ『違う形』になれないと……変われないと言っていた祥也。

 祥也の中にあった、罪の意識を伴う欠損。それが、奏ということなのだろうか。

 あまりに荒唐無稽だと笑うことなど出来ない。今この場自体が、時を越えた奇跡に満ちた不思議で出来ている。

 彰俊の欠片だという青年は、過ぎし時に思いを巡らせるように目を伏せた。


「僕は、死を迎えて、輪廻に際しても。それだけはけして忘れたくないと拒んだ貴方が、自分から切り離した心の欠片であり」


 己の胸にそっと手を当てて、奏は自らに戻って来た真実を語り続ける。

 噛みしめるような声音で、自らに……そして祥也に言い聞かせるように。


「深山彰俊の中にあった芽依子への想いであり、最後まで抱えていた後悔、そのものです」


 もう一度瞳を開いた奏の眼差しは、少しの揺らぎも迷いもなく祥也を見つめる。

 人の内から生じたものでありながら、人ではなかったことを明らかにする青年の言葉はあくまで真っ直ぐだ。

 冗談だと思う余地などない。

 彼は彰俊から失われた欠片であり、祥也が自分に感じていた罪の意識の理由だった。

 輪廻で全てを失ったとしても、それだけは失いたくないと願った心が人の形を為した存在なのだ。

 奏は僅かに苦笑いを浮かべ、更に続ける。


「遠くに、約束を感じながら、彷徨い続けました。長い、長い間、探し続けました。そして、漸くここに辿り着いた」


 彰俊が暮らした国から、彰俊が生きていた時代から、時も距離も遠く隔たった今。

 遥か彼方にある音を失った自鳴琴の中にある約束、それだけを頼りに彷徨い続けて。

 時の流れの中に自分が何であったのかも失いながら、奏は辿り着いた。

 詩織と祥也が共にある、この懐かしい場所に……。


「後悔とは、芽依子を一人で逝かせてしまったこと。そして……戻れなかったこと」


 自分自身の欠片から静かに紡がれる言葉に、祥也は一度目を伏せて深く息を吐く。

 そして、痛みに耐える表情で奏の言葉の後を引き取るように、おもむろに口を開いた。


「俺は、結局日本には戻らなかった。いや、戻れなかったんだ……」


 詩織は驚きに目を見張り、言葉を無くしたまま祥也を見つめてしまう。

 驚愕と困惑の入り交じった眼差しを受け止めながら、祥也は哀しげな表情のまま苦い声音で続ける。


「お前の死の報せが届いて。自分の夢を追うばかりで、お前のことに気付いてやれなかったことを後悔し続けた」


 何故、国を出る前に気づいてやれなかったのかと自分を責めた。

 芽依子は、確かに何かを言いたそうにしていたはずなのに。それすら気づけない程に、彰俊は夢に心を奪われていた。

 ただ、手が届いた願いを離さない事に必死で、何よりも愛しい存在の心の翳りが見えなかった。

 夢を手離したくないが故に、無意識のうちに見て見ぬ振りをしたのではないかとすら思ってしまった。

 芽依子の弔いに、戻ろうとした。

 だが、自分を責める心がそれを阻む。


「何度も帰ろうとしたが、その度に自分が咎人だという思いにとらわれて」


 何度も、彼女の墓に参る為に。芽依子に一言でも謝りたいと思って、帰国しようとした。

 だが、出来なかった。

 気づかなかった故に一人で逝かせてしまったという罪の意識は、終生消えることはなく。

 どれほどの時がたっても、彼は二度と故郷の土を踏むことができなかった。


「そして……お前の墓に参ることもできないまま、あの国で死んだ」


 現実から目を背ける為、がむしゃらに務めに勤しんだから、気が付いた時には立身こそ果たせた。功績をあげたとして、名を残すことは出来た。

 けれど、己の過失で愛しい者を失ったという罪悪感に死の間際まで苛まれ続けて。

 深山彰俊という男は、誰もが羨む経歴と埋められぬ虚しさを抱いて、異国にて没した。


「約束を守られなかったのは、お前だけじゃない。俺もなんだ。いや、俺がお前のことに気付いてやれていたら、俺は……」


 必ずお前の居るここに戻ってくると約束したのに、と呻くように呟く祥也の瞳からも、静かに涙が伝っていた。

 欠片であった奏を傍に取り戻したことで、欠けた場所はあるべき形として埋まっていくはずだった。

 だが、それを拒んだのは祥也自身だった。

 祥也は、奏という存在を拒絶した。

 奏が何者であるかわからない。自分にとってどんな存在であるかわからないが『そこに在ってはならない』と拒んだ。

 忘れたくないと願って切り離した欠片は、彼にとって大切なものであると同時に、怒りの対象ともなっっていたからだ。

 お前は、芽依子を看取ってやれなかったのに。何も気づいてやれずに、自分の夢だけを負い続けて、失ったのに。

 お前に、果たせなかった約束を悲しむ資格などない、悔いる資格などない。もう、お前に芽依子を想う資格などない。

 自らに対する怒りが、欠片を取り戻そうと望む心を戒めた。

 一度は取り戻しかけたものを、自らまた切り離そうとしたことで。祥也は不安定となり、倒れてしまった。

 今に至るまでにあった出来事が何に原因を持つものなのか、全てが繋がる。

 詩織は激しく首を左右に振って、祥也に縋りつく。


「違うの、兄様は悪くないの。私が、本当のことを言わなかったから」


 夢を叶えて欲しいからと、芽依子は病のことを隠していた。本当のことを伝えずに、彰俊を送り出した。

 けれど、それ故に彰俊は罪の意識に苛まれ生涯帰国が叶わなかった。

 彰俊が苦しみ続けた原因は芽依子にあるのだ。だから、そんなに自分を責めないで欲しいと詩織は必死に祥也に縋った。

 でも、祥也やそれを拒むように自らを責め、悔い続けている。

 苦しい、哀しい。せっかく、こうして再びこの場所で会えたのに。こうして、触れられる程近くに居るのに。

 本当に伝えたい言葉が、あったはずなのに。

 真実を伝えられず後悔したからこそ、後悔したくないと思うのに……!


「貴方がたが伝えたかった言葉は、それではないでしょう?」


 静かに響いた言の葉に、二人が弾かれたようにそちらを向いた。

 二つの眼差しが向いた先で、奏はゆるやかに首を左右に振り、哀しげに微笑んでいる。


「悔いる思いも分かる。自らを責めてしまうのもわかる。けれど、それではまた繰り返し。このままでは、貴方達が抱いた願いは本当の形で果たされない。貴方達は先へ進めない」


 二人は、それぞれに相手を思う故に後悔に苛まれ、自分を責め続けている。

 それ故に、詩織は芽依子が命を終える間際に本当に抱いていた願いの言葉を口に出来ない。もしかしたら、祥也もそうなのかもしれない。

 過去から繋がる後悔はあまりに深くて、二人の足を絡めとり、今でも過去でもない状態に留めてしまっている。

 だが、それではいけない、と真っ直ぐな奏の眼差しが告げている。

 二人が後悔し自分を責め続ける限り、これからも囚われ続ける。

 過去を暗いものとする想いに戒められて、真実何処にも行けなくなってしまう。

 このままではもう二度と歩き出せない。二人は、もうどんな形に変わっていくこともできない。

 奏はゆっくりと祥也へ向かって歩き出した。

 息を飲んで二人が見守る先で、奏の身体に目に見えて分かる変化が生じ始める。


「かなで……?」

「僕は、あるべき場所に戻ります」


 温和な雰囲気を湛える祥也によく似た青年の身体は、徐々に淡い光に包まれ始めたのだ。

 何が起きているのか目を見張った詩織に、奏は微笑見ながら。だが、確りとした声音で己の意思を告げた。

 一瞬、その言葉の意味を理解できずにぼんやりと言葉を失った詩織だが、すぐに驚愕に震える声で彼の名を呼んだ祥也の声に滲む悲痛な響きに引き戻される。


「奏……! お前……」

「僕は、少し休みます。長い間放浪していたら、疲れてしまいました」


 奏は、かつての祥也から……彰俊から欠けた心の欠片。

 そんな奏が言う在るべき場所とは、今も埋められぬ何かが欠けたままの祥也の中。

 でも、そうなったら奏は。

 顔色を変えて叫んだ祥也へと、奏は少しおどけた風に笑いながら言う。

 僅かな寂しさを滲ませながら微笑んでいた奏は、徐々に眩い光となりながら噛みしめるように言葉を紡ぐ。


「自鳴琴での日々は、楽しかったです。素敵な時間を、ありがとうございました」


 自分でも行先がわからない、当て所ない旅だった。

 けれど、その先に辿り着いたのは不思議な懐かしさと優しさのある場所だった。

 共に過ごした日々を振り返り、満ちるのは。ただ、幸せだったという思いだと。

 心からの思いを口にしながら頭を下げる奏に、言いたいことが沢山あるのに。胸が苦しい程に様々な想いが満ち溢れていて、言葉に出来ない。

 でも、詩織は必死に口を動かして。振り絞るようにして声を出そうとして、言葉を紡ごうとして。

 やっと、一言だけ言えた。ありがとう、と……。

 それは、正しくは音になっていなかったかもしれない。聞こえたかどうか、不安になってしまった。

 だが、奏は今までで一番嬉しそうな笑みを見せて、頷いてくれた。

 もはや溢れる光の輪郭となりつつある奏は、心からの願いを二人へと向けて紡いだ。


「本当に伝えたかったことを、今、伝えて下さい。約束を果たして、どうかこれからを」


 ――今度こそ、手を離すことなく。どうか、二人で。


 そう聞こえたような気がした瞬間、目を開けていられない程の眩い光がその場に満ちて。咄嗟に詩織と祥也は瞳を伏せてしまう。

 暫くの間、そのままで居た二人は。やがて、恐る恐る目を開いた。

 そこには、懐かしい旋律を奏で続ける自鳴琴がある。

 緩やかに回り続ける円盤が澄んだ音を紡ぐ楽器の前に、佇む人影は二つだけ。

 周囲を見回したけれど、奏の姿はどこにも無かった。

 もう一度視線を巡らせるけれど、詩織も祥也も、分かっていた。

 奏が自分達の前から消えてしまったのだということを。もう、彼には会えないのだということを。

 いや、消えたのではない。詩織は、自らの考えを否定するように静かに首を左右に振る。

 奏は、確かにここに居る。彼が言っていた在るべき場所……祥也の中に。

 最後にとびきりの笑顔と、未来への優しい言葉を残して。

 奏と呼ばれた青年は、静かに自鳴琴から本当の居場所へと、還っていった……。

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